奪還
「ハルアキ様」
ネージュの声が俺を呼ぶ。先ほどまでは吹雪の先を見据えていた、その金色の瞳が俺を見つめていた。
「ご加護を。雪の精のご加護を受けてください」
「ご加護……ですか?」
俺の問いに、ネージュはこくりと頷いた。
「コユキを攫った者たちは今、吹雪の中で動けずにいます。雪の精のご加護があれば、吹雪の中でも自由が利きます」
「ああ、なるほど」
「本当なら、私が助けに行くべきなの……」
「任せてください」
ネージュの言葉を遮って、俺は応えた。
よく見ると、御者台に立つネージュの膝はぷるぷると震えている。言わなくても、雪女の能力は長く使い続けられるものでないことが判る。もう時間がないのだろう。
俺はネージュの目を見つめ、強く頷いた。
「……我が身に宿る雪の精よ。祖より連なりしその力を貸し与え給え。宝玉に宿りて、我らの子を救う力を彼の者に」
ネージュは身に付けていたペンダントを両手に包むと、両眼を閉じて祈るようにつぶやいた。ペンダントに揺れる月長石は、月の色に輝いていた。
ネージュはそれを、そっと俺にかける。瞬間、それまで顔を突き刺すようであった冷気が和らぎ、まるで優しく守ってくれているかのように感じた。
「ハルアキ、行こうか」
「え?」
いつの間に。俺の後ろから、突然、樹音の声が響いた。振り向く俺。
そこには。
赤みがかった美しい金髪。アーモンド形に大きく見開かれたこげ茶色の目。
いつも通りの樹音が、そこに居た。
「え、ジュネ、さん? 本物?」
「ハルアキ……。寝ぼけてるの?」
おいおいと、真顔で返す樹音に、いつもと違う様子は感じられない。
頭の中には、幾つもの疑問符が駆け巡っている。が、でも今はそんな場合ではないことも、俺はよく解っていた。
「急いでくださいませ。あまり持ちそうにありません」
ネージュが急かす。その表情には、疲れと、若干の焦りが浮かんでいるように見える。
この激しい吹雪を維持するために、相当な力を使っているのだろう。
「急ぎましょう」
俺は樹音に声をかけると、ソリから飛び降りた。
激しい吹雪が視界を遮る。ほんの先ほどまで、ソリの周りでは、照らし出す月明りで、樹音の表情を見るのも苦労しなかったのに。今はすぐ横に居るはずの姿もおぼろげだ。
ただ、ご加護の効果だろうか。そこに樹音が居ることだけは、はっきりと感じ取ることができていた。そしてコユキがどこにいるのかも。
樹音はスキーを履いて、コユキの元へと急いでいる。吹雪で積もり続けている新雪をかき分け、ぐんぐんと進んでいる。
俺はと言うと、一歩一歩、スキーブーツで深い雪を踏みしめて、コユキの元へと迫っていった。いや、スキーを履いたらまともに進むこともできなかった、なんて訳じゃないぞ。うん。
と、樹音の移動が止まる。立ち止まって、俺がやってくるのを待っている。ように感じる。
コユキの元までは、もう後わずかだ。俺と樹音は息を潜めて、じわじわと近づいて行く。
真っ白だった視界にぼんやりと黒い塊が浮かんでくる。荷ゾリのようだ。その荷台にコユキが乗せられていることが離れていてもわかる。ご加護さまさまだ。
今にもコユキの捕らえられている荷台に手が掛かろうとした、その時。
それまで吹き荒れていた風が、前触れもなく止まった。雪は降り続けているものの、視界が急速に晴れていく。
「なんだ! お前は‼」
ソリの荷台にしがみついていた革鎧の男――兵士一号としよう――が声を荒らげる。
そりゃあ、黒ずくめの衣装に金属のトゲのようなものがびっしりと生えている奴が、今にも荷台に乗り込もうとしているのだ。兵士一号の反応に非があろうか? いやないな。もし、俺がそんな奴を見つけたとしても、優しい声をかける気にはならないだろう。
もう一人、ソリの荷台に掴まっていた革鎧の男――こっちは兵士二号だな――は大柄な体を揺らして動き始めている。足元に置いていたのだろう、棒状のものを掴み上げる。そして、それを俺に叩きつけようと、ソリの荷台へと向けて振り上げた。
「えいっ」
ソリの荷台へと上がりかけていた俺に、兵士一号二号の意識は完全に向いていた。
荷台の上からは、兵士一号二号にアイスブルーの塊が横から突っ込んでいくのが見えた。ストックとスケーティングで目一杯加速した樹音が、兵士一号の横っ腹に体当たりをかましたのだ。この際、ちょっと気の抜けた掛け声だったことには突っ込まないでおこう。
樹音に突き飛ばされた兵士一号は、そのままよろけて兵士二号へと倒れ込む。ここで、兵士一号二号ともにスキーを履いたままだったことが徒になった。兵士二号もバランスを崩して、そのまま雪面へと崩れ落ちたのだ。
「ナイスです。ジュネさん」
もがく兵士一号二号を見下ろして、俺は荷台から樹音に向けて親指を立てた。
「っむーーー」
と、足元から、藻掻くような唸り声が聞こえてくる。つい、びくっと反応する俺。
雪の精のご加護で、そこにはコユキが居ることは判っていた。でもそれが、ブランケットで簀巻きにされて転がっているとは思っていなかったのだ。騒ぎに気付いてのたうち回る簀巻きに、俺は声をかける。
「コユキ、助けに来たぞ。ネージュさんも一緒だ」
それを聞いた簀巻きは、一層激しく跳ね回っている。
俺は頭と思わしき部分のブランケットをめくる。そこには猿ぐつわを噛まされたコユキの顔があった。
「何が助けに来ただ! この誘拐犯どもが!」
コユキの口から猿ぐつわを強引に外すのと同時に、ソリの前方、御者台の方から野太い声が響いてきた。怒りを孕んだその声は怒声と言ってもいいだろう。
御者台から起き上がる影。どうやら御者台の下に潜り込んで吹雪を凌いでいたようだ。
その声の主は、兵士二号に劣らぬ巨体であった。しかし、兵士たちのような革鎧は身に付けていない。その代わりに、豪奢な装飾を縫い込んだ立派な防寒着に、その身を包んでいた。縫い込まれた金糸銀糸が、大きく傾いて沈みかけた月の灯りに煌めいている。その腰には、豪華な飾りを纏った剣が下げられていた。兵士の上官だろうか。少なくとも相当に高い身分であろうことは、その身なりから見て取れた。……こいつが指揮官か!
――のそり。
その大男が御者台から荷台に移ろうと動き出す。
「お前らが誘拐犯だろ!」
かばった俺の背から覗き込んだコユキが、指揮官の大男に叫ぶ。
「ああ、おいたわしい。あの恐ろしい女は、王子だけでなく、その御子まで誑かしているのですな」
どこか演技がかった所作で、そして白々しい口調で、指揮官の大男はコユキへと語りかけた。
コユキへの仕打ちからも、その言葉に信用が置けないことは明白だ。俺とコユキは、無言で指揮官の大男を睨みつける。
指揮官の大男は御者台と荷台を分ける仕切り板を乗り越えて、荷台へと踏み込もうとしていた。その手は腰の剣へと伸ばされている。
コユキを守るように後ろ手に回した左腕に、俺はぎゅっと力を込めた。
――ダカダッ、ダカダッ。
キンと冷え切った空気を震わせて、地鳴りのような音が響く。
「いっけぇーー」
「ぶぅふうぅぅ」
ソリの横から樹音の叫び声が響いた。それと共に、荒い鼻息が後ろから近付いてくる。振り向く俺とコユキ。凄まじい勢いで近づいてくるエルの姿が、目に飛び込んできた。樹音はいつの間にかソリから距離を取って、その様子を見ている。樹音の体当たりで転がされた兵士一号二号は、近づいてくる巨大なヘラジカの姿に慌てて避けようともがいていた。
「きゃっ」
今にもぶつかってきそうな勢いのエルの突進に、コユキが小さく悲鳴を上げる。咄嗟に簀巻きのコユキを抱き寄せる俺。だが、思ったような激突は無かった。
俺たちが乗っているソリにぶつかる直前でエルは進路をずらし、ソリの真横へと滑り込む。エルの後ろには、ネージュの乗るソリが続いていた。
――がっ、がっ、がっ。
ソリとソリとの側面が、激しく擦れあう。その振動に指揮官の大男はバランスを崩し、その場にしゃがみ込んでいる。俺とコユキは激しい振動を感じていたが、なぜだかグラつくこともなく、ソリの荷台に立っていた。
そして互いのソリの荷台が並んだその時。
「今です!」
両手に手綱を持ったネージュが、俺に目で合図を送り、そして叫ぶ。
俺はしっかと頷き、コユキを抱きしめたまま跳んだ。
その瞬間、ペンダントの月長石は一段と強い輝きを放った。
月長石の光に包まれたまま、俺とコユキは宙を舞っていた。大男のいるソリの荷台から、エルが牽くネージュのソリの荷台へと。
まるで時が止まりかけたように、ゆっくりと景色がうつろう。俺たちに呼びかけているネージュの表情も、力強く駆けるエルの背中も、先へ行けと促すように人差し指を伸ばした右手を突き出した樹音も、宙を舞う俺たちを唖然とした間抜け面で見ている指揮官の大男も、そして、舞い落ちている雪の一粒一粒までもが。ただ、そこで立ち止まってしまったかの如く、とてもゆっくりと、とても静かに動いていた。
ふわりと、ネージュの操るソリの荷台に降り立つ俺とコユキ。月長石の光が消えていく。それと共に、止まりかけていた時間が一斉に動き出した。ソリとソリとがぶつかり合う激突音。我に返った指揮官の大男が罵声を放っている。が、その罵声もすぐに遠ざかっていく。
敵のソリから十分に離れたところで、ネージュは手綱を緩めた。エルがその脚を緩めていく。ネージュは御者台から立ち上がり、荷台へと振り向いた。その顔には、歓喜とも、安堵ともつかない表情が浮かんでいて。大きく見開かれたアーモンド形の眼には、今にも溢れそうなほどの液体が揺れていて。いや、もう溢れてしまっていたかもしれない。ネージュは、その涙を拭う間もなく、両手を広げる。
その頃には、コユキの自由を奪っていた簀巻きは、俺の手で剥ぎ取られていた。自由を取り戻したコユキの肢体が、荷台を駆け。
「うわああぁぁぁぁん……」
コユキは飛びついた。ネージュのたわわな胸に顔を埋めて、泣きじゃくる。
ネージュはただ静かに、コユキを抱きしめていた。
……やった。
俺たちはコユキを取り戻したんだ。何とも言えない達成感が胸に溢れる。俺は拳を握り締めて。
その拳を突き上げようと見上げた空は、うっすらと白みはじめていた。