はじめてのお買い物 スキーショップは異世界だった?
――翌土曜、午前十時。の五秒前。
わが社の社員寮という名のワンルームマンション。その玄関先へと豪快に飛び込んできたのは、黄色いプジョーだった。
「おまたせー」
助手席側の窓を下ろして、樹音が呼びかける。ハーフアップに軽くまとめた髪がふわりと揺れる。シンプルなタートルネックセーターにジーンズ、ふんわりとしたダウン。仕事とは違うカジュアルな装いにプライベート感が溢れている。
……素晴らしくにこやかだ。いつもにも増して。
その上機嫌な声音に、嵐の前の静けさを感じずにいられるだろうか。否、ないな。
「さあ、乗って♪」
「……ありがとうございます」
俺はステアリングを握る樹音に答え、プジョーの助手席へと乗り込んだ。乾いた笑いを見せないよう顔を背けながら。
「着いたよー」
樹音のその言葉に、俺は、こみ上げてくるものを感じていた。
「……はい。っぷ」
いや、熱い気持ちではなく、酸っぱい何か、ではあったのだが。どうにか、それを飲みくだした俺は、黄色いプジョーから大地に降り立つ。
ああ、動かない地面の、なんと素晴らしいことか。
しきりに感動している俺を尻目に、樹音は歩き出していた。
「ほら、ハルアキ。置いてくぞ」
目的のそこは、縦に細長いビルだった。慣れた様子で歩く樹音の後に付いて、俺はそこへと踏み込む。樹音の話によると、このビル丸ごとがスキーショップなんだそうだ。
一階はスキー板が所狭しと並んでいる。カラフルな原色で彩られたスキーがあるかと思えば、シックな木目のスキーもある。短いものから長いもの、細いものや太いもの、まったく色々とあるものだ。
「わたしはね、太すぎないのが好みだよ」
きょろきょろと辺りを見回してた俺に、にやっと意味深に笑って樹音が言う。
俺がなんと返していいものかと考えているうちに、樹音はさっさとエスカレーターを上がっていってしまった。なんなんだよ。
二階はブーツ売り場。ここも一段とカラフルだ。
「スキーブーツって、ずいぶんゴツイんですね」
「そうそう。まるで甲冑の具足みたいだよねー」
樹音が答える。
「確かに。これで上に鎧つけてたら、まるで騎士かも」
そうつぶやいた俺を樹音が呼ぶ。まだ上階に上がるようだ。
「ここだっ!」
『三階アクセサリー売り場』
そう書かれた案内板の前で人差し指を高々と突き上げ、樹音は高らかに宣言した。効果音は、しゃきーん!
……少しだけ他人の振りをした俺を誰が止められよう。まあ、当然のごとく樹音には気付かれてしまうわけなんだが。
引きずられるようにヘルメット売り場へと向かう俺。
――ばたばたばたっ。
父親との買い物に飽きて走り回っていたのだろうか、年長くらいの男の子と目が合った。ああ、そんな純真無垢な瞳で、興味津々に引きずられていく俺を見つめないでくれ。
……あ、樹音が男の子に気付いた。色白の肌がにわかに真っ赤になって、掴んでいた俺の上着を離した。助かったぞ、見知らぬ少年よ。ありがとう!
さて、では改めて。
ヘルメット売り場、ここもまたカラフルだ。スキーとはカラフルでなければならないのだろうか?
「んー、真白な雪の上だとさ、原色が映えるんだよね」
俺の疑問に、少しだけ考えて樹音が答えてくれる。ふむ、確かにそうかもしれない。
「まあ、でも好みで選んだらいいと思うよ。気になるメットがないか、見てみよ」
シュッとした鋭いイメージのもの、ジェット戦闘機のパイロットがかぶるようなシールド付きのもの、工事現場が似合いそうな形のものまである。あれでもない、これでもないと、樹音と試着を繰り返す。
「うーんなかなか決め手がないなぁ」
俺が棚一面に並んだヘルメットを眺めながら悩んでいると、足元を何かがすり抜けていった。
刹那。
危ないっ! と思う間もなく、その何かは陳列棚へとぶつかっていた。
ゆらり。上段の棚から落ちようとする幾つものヘルメット。倒れている子ども。
……先ほどの少年だ! と、気付くより早く体が動いていた。
倒れている少年をかばうように、落ちてくるヘルメットの下に体を入れる。
ガッ、ゴッ! と背中に感じる固い感触。
「ハルアキッ! 大丈夫?」
「大丈夫、この子には当たってないです」
「そうじゃなくて。ハルアキは大丈夫なの?」
目線の高さ程の陳列棚から転げ落ちただけだ。いくら固いヘルメットとはいえ、大人の服の上からだったら、どうという事もない。少年の頭に当たらなくてよかった。
「すみませんっっ! 大丈夫ですか!」
少年の父親と思わしき男性が、血相を変えて飛んできた。肝心の少年はすでに起き上がって、俺の陰からばつが悪そうに父親を覗いている。
「大丈夫ですよ」
右手を軽く上げて父親に答えると、俺は少年の前にしゃがみ込んだ。少年はびくっと体を強張らせる。
「痛いとこはないか?」
「……うん」
泣きそうなのを堪えて、少年が答える。
「よし、強いな。でも、今のはよくないよな」
「……うん」
「危ないの、わかったよな」
「……うん」
「ん、わかったならそれでいい」
端から怒る気なんかないからな。そして俺は、少年の両肩にぽんと手を乗せて告げる。
「さ、お父さんに怒られておいで」
ぶわっと、少年の表情が崩れる。溢れだす涙は堪えきれない。それでも俺が怒っていないと分かったのか、少年は安心したように父親の元へと駆けていった。
しきりに、大丈夫ですか? 申し訳ない! と繰り返す父親に、俺は気にしなくていいと笑い返す。
そうしている間にも、樹音は落ちたヘルメットを拾い上げてくれていた。今、樹音の手には、ガンメタリックのヘルメットが握られている。頭頂部から後頭部、耳から頬までを覆う形状のそれは、鋼のような鈍い光沢をもって輝いて見える。
……ふと、そのヘルメットと目が合った、ような気がした。
どうしてだろう。そのヘルメットだけが、やけに気になる。
「ジュネさん、これにしましょう」
俺は、なぜだか目を離せないそのヘルメットに決めていた。