追跡① 鹿とコユキとお家騒動
「し、鹿? これが?」
目の前にいるのは四つ足の獣だった。
太い胴体に、すらっと伸びた引き締まった脚。その足元は雪に埋もれていて。その全身は、少しだけ明るい茶色の混じった灰褐色の毛皮におおわれている。太く伸びた首。長く鼻筋の通った頭。大きな角が二本、並んで生えている。
その特徴は確かに、馬ではない。牛でも、豚でも、羊でも、山羊でもない。犬でもないし、驢馬でも駱駝でもない。
その要素を見れば、確かに鹿なのだ。
いや、どちらかと言えばトナカイと言う方が近いかもしれない。
その角は途中で幾重にも枝分かれしていて、まるで大きな翼を広げているかのようだ。
だが、しかし。
俺はこの獣を見たことがない。いや、見知ってはいた。子供のころに読んだ図鑑に載っていた気がする。
ただ、図鑑の中に描かれる姿と実物とでは、その受ける印象は全くの別物と言ってもいい。
ただただ、大きい。いや、巨大だという表現の方が相応しいか。
その分厚い胸板は、遥か頭上にあって。さらに上から、巨大な眼が俺を見下ろしている。
さながら、あの世紀末覇者の乗る黒馬を二回り、いや、三回りは膨らませた程の大きさがあるだろう。その気になれば、俺など一踏みで潰されてしまうに違いない。
確か……
「ヘラジカ?」
「はい、そう呼ぶ方もいますね。このあたりでは鹿としか呼んでいませんが」
漏れた呟きに、ネージュが答えてくれる。
だけど。俺の耳には入ってこなかった。聞こえてはいるのだけれど、それどころではないというか、何というか。
――ふしゅう。
一瞬、獣の鼻息で視界が白く染まる。
――どすん。
ほんの少しだけ持ち上げられた足が、一歩、踏み下ろされる。腹の底まで震えるかのように、その音は響き渡った。
その眼は血走っているかのように赤みがかっていて。明確な敵意、それが否が応にも伝わってきた。それは、野性か、それとも魔性とでも呼べばいいのか。
一歩、また一歩。確実に迫る獣。その眼を見据えたまま、動かない俺。そうじゃない。動けないのだ。動いたら潰される。そんな予感がするほどに、獣は激しい気迫を発していた。その大きく広がった角が、その気迫でぼんやりと紅く光って見えるほどに。
――ひやり。
突如、背後から冷たい風が吹き抜けたような気がした。赤く血走っていた獣の眼に、一瞬だけ青白い光が灯り。
「エル!」
ネージュの落ち着いた、というよりも冷ややかな、そして鋭い声が響いた。
獣の背がびくっと跳ね上がって。とたんに獣の気迫が萎んでいく。その眼には、もう野性は感じられない。よく躾けられた犬か、借りてきた猫かといった佇まいだ。
エルと呼ばれたヘラジカは、その巨大な角を下げて、上目遣いにネージュの方を見ている。
俺はようやく気を抜くことができて、同時に大きく息を吐きだした。呼吸することさえ忘れてしまっていたようだ。そうすると、両膝の力もがくっと抜けて。
俺は、盛大に尻もちをついたのだった。
プロテクターに守られているから痛むことは無いのだけれど、つい打ちつけた尻を撫でまわしてしまう。
一息吐いて振り返りつつ見上げると。空には、青白い月。それを背負うかのように、二人の美女がそこに立っていた。月の光を映しているのだろう。ネージュの、そして樹音の髪が白く縁どられているように輝いて見える。まるでコユキの髪のようだな、なんて思う間に、その白い輝きは薄れていった。
「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」
近づいてきた二人。その面立ちは本当にそっくりで。優しく声をかけてくれたのは、たわわな方。ネージュだった。
「いつまで座り込んでんの?」
「……荷物、取ってくるよ」
たわわではない方。樹音の軽口に、とっさに返す言葉が見つからない。つい気恥ずかしくなって、俺はスキーとヘルメットを取りに向かうのだった。
俺と樹音のスキー。それを俺は、ソリの荷台へと積み込んだ。
荷台には左右にベンチが作りつけられていて。樹音は乗り込んだ左手の席に、俺は右手の席へと乗り込む。
「出発しますね」
御者台に座ったネージュが手綱を手に取りながら、声をかける。
御者台と荷台は低い仕切り板一枚で区切られているだけだ。樹音と俺は、その仕切り板の縁に手をかけて、スタートの衝撃に備えた。
「はい、いつでもどうぞ」
俺の緊張した声に、くすりと笑みを浮かべて、ネージュは手綱に力を込める。
「ハイッ」
ネージュの掛け声に合わせて、ヘラジカ――エルは一歩踏み出した。大きな背中にかけられたハーネスに繋がれたソリ。ハーネスがぴんと張り詰め、ソリに進む力を与える。ほんの一瞬だけ、グンと引かれる力を感じて……俺はネージュの右肩越しに、ふるんと揺れるのを見ていた。その胸元にはペンダントがあって。乳白色の丸い宝石が三個、連なるように光っている。確かムーンストーンだっただろうか。ふるんと揺れるたびに、かちゃりと軽やかな音を立てる。
ソリは、ただゆっくりと進み始めていた。
エルは少しずつ、その歩みを早める。大きな背中はほとんど上下せずに、思いのほか静かに、ソリはその勢いを増していった。
エルは進む。
まるで行先が分かっているかのように。その先に続く月明りの雪道には、ほんのりとソリの轍とスキーの跡とが残っていた。
冷たい風が頬を撫でる。エルの足並みがしだいに早まり、駆け足へと変わる。周りの木立が、次々に流れていく。仕切り板にかけた手に力が籠る。
樹音と俺は大きく息を吐いて、その行く先を見据える。二人の白い息だけが、ソリの後方へと静かに流れていった。
「……聞かないのですか? コユキが攫われた理由を」
雪道を進むソリ。ぼそり、とネージュから言葉が漏れた。その視線は前を見据えたまま、手綱を持つ手もそのままに。肩越しには、その表情は読み取れない。
樹音も、そして俺も、ただ無言でネージュの言葉を待つ。
「……攫うように命じたのは、おそらくコユキの大叔父殿なんです」
暫しの沈黙をおいて、ネージュは語り始めた。
「コユキの父、クロヴィス様は、コユキが産まれてすぐに、亡くなりました。大叔父殿は、その少し前にクロヴィス様の弟君、シャルル様を養子になさっていました」
お家騒動なんてものを、こんな身近に聞くことになるとは思ってもみなかった。ただ、思いつくだけでも、ネージュの所作や言葉遣い、家具の設えなど、生まれ育ちの良さを感じるところは幾つもあった。この異世界にあっても、いかにも上流階級のお嬢様なのだろう。
ネージュの言葉に相槌を打って、俺は聞いてみた。
「つまり、大叔父さんはコユキのお父さん……クロヴィスさま? の家を乗っ取ろうとしている。そういうことですか?」
「家? ……そうですね。大叔父殿はそう考えているのだと思います」
「クロヴィスさまの血を引くコユキが本家の後継者で、その実権を握りたいってことか」
樹音が、登場人物の相関関係を確かめるようにつぶやいた。
「ええ。大叔父殿は、シャルル様を王位に即けようと思われているようですから」
「「王位⁉」」
ネージュの両肩の後ろからサラウンドで声が上がった。
……ちょっと、ここまでの話を整理しよう。
コユキの母はネージュで、父はクロヴィス。クロヴィスの弟がシャルル。
ネージュの話によると、クロヴィスはこの国、シエネシュルト国の第一王子であった。コユキの祖父、シエネシュルト王には二人の王子(クロヴィス、シャルル)と弟(大叔父)がいて、王位継承権は、クロヴィス、シャルル、大叔父の順だったらしい。
「ん? シャルルさまは、既に大叔父の養子なんですよね?」
「ジュネさん、それ! クロヴィスさまが亡くなっているのなら、王位継承権一位はシャルルさまなんじゃ?」
樹音の疑問に、俺が同調する。
が、ネージュはゆっくりと顔を振った。
「この国の王位継承は女系が優先されるんです。元々、王は巫女であって、その力で国を治めていたのですから」
「じゃあ、コユキは」
「次期王の筆頭候補ってことなのね……」
俺の言葉にかぶせるように、樹音が呟いた。
「でも、それなら」
俺は疑問に思ったことを口にする。
「コユキを攫ったりしたら、逆効果なんじゃないかな? 次期王の候補が攫われたりしたら、次席の候補が一番に疑われるんじゃ?」
「おそらく、そうはならないでしょう。コユキがクロヴィス様の子であると公にはされていませんから」
「だったら、何もしなくてもシャルルさまが次の王様なんじゃないの?」
ネージュの言葉に、樹音が疑問の声をあげる。
「あ。ジュネさん、それだと後から誰かが、コユキを正当な王だって担ぎ上げるかも」
「それなら」
樹音の声が少しだけ強くなる。
「コユキをクロヴィスさまの娘だと公表してしまえばいいじゃない! そうすれば、簡単には手を出せなくなるんじゃないの?」
「それは……できません」
「なぜ? コユキのためでしょ?」
樹音が鋭い口調で問う。コユキのために行動しないことが不満なのだろうか、厳しい表情をネージュに向けている。
ネージュは、ソリの行く先から目を離さずにぼそりと呟いた。
「それでも、公にはできないのです。だって、コユキは……雪女の娘ですから」
ネージュの発する言葉は、最後には消え入るようであって。
手綱を握るその手には、ぐっと力が籠っているようだった。
エルの曳くソリは、ただ静かに、雪道を進む。
雪を踏みしめる音だけを残して。