中編・アンドレイ
王太子アンドレイは顎を捻った。
婚約者の侯爵令嬢グリンダは自分に夢中だと知っていた。
家柄以外に秀でたところのない地味な彼女が、精いっぱいの努力をして厳しい王妃教育を続けているのは婚約者である自分を愛しているからだ。
なのに、学園の卒業まではほかの女と過ごしたい、自分が本当に恋しているのはお前ではないと告げられたのに、彼女は微笑んだ。
少し力がない笑顔に見えたが、それは彼女の顔立ちが地味だからだろう。
「……アンドレイ様?」
膝の上で柔らかな体を押し付けてくる男爵令嬢ノイヴァは派手な顔立ちで、男に媚びるのが上手い。
学園に入学して彼女と出会って、アンドレイはすぐ夢中になった。
アンドレイは王太子だが、現国王の実子ではない。現国王は最愛の妃の病死後、独身を貫き通している。アンドレイは国王の姉に当たる大公夫人の長男だ。
アンドレイは陽気で派手好きな性格が社交に向いていると判断されて王太子に選ばれたが、最近では王太子教育についていけていないのではないかと言われ始めている。
アンドレイがノイヴァに溺れたのは、彼女が自分を称賛してくれるからだ。
家柄だけで王太子の婚約者に選ばれたにもかかわらず、厳しい王妃教育を着実にこなしているグリンダ相手に威張り散らすことはできない。内向的な性格のせいで王太子には選ばれなかったものの、今も王太子教育を共に受けている公爵子息のミハイルにも。
アンドレイの従兄弟ミハイルは、アンドレイがグリンダに身勝手な言葉を告げている間も一緒にいた。
ミハイルの父である公爵は王弟で宰相だ。
アンドレイの実父である大公は顔だけが取り柄で、大公としての実務は全て王姉である母が取り仕切っている。
王太子であるアンドレイと公爵子息のミハイルは、ふたりとも学園の生徒会役員だ。
ミハイルは、今日アンドレイがグリンダに告げた身勝手な言葉にも、アンドレイが神聖な生徒会室に役員でもないノイヴァを連れ込むことにも反対していた。
今ももの言いたげな灰色の瞳にアンドレイを映している。
……アンドレイ様の瞳は晴れた空で、ミハイル様の瞳は曇り空ですね。
グリンダがそう言ってアンドレイを選んだのは、彼女がまだ幼く社交辞令を知らないころだった。
社交的な性格だけでは能力不足を補えない。侯爵令嬢であるグリンダとの婚約を失えば、アンドレイは王太子の座を追われるだろう。共に王太子教育を受けているが、ミハイルはアンドレイの遥か先を行っている。
グリンダという分銅が取り除かれれば、王太子天秤の調和は崩れてアンドレイの皿が飛び上がりミハイルの皿だけが残る。
(グリンダを追いかけて、冗談だったと言ってしまおうか)
軽い荷物だからこそ担ぎたがる人間もいる。
学園在学中に人脈を広げれば、侯爵令嬢のグリンダが婚約者でなくなっても王太子を続けられるはずだ。しかし、今はまだ早い。
膝の上から降ろそうとすると、ノイヴァは甘い声を上げて見つめてきた。
「アンドレイ様ぁ。早く噂の占い師のところへ行きましょう?」
「あ、ああ。……そうだな」
グリンダを宥めるのは明日でもいい、どうせ彼女は自分に夢中だ、と思ったアンドレイは、わざとらしく溜息をつくミハイルに別れを告げて生徒会室を出た。俺とノイヴァの関係に嫉妬しているのだろう、と心の中で呟きながら。
ずっと一緒だったが、グリンダへの発言にもノイヴァと占い師のところへ行くことにもなんの反応も示さなかった護衛騎士も引き連れて廊下を歩く。
ミハイルの視線から逃れ、廊下の窓から見た空は青く美しかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「このアバズレめ!」
全身の力を利き腕に込めてノイヴァを殴りつける。
アンドレイはもう王太子ではない。貴族ですらなかった。母と、母の言いなりの父に勘当されてしまったのだ。
大公家は当初の予定通り弟が継ぐ。
学園を卒業して、何年が過ぎただろうか。
卒業パーティで侯爵令嬢グリンダとの婚約を破棄したアンドレイは、軽い荷物を望んでいた後援者にまで見捨てられた。
ノイヴァも生家の男爵家から追い出されてしまい、ふたりは大公領の鉱山で犯罪奴隷や借金奴隷に交じって働いている。ほかに行けるところがなかったのだ。
叔父である国王はもっと甘い処遇にしようとしてくれたのだが、実母である大公夫人がそれを許さなかった。
娘を産んで亡くなった侯爵夫人は、大公夫人の幼なじみにして親友だった。
王太子に選ばれたことで調子に乗って莫迦を晒していた長男に苦虫を噛み潰したような顔をしながらも彼女がそれを許していたのは、最愛の親友の遺児が取りなしていたからだ。とはいえ、さすがのグリンダも婚約破棄をされてまでアンドレイを庇いはしなかった。
(コイツのせいだ)
思いながら、アンドレイは先ほどの拳で床に転がったノイヴァを蹴りつけた。
あの日、この女と占いへ行ったりせずにグリンダを追いかけていれば、きっと婚約を破棄したとしても侯爵令嬢は自分を庇ってくれたはずだ。あの地味な婚約者は美しいアンドレイに夢中だったのだから。
泥だらけのノイヴァが、アンドレイを睨みつけて嘲笑を浮かべる。
「なによ。アタシが鉱山の監視役と寝てるから、ふたりで食べて行けるだけの配給をもらえるんじゃない。アンタの稼ぎだけだったら、とっくにふたりとも飢え死にしてるわよ」
この鉱山の食事は、坑夫の取れ高に応じた配給制だ。
「あーあ。どうせここから出られないんなら、アンタと別れちゃおうかしら。そのほうがお腹いっぱい食べられそう」
「クソがっ!」
ノイヴァの発言は事実だった。
社交的と言えば聞こえは良いが、実際のアンドレイは他人に媚びるのが上手いだけのおしゃべりなお調子者に過ぎない。そして、ここではそんな能力は役に立たない。監視役に媚びを売ろうにも、かつて王太子だった矜持が邪魔をする。
アンドレイと一緒にいるよりも、ほかの逞しい坑夫達を相手にしたほうが楽な暮らしができるのは本当のことだ。ノイヴァはだれにでも媚びを売れる女なのだから。
「クソが、クソが、クソがあっ!」
「痛い、痛い、痛いっ! いい加減やめてよ! やめ……」
真実こそが人を怒りに駆り立てる。
理性を失ってノイヴァを蹴り続けたアンドレイは、彼女が動かなくなって気付いた。
これは、水晶玉に映った可能性の未来に過ぎないことを。映し出される映像に、完全に意識を奪われていたことを──水晶玉の向こう、薄汚い小屋の窓から覗く青い空は、小屋の中と同じように薄汚れて見えた。




