さあ、いこう 夢にみた場所へと!
――翌週、金曜。
北西からの冷たい風が、街路樹にわずかに残っていた枯葉を吹き飛ばす。
天気予報はこの冬一番の寒気が迫っていることを伝えていた。会社の一帯も雪が舞うかもしれないそうだ。
この日、啓介チームの面々は早々に仕事を片づけていた。普段ではあり得ない時間にチームの島から電源が落とされている。
今夜が、いよいよ出発の時だ。早々に帰宅して、めいめいが深夜の集合に備えていた。
とはいっても、住居が違うのは樹音だけ。翔太、あゆみ、俺に加え、啓介も寮住まいなのだ。
その社員寮の、俺の部屋。
着替えを詰め込んだボストンバッグ。ヘルメットは付属していた巾着袋に収納済み。そこにはヘルメットに合わせて選んだスミスのゴーグルも共に入れてある。
ベッドの前に並べた荷物を前に、俺は悩んでいた。
午後十時半。集合まで三十分。
……眠れなかった。
遠足前の小学生でもあるまいし、とは思うのだが。しかし、どうしても寝付けなかったのだ。
しっかり仮眠をとっておけと、啓介からは指示が飛んでいた。が、それを思えば思うほど、眠気はどこか手の届かないところへと、その姿を隠してしまうのだった。
――コンコン。
眠気を取っ掴まえる。そんな真剣勝負に俺が敗北した、まさにそのタイミングで扉がノックされた。
「ハルアキ、起きてるか?」
「ああ、今開ける」
寝過ごさないか気を回してくれたのだろうか。翔太の声に答え、俺は扉の鍵を開ける。
「起こしに来てくれたのか? 悪いな」
「まあ、それもあるけど。ちょっと手伝ってほしくてさ」
どうやら荷物が多いらしい。
「わかった。オレの荷物、玄関ホールに置いてからショータの部屋に行くよ」
気安く請け負って、俺は翔太へと告げる。
……なんだこれは?
翔太の部屋へと訪れた俺は、その威容――いや異様と言った方がいいか――に二の句が継げずにいた。
とりあえず、翔太の部屋に積み上げられたものを挙げてみると。
・キャスター付きの大ぶりな四角いバッグ。
これは樹音と行ったスキーショップでも見かけた。確か着替えやスキーウェア、ヘルメットなどと、ブーツを一つに収納できて便利なんだと、樹音が教えてくれた。これさえあれば、あとはスキーやスノーボードの板だけ持てばオーケーな代物だそうだが。それが何故だか二つ。どちらもパンパンに膨らんでいる。
・スノーボードが二枚。
両端が丸いものが一枚。別の一枚は片側が尖っていて、反対側は燕尾服のように先が分かれている。翔太曰く、用途が違うんだそうだ。色々と専門用語を交えて説明してくれるのだけれど、俺にはその三割程度しか理解できていない気がする。多分。
・四角いハードケース。
これはカメラバッグか? それにしては大きい気がするが。
「そいつはビデオカメラだよ。業務用なんで嵩張るのが難点なんだ」
どうしてそんなものを持っているのだろうか、という疑問は胸の奥にしまっておくことにした。結局、翔太だから、という答えしか出てこないからな。
・やけにがっしりとした三脚。
まあ、ビデオカメラがあるなら不思議じゃないが……
その他にも何やらよくわからないボストンバッグと、スナック菓子が大量につまったトートバッグが一つずつ。
それらの威圧感にたじろいでいるうちに、集合時間になってしまったらしい。啓介とあゆみが翔太の部屋へとやってきた。
「相変わらずだな」
啓介は特に顔色を変えることもなく積み上げられた荷物を一瞥すると、二枚のスノーボードを無造作に掴み上げて持ち出していく。
「あたしはぁ、これね」
一番軽そうなトートバッグ(お菓子入り)を選んで、あゆみも啓介に続く。
「急がないとジュネさん来ちゃうな」
「そうだな。急ごうぜ、ハルアキ」
俺と翔太は手分けして荷物を運び出す。ずしり、と両手に食い込む持ち手は、先日のトラブルで運んだサーバーよりも強烈に、その存在感を伝えてくるのだった。
玄関ホールには、あゆみと樹音が待っていた。
ジーンズにフリースのジャケット。その上へダウンのパーカーをはおって、頭にはニット帽。示し合わせたかのように同じ着こなしだ。いや、示し合わせたのかも。
「おそいよぉ」
俺と翔太に気付いたのか、樹音との会話を中断して、あゆみが声をかけてきた。ニット帽のせいか、マッシュルーム感マシマシである。
その横で樹音が目を丸くして立ち尽くしていた。その視線の先には、もちろん翔太の荷物の山が。
「……すごいね」
「すみません。まとめきれなくて」
ジュネのつぶやきに、翔太が答える。
「なにしろ、ハルアキのはじめてですからね。色々と準備が必要なんすよ」
「あぁ」
樹音が何やら得心したように頷いている。
むう、どうにも嫌な予感しかしないんだが。まあ、今更それを考えていてもしようがない。
俺は、とりあえず気付かないふりを決め込んで、積み上げられた荷物を運び出しにかかった。
寮の玄関の外。そこには、ちらちらと雪が舞い始めていた。啓介が愛車を回してくる。
銀色のデリカだった。それに巨大なルーフボックスを積んでいる。
「さ、積み込むぞ」
啓介の一声を合図に、皆が荷物を運び始める。
「まずは板から持ってきてくれ」
デリカに積み込んでいた脚立をセットして、啓介が指示を飛ばす。
あゆみのスノーボード。翔太のスノーボード×2。脚立の上で待ち受ける啓介に渡すと、次々とルーフボックスへ収まっていく。
啓介のスノーボードはあらかじめ積んであるのだろうか、ここでは見当たらない。
樹音は、デリカの前方に停めてあった黄色いプジョーへと向かった。俺も荷物持ちにと付き従う。なんせ、今回は樹音が師匠だからな。
プジョーのハッチゲートを開けると、樹音は荷室から一組のスキーを取り出してきた。
パールホワイトに銀色のフレークがちりばめられている。まるで雪を閉じ込めたかのように思える色合い。そこに淡い金色で何か文字が書かれている。崩された書体で、何と書かれているのか読み取ることはできないが、スキーのデザインと素晴らしく調和している。
それがなぜだか樹音に凄く似合うって、そんな確信めいた直感が俺の頭に浮かんで。
「……きれいだな」
ふと、声が漏れていた。
「え?」
その声に振り向く樹音。持っていたスキーを降ろし、右手を巻き付けるようにして支える。
デリカのヘッドライトが、樹音を向こう側から照らしだす。
瞬間、吹きつけた風が、雪煙を樹音の周りに舞い上げた。舞い上げられた雪が、きらきらと舞い降りて。それは、さながら、主を守る雪の精のようだった。
光に浮かび上がる樹音のシルエット。輪郭が煌めく。樹音の持つスキーが、まるで魔法使いの杖のように輝いて見えた。
「え?」
俺は疑問形で返していた。随分と間抜けなトーンだったに違いない。
「あ、えと……、そのスキー凄く綺麗ですね。つい声に出ちゃいましたよ」
ついつい漏れた心の声だ。気恥ずかしさに顔が熱を持っていく。
俺は取り繕うように、樹音に答えた。
「……でしょ」
そう返す樹音の声色からは、俺の間抜けな返事への感情は読み取れなかった。しまったな、呆れられちゃったか。
「さあ、積み込むよ。わたしのバッグよろしく」
俺への指示を告げて、樹音はデリカへと踵を返す。振り返ったその顔は、ほんのりと赤らんでいなかっただろうか。
逆光に紛れてよく判らなかったけれど。
「収まるもんなんですね」
感嘆の声を上げる俺。それを見る啓介の口角がにやりと上がる。頭上に『どや』という書き文字が見えるようだ。
デリカの三列目を半分跳ね上げて拡げた広大な荷室。そこにびっしりと詰め込まれた荷物。それはまるで、タングラムかテトリスかと思えるようだった。
「あれぇ、ジュネさんは?」
「裏の駐車場。俺の駐車スペースに車を停めに行ってる。ジュネが戻ってきたら出発だ」
あゆみの問いに啓介が答える。
「おまたせー」
戻ってきたその表情は、いつもの樹音だった。
「出発するぞー。忘れ物はないか?」
「あいれふぅ」
まだ動いてさえいないデリカの車中。あゆみは早くも開けていたスナック菓子を一口頬張ったまま、器用に啓介の号令へ返事する。
ドライバーは啓介。翔太がナビシートに収まっている。二列目に樹音とあゆみ。俺は半分だけ残してある三列目のシートに潜り込んでいた。
樹音とあゆみの楽し気な声が聞こえてくる。時折、俺にも話を振ってきてくれるから、退屈する暇もない。なんだか楽しいな、と夢見心地でいる俺だったのに。
さっきまでは、やけに上手に隠れていたアイツが、いまさらその姿を現しやがった。突如現れた眠気は睡魔となって、俺のまぶたへと攻撃を仕掛ける。
「……、そうっすね……」
うつろな声で樹音にそう返したその時には、俺の敗北は決定していた。
もうすでに、瞼は落ちている。高速道路の継ぎ目を乗り越える振動が心地よい。
「……おやすみ、ハルアキ」
ふと、遠くから樹音の声が届いた気がした。それは、とてもとても、やさしい響きで。
そして時を分かたず、俺の意識は沈んでいった。深く深く、まるで魔法をかけられたように。
本格的に降り始めた雪。
道路には遥か彼方まで続く車列のテールランプ。
デリカは走り続ける。四肢のスタッドレスタイヤを駆って。