表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/24

追跡① 鹿とコユキとお家騒動

「し、鹿? これが?」

 目の前にいるのは四つ足の獣だった。

 太い胴体に、すらっと伸びた引き締まった脚。その足元は雪に埋もれていて。その全身は、少しだけ明るい茶色の混じった灰褐色の毛皮におおわれている。太く伸びた首。長く鼻筋の通った頭。大きな角が二本、並んで生えている。


 その特徴は確かに、馬ではない。牛でも、豚でも、羊でも、山羊でもない。犬でもないし、驢馬(ロバ)でも駱駝(ラクダ)でもない。

 その要素を見れば、確かに鹿なのだ。

 いや、どちらかと言えばトナカイと言う方が近いかもしれない。

 その角は途中で幾重にも枝分かれしていて、まるで大きな翼を広げているかのようだ。

 だが、しかし。

 俺はこの獣を見たことがない。いや、見知ってはいた。子供のころに読んだ図鑑に載っていた気がする。

 ただ、図鑑の中に描かれる姿と実物とでは、その受ける印象は全くの別物と言ってもいい。

 ただただ、大きい。いや、巨大だという表現の方が相応しいか。

 その分厚い胸板は、遥か頭上にあって。さらに上から、巨大な眼が俺を見下ろしている。

さながら、あの世紀末覇者の乗る黒馬を二回り、いや、三回りは膨らませた程の大きさがあるだろう。その気になれば、俺など一踏みで潰されてしまうに違いない。

 確か……

「ヘラジカ?」

「はい、そう呼ぶ方もいますね。このあたりでは鹿としか呼んでいませんが」

 漏れた呟きに、ネージュが答えてくれる。

 だけど。俺の耳には入ってこなかった。聞こえてはいるのだけれど、それどころではないというか、何というか。

――ふしゅう。

 一瞬、獣の鼻息で視界が白く染まる。

――どすん。

 ほんの少しだけ持ち上げられた足が、一歩、踏み下ろされる。腹の底まで震えるかのように、その音は響き渡った。

 その眼は血走っているかのように赤みがかっていて。明確な敵意、それが否が応にも伝わってきた。それは、野性か、それとも魔性とでも呼べばいいのか。

 一歩、また一歩。確実に迫る獣。その眼を見据えたまま、動かない俺。そうじゃない。動けないのだ。動いたら潰される。そんな予感がするほどに、獣は激しい気迫を発していた。その大きく広がった角が、その気迫でぼんやりと紅く光って見えるほどに。


――ひやり。

 突如、背後から冷たい風が吹き抜けたような気がした。赤く血走っていた獣の眼に、一瞬だけ青白い光が灯り。

「エル!」

 ネージュの落ち着いた、というよりも冷ややかな、そして鋭い声が響いた。

 獣の背がびくっと跳ね上がって。とたんに獣の気迫が(しぼ)んでいく。その眼には、もう野性は感じられない。よく躾けられた犬か、借りてきた猫かといった佇まいだ。

 エルと呼ばれたヘラジカは、その巨大な角を下げて、上目遣いにネージュの方を見ている。

 俺はようやく気を抜くことができて、同時に大きく息を吐きだした。呼吸することさえ忘れてしまっていたようだ。そうすると、両膝の力もがくっと抜けて。

 俺は、盛大に尻もちをついたのだった。


 プロテクターに守られているから痛むことは無いのだけれど、つい打ちつけた尻を撫でまわしてしまう。

 一息吐いて振り返りつつ見上げると。空には、青白い月。それを背負うかのように、二人の美女がそこに立っていた。月の光を映しているのだろう。ネージュの、そして樹音の髪が白く縁どられているように輝いて見える。まるでコユキの髪のようだな、なんて思う間に、その白い輝きは薄れていった。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」

 近づいてきた二人。その面立ちは本当にそっくりで。優しく声をかけてくれたのは、たわわな方。ネージュだった。

「いつまで座り込んでんの?」

「……荷物、取ってくるよ」

 たわわではない方。樹音の軽口に、とっさに返す言葉が見つからない。つい気恥ずかしくなって、俺はスキーとヘルメットを取りに向かうのだった。


 俺と樹音のスキー。それを俺は、ソリの荷台へと積み込んだ。

 荷台には左右にベンチが作りつけられていて。樹音は乗り込んだ左手の席に、俺は右手の席へと乗り込む。

「出発しますね」

 御者台に座ったネージュが手綱を手に取りながら、声をかける。

 御者台と荷台は低い仕切り板一枚で区切られているだけだ。樹音と俺は、その仕切り板の縁に手をかけて、スタートの衝撃に備えた。

「はい、いつでもどうぞ」

 俺の緊張した声に、くすりと笑みを浮かべて、ネージュは手綱に力を込める。

「ハイッ」

 ネージュの掛け声に合わせて、ヘラジカ――エルは一歩踏み出した。大きな背中にかけられたハーネスに繋がれたソリ。ハーネスがぴんと張り詰め、ソリに進む力を与える。ほんの一瞬だけ、グンと引かれる力を感じて……俺はネージュの右肩越しに、ふるんと揺れるのを見ていた。その胸元にはペンダントがあって。乳白色の丸い宝石が三個、連なるように光っている。確かムーンストーンだっただろうか。ふるんと揺れるたびに、かちゃりと軽やかな音を立てる。

 ソリは、ただゆっくりと進み始めていた。


 エルは少しずつ、その歩みを早める。大きな背中はほとんど上下せずに、思いのほか静かに、ソリはその勢いを増していった。

 エルは進む。

 まるで行先が分かっているかのように。その先に続く月明りの雪道には、ほんのりとソリの轍とスキーの跡とが残っていた。

 冷たい風が頬を撫でる。エルの足並みがしだいに早まり、駆け足へと変わる。周りの木立が、次々に流れていく。仕切り板にかけた手に力が籠る。

 樹音と俺は大きく息を吐いて、その行く先を見据える。二人の白い息だけが、ソリの後方へと静かに流れていった。


「……聞かないのですか? コユキが攫われた理由を」

 雪道を進むソリ。ぼそり、とネージュから言葉が漏れた。その視線は前を見据えたまま、手綱を持つ手もそのままに。肩越しには、その表情は読み取れない。

 樹音も、そして俺も、ただ無言でネージュの言葉を待つ。

「……攫うように命じたのは、おそらくコユキの大叔父殿なんです」

 暫しの沈黙をおいて、ネージュは語り始めた。

「コユキの父、クロヴィス様は、コユキが産まれてすぐに、亡くなりました。大叔父殿は、その少し前にクロヴィス様の弟君、シャルル様を養子になさっていました」

 お家騒動なんてものを、こんな身近に聞くことになるとは思ってもみなかった。ただ、思いつくだけでも、ネージュの所作や言葉遣い、家具の(しつら)えなど、生まれ育ちの良さを感じるところは幾つもあった。この異世界にあっても、いかにも上流階級のお嬢様なのだろう。

 ネージュの言葉に相槌を打って、俺は聞いてみた。

「つまり、大叔父さんはコユキのお父さん……クロヴィスさま? の家を乗っ取ろうとしている。そういうことですか?」

「家? ……そうですね。大叔父殿はそう考えているのだと思います」

「クロヴィスさまの血を引くコユキが本家の後継者で、その実権を握りたいってことか」

 樹音が、登場人物の相関関係を確かめるようにつぶやいた。

「ええ。大叔父殿は、シャルル様を王位に()けようと思われているようですから」

「「王位⁉」」

 ネージュの両肩の後ろからサラウンドで声が上がった。


……ちょっと、ここまでの話を整理しよう。

 コユキの母はネージュで、父はクロヴィス。クロヴィスの弟がシャルル。

 ネージュの話によると、クロヴィスはこの国、シエネシュルト国の第一王子であった。コユキの祖父、シエネシュルト王には二人の王子(クロヴィス、シャルル)と弟(大叔父)がいて、王位継承権は、クロヴィス、シャルル、大叔父の順だったらしい。

「ん? シャルルさまは、既に大叔父の養子なんですよね?」

「ジュネさん、それ! クロヴィスさまが亡くなっているのなら、王位継承権一位はシャルルさまなんじゃ?」

 樹音の疑問に、俺が同調する。

 が、ネージュはゆっくりと顔を振った。

「この国の王位継承は女系が優先されるんです。元々、王は巫女であって、その力で国を治めていたのですから」

「じゃあ、コユキは」

「次期王の筆頭候補ってことなのね……」

 俺の言葉にかぶせるように、樹音が呟いた。


「でも、それなら」

 俺は疑問に思ったことを口にする。

「コユキを攫ったりしたら、逆効果なんじゃないかな? 次期王の候補が攫われたりしたら、次席の候補が一番に疑われるんじゃ?」

「おそらく、そうはならないでしょう。コユキがクロヴィス様の子であると公にはされていませんから」

「だったら、何もしなくてもシャルルさまが次の王様なんじゃないの?」

 ネージュの言葉に、樹音が疑問の声をあげる。

「あ。ジュネさん、それだと後から誰かが、コユキを正当な王だって担ぎ上げるかも」

「それなら」

 樹音の声が少しだけ強くなる。

「コユキをクロヴィスさまの娘だと公表してしまえばいいじゃない! そうすれば、簡単には手を出せなくなるんじゃないの?」

「それは……できません」

「なぜ? コユキのためでしょ?」

 樹音が鋭い口調で問う。コユキのために行動しないことが不満なのだろうか、厳しい表情をネージュに向けている。

 ネージュは、ソリの行く先から目を離さずにぼそりと呟いた。

「それでも、公にはできないのです。だって、コユキは……雪女の娘ですから」

 ネージュの発する言葉は、最後には消え入るようであって。

 手綱を握るその手には、ぐっと力が籠っているようだった。


 エルの曳くソリは、ただ静かに、雪道を進む。

 雪を踏みしめる音だけを残して。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ