はじめてのスキー① 感動のバターナイフ
……ああ、本当に来なければよかった。
ついつい、そんな風に愚痴りたくなってしまう。
啓介、樹音、あゆみの生温かい笑みが、痛い。ただ、翔太だけが得意げに俺を見ていた。
◇
――三十分前。
夜はすっかりと明けて、雲一つない青空に主役を明け渡していた。
眠っていた三人――啓介、翔太、あゆみも起きだして、支度を始めている。
「わたし達は、こっちね」
樹音に付き添われてくぐった扉には《スキーレンタル受付》とあった。
「いらっしゃいませ」
オレンジ色のスタッフジャンパーに生成りのエプロンといった装いで、カウンターの奥から女性店員が明るく声をかけてくる。
その奥には膨大な数のスキー、スノーボード、ブーツなどが、見渡す限りに並んでいた。
店員と樹音から色々とアドバイスを受けて、レンタル申し込み用紙を埋め、俺はスキー、ブーツ、ストックを手に入れた。……そう、ここまでは良かったんだよ。ここまでは。
「待ってました。これがハルアキのな」
レンタルから戻った俺たちを待ち受けていた翔太。その手に持っていたボストンバッグを、俺に押し付ける。大きさの割には、さほど重くない。どうやら、貸してくれるスキーウェアのようだ。
「じゃあ皆さん、待っててね~」
翔太はそう言って、俺を更衣室へと引っ張っていく。
……あれ? ケイスケさん。しょうがねーなぁって感じで苦笑いしてるの、なんで?
一抹の不安を胸に、俺は引きずられていった。
◇
「んー、下っぱ戦闘員か?」
「デーモン閣下の手下、って感じかな?」
「汚物はぁ、消毒だぁ?」
好き勝手に言いやがって……
とはいうものの、俺の姿はまさしくその感想の通りで。いぶし銀の合皮素材に、ヘビメタもかくや、というほどリベットが大量に。さらに、肩、背骨、尻、腕、肘、膝といった各所には、ウェアの下にプロテクターが配され。さながら、アメフト選手のような盛り上がりをみせている。
「ほら、初めては痛いものだからさ。これなら痛くなかろう?」
そう言って翔太は、やけに爽やかに笑う。
……いや、それは違うだろ? 翔太よ。
「まあ、これでカッコだけは一人前になったわけだから」
啓介は言う。必死に笑いを噛み殺して。でも。
――ウェアのセンスは別にしてな。
ぼそっとこぼした呟き。俺には聞こえてましたよ、先輩。
「いくぞ! ゲレンデへ」
「おー!」
啓介の掛け声に、俺たち四人の声が重なる。
……俺の一歩がここから始まるんだ。
って、改めて思うと気恥ずかしいが。けれど、そんな考えが浮かんだ。
で。それはすぐに、打ち消されるのだけれど。
――スキー場、最下部。
俺の傍らを颯爽と風が吹き抜けてゆく。
「ちょっとぉ、幼稚園児においてかれてるよぉ。ハルアキぃ」
……少しくらい、カッコつけさせてくれないか? あゆみくん。
ここは、お子様ゲレンデ。
両足にスキーを履くとは、なんと不自由なことか。と心から叫びたい。
月並みな表現ではあるが、そこには生まれたての仔鹿がいたのだ。ぷるぷる。
少し、時を戻してみよう。
「今日は先生と呼んでくれていいんだよ?」
そういった樹音が最初に指示したのは、歩くことだった。
センターハウス前の平らな雪面。人の少ない空間に移動した俺たち。
樹音はスキーを平行に置いて、ストックを両手に握る。
俺は樹音の行動をまね、同じようにスキーを置いて、ストックのベルトを手首にかけて、そのグリップを握った。そして。
スキーを履かずに、いちに、いちに、と行進を始めたのだ。
そこに置かれた、樹音と俺のスキー。その周りを一周、二周と。
いい顔で微笑む樹音。後を追う俺。
いや、ここはスキー場で、スキーをしにきたと思っていたのだが、俺は何か思い違いをしていたのか? 俺の疑問に答えることなく、アイスブルーの背中は進んでいく。
「いい感じにブーツなじんできたかな?」
六周半ほど回ったところ。樹音からの次の指示は、片足だけスキーを付けて歩くこと。
お、スキーを履いた足を出すと、するすると滑っている感覚が伝わってくる。
ほんのわずかの距離だとは思うが、初めての感触に胸がときめく。
ふふん。どうだ。
得意げに踏み出す俺。啓介、翔太、あゆみのスノーボード組からは、何か生温い空気を感じるが、気にしない。
「おー、いいね。じゃ、次は両足にスキー付けて歩こう」
樹音の言葉に、俺は思っていた。スキー、意外と簡単なんじゃ? って。
だがしかし。
「おかしいな? え?」
呟きを漏らす俺。スキーはたしかに滑っている。両足が逆方向に、だけど。
右足を前に滑らすと、左足が後ろにずるり。左足を前に出そうとすると、今度は右足が後ろにずるり。
その場から進めなくなった俺。
樹音は変わらず、にこやかだ。啓介と、翔太と、あゆみも。
皆の笑顔が、俺の背中に突き刺さっている。気がする。むう、痛い。
少しだけ歩けるようになったのを見計らって、俺たちはお子様ゲレンデへと移動したのだった。
もちろん、俺はスキーを担いで。
では、元の時間軸に戻ろう。ぷるぷる。
「先生! ここからどうしたら?」
教えられた通り、カットしたピザの形にスキーを開いて、雪面に立ちすくむ俺。
樹音は、それを満足そうに見やって口を開く。
「じゃあね、今からハルアキのスキーはバターナイフです」
「はい?」
何を言ってるのだろう? とっさに理解できず、声が漏れた。
「で、雪面は焼き立てのトーストね」
樹音の言葉に、啓介が納得の表情を浮かべている。
どうやら間違いはないようだけれど、俺にはまだ理解が追い付かない。
「両足の土踏まず。その下にたっぷりのバターがあると思って。それをトーストに塗り拡げてみよう」
ああ、やっと理解した。そんなイメージを浮かべてみて、ってことだったんだな。
一度、大きく吸った息を少し吐いて。俺はトーストにバターを塗った。
――ず、ずずっ。
「お、おおっ!」
じわり、と滑り出すスキー。とっさに、ぎゅっと内股に力が入る。
と、スキーはその動きを止めてしまった。
「あれ?」
「動き出したら、そのまま薄ーく塗り拡げ続けてみて」
斜面の下から、樹音が声をかける。
よし、もう一度。
――ず、ずずっ。
……ここからだ。薄ーく、薄ーく。
ゆっくりと息を吐きながら、バターを塗り拡げることだけに集中する。
……薄ーく、……薄ーく、……うす、うっ。
ぷはっ!
息が続かなくなって、大きく吸い込んだところで、スキーが止まった。
その俺の横に、樹音が滑り寄ってくる。
先ほどより、さらに満面の笑顔。
親指を立てて、くいっと後ろを指す。
「ハルアキぃ、すごーい」
いつもの調子のあゆみの声に振り向くと。
え。
さっきまですぐ上から見ていたはずの啓介、翔太、あゆみが、いつの間にかゲレンデの随分と上にいる。
そして、ぐるんと天地が返って。振り返った勢いでバランスが崩れた。雪面に倒れ込む俺。
「どう? これだけ滑ってこれたんだよ」
樹音の声音が弾んでいる。なんだか凄く嬉しそうだ。
ざっと見て、五十メートルほどか。オレのスキーが押しのけた雪の、その軌跡がまさにそこに、しっかりと残っていた。
ひっくり返った痛みを感じる間もなく、俺の胸に言いようのない思いがこみ上げてくる。
「んんんーーー!」
俺は、ストックを握ったままの右手を大きく突き上げていた。
「どうだい、倒れても痛くないだろ?」
ずりずりとスノーボードを横滑りさせてやってきた翔太が言う。
いや、確かに痛いとは思わなかったけど。
どうにも翔太のおかげとは言いたくなくて、俺はもう一度バターを塗り始めた。