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母さん

「母さん」

もう、そう呼ばなくなって何年たつだろうか。何も気にせずそう呼んでいた幼少のころ。小学校高学年になり、周りの目を気にして、恥ずかしく思うようになり、呼ぶ回数も減っていった。中学に入ってからは、ちょっとした反抗心もあり、ほとんど「母さん」と呼ぶことはなかったと思う。


ただ、今ではそう呼べる人はもういない。そう呼ぶと、微笑みながら「どうしたの。」と言ってくれる人はもういない。


八月の暑い日だった。何もしていなくても服が汗でへばりついてくるような蒸し暑さだった。


家には朝から多くの人が来ていた。母の三回忌だった。多くの人の話し声が家にはあふれているはずなのだが、外の蒸し暑さとは反対に、家の中は怖いほど寒々としているように感じた。


「耕平、元気だったか。」

リビングにいると後ろから声をかけられた。僕は振り向く。母方の伯父だった。優しそうに笑っている眼は、どこか母を思い出させた。伯父が僕の横に並ぶ。

「もう三年か。」

伯父のつぶやきが聞こえる。なつかしむような伯父のこえ。


母が死んで3年がたつ。しかし、僕にはわからなかった。父や叔父がどうしてそんなに悲しそうにするのか。母は体の弱い人だった。死ぬ前、母は自分の余命をすでに知っていた。母だけでない。父も伯父もそして僕も。親戚の人なら大抵の人が知っていることだった。だから、僕は母の死を悲しいとは思わなかった。わかっていたことだった。ただ、僕の横で悲しそうにしている伯父にそんなことを言えなかった。


僕は伯父のつぶやきを聞こえなかったことにした。僕には答える資格などないのだから。


誰にも気づかれないよう、そっと急ぎつつリビングを出た。居心地が悪かった。みんなが母の死を悲しんでいるのに僕だけ何も感じない。僕だけが異質。そういわれているようだった。


そして、嫌だった。集まった人が母を過去の人間としていることが、思い出としていることが。あの場にいたくなかった。感じたくなかった。


リビングを出て左の突き当りに僕の部屋がある。僕は急ぎ足でそこに向かった。


ふわっ


風が僕の横をかける。顔を上げる。母の部屋の前だった。少し開いたドアの間から見える母の部屋。僕は無意識のうちにドアを開けていた。そして一歩。足を踏み出し母の部屋に入り、深く息を吸う。母の匂いだ。体全体に空気がいきわたると、母に包まれているようだ。


そっと室内を見渡す。いつも母が使っていた木の椅子が目に付いた。ゆっくりと音をたてないように近づいてみる。そこは窓から差し込む太陽の日差しが、温かく降り注いでいた。外では肌を焦がす強い日差しなのだが、ここだけは優しく包み込むような日差しだ。それは母のような優しさ、いや、温かさに思えた。


僕は太陽の匂いのする木の椅子にゆっくりと腰かける。


ギィ


椅子のきしむ音だけが部屋に響く。まるでその場だけ時が止まったように。部屋に静寂が訪れる。目を閉じる。何も見えない。何も聞こえない。感じるのは肌を包む温かい日差しだ。


どのくらい経ったのかはわからない。目を開けるとテーブルの上の色鮮やかな本が目に入った。立ち上がりテーブルに向かう。本をそっと手に取る。


絵本だった。幼いころ母に何度も読んでもらった絵本だ。あのころの幼い僕と少し若かった母を思い出す。


一ページめくる。少し古臭いにおいがした。広がる鮮やかな色。母の声が聞こえる。語りかけるようにそっと優しく話す母。ただ、逆光で母の顔がよく見えない。でも、いつも微笑んでいた母は、見えなくとも雰囲気でわかる。


カサッ


何かが手に当たり、床へひらひらと落ちていく。白い紙。いや、封筒だ。かがみこみ封筒を手に取る。まだ未開封だった。差出人のところには何も書かれていない。裏返すと整った字で「耕平へ」と書いてあった。


まだ未開封の封筒。「耕平へ」の文字。


焦る気持ちを抑え手で封を切る。凸凹になったが、どうにか中の手紙は傷つかなかった。逆さにして中の物を取り出す。


紙一枚だった。三つ折りにされた紙が一枚入っているだけだった。興味と焦りと不安を抱えながらそっと紙を開く。


こうちゃん

こう

こうへい

耕平

今村耕平


五行。たったそれだけしか書いていなかった。でも僕には聞こえた。僕を呼ぶ母の声。何度も何度もそう呼ばれてきたからわかる。いつもそう大きい声ではないのだけれど、なぜかほかの人のこえに負けず僕に届く母の声。持っている手紙が熱を帯び重くなる。答えなければならない気がした。今言わなければならないことがあるはず。しかし、声がうまく出ない。言いたいことがあるのに何と言えばいいのかわからない。のどから声が出ない。もう一度手紙を読み返す。いろいろな言葉が浮かんでは消え、言おうとしては戸惑う。ふとある言葉がうかぶ。僕の心に波紋を起こす。深く息を吸い声にだす。


「母さん。」


あんなにうるさかったセミの鳴き声も、道路の車の音も、人の話し声も、何も聞こえなくなる。静まり返った母の部屋に僕の声だけが響く。やっと言えた言葉は、何の飾り気もない母を呼ぶ言葉。小さい声だったと思う。ただ、今の僕にはその一言を言うのが精一杯だった。


一瞬、僕の耳にはあのころの母の声がよみがえる。


「どうしたの、耕平。」


とたんに動き出す時間。僕はもう一度読んでみる。


「母さん。」


夏の蒸し暑さの中に消えていく声。返事がないのは当たり前なのに、母が死んでから一度も母を呼ばなかったせいか、今でも母が返事をしてくれるのだと錯覚をしてしまう。僕の声が母に届くのだと錯覚してしまう。


風が頬をなでる。窓から入る光が手紙に降り注ぐ。そして、手紙に着いた涙の後を輝かせる。


僕はそっと目を閉じ、母のぬくもりを、母の声を、姿を心に焼き付ける。


そして、そっと心の中で呼んでみる。


「母さん。」


深く息を吸う。顔を上げる。心の中にいる母を呼ぶ。


「さようなら。」


やっと、やっと、言えた。


もう、母を呼ぶことはない。もう、母に伝えることはない。もう、母さんはいない。


手紙がさらに輝きを増した。


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