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夢もがきフリーテンポ

作者: 富士加遊糸

 団地の共用廊下まで歩く。


 私は電話ボックスならぬスマホボックスのフタを開き、共用スマホに触れる。


 一日に触れるのだ。


「体験ツナギ」と書かれたアイコンをタッチする。


 郷土玩具作り、夜光塗料の特製ビー玉製作講座、エスカルゴスカートの作り方、感覚別教育の講演、シニアと話そう。


 体験ツナギとは就活でなかなか採用されず、うつ状態になってしまったり、単純に何をしていいかわからなくなってしまった若者に対して、一日ごとに様々な体験をしてもらい、適職を見つけるきっかけや気分転換になったらと縦川市の自治体が新たに取り組みを始めたものだ。


 なんとなく通信制の高校を卒業して、それとなく1年が過ぎ、さすがに退屈だったので、図書館でイベントを知らせるビラを探していたところ、こんな便利な制度があったのかと驚きに目をグルグルさせながら私は参加を決めたのだった。


 最初は高校の知り合いと遊んだり、お香を焚いたり、妖怪の食玩集めをしたり、オープンコーラ、つまり手作りコーラを作ったりして長い夏休みをつぶした。


 だけど、知り合いは予備校やコンビニバイトに時間を割くようになって、自然とひとりになってしまった。


 駅前で通りすぎる人々を見回しつつ、孤独な人もたくさんいるのだろうと思った。砂糖の小さな一粒のように、見えない孤独がある。


 そろそろ少しずつ動き出さないとだまだらけのうどん粉みたいになってしまいそうだ。




 講座に行く前に様子を収めた動画をみることにする。


 大きな釜と白い衛生服を着た工員がザラメをかき混ぜている。食品工場のようだ。


 金平糖の職人の方が作り方を教えている。何でも2週間かけて固めていき、一日に1mmずつしか増やせないのだ。




 縦川の古民家園がシニアと話そうの講座の待ち合わせ場所だった。


「ドウモ、リニともうします」


 褐色の肌の女性が立っていた。


 リニさんは日本語を教わるために老人の話し相手になるという独特なNPO活動に参加している。


 インドネシア出身で日本のアニメに惚れぬいて、好きなアニメの舞台が縦川市だったことから選んだらしい。


 約束の時間を3分ほど過ぎた頃、着物を着た一人のお爺さんが向こうから来るのが見えた。


 お爺さんは足立と名乗った。


 古民家に服装の雰囲気を合わせたのか、普段からそうした格好なのかはわからない。


 足立さんは繊維メーカーの営業職を長く勤めてきたという。




 古民家園のトバノオクの竹が青々ときらめいている。畳の匂いが懐かしい。左斜めに座った足立さんがポケットから絵はがきを取り出して、私に手渡した。


「黒っぽい犬かわいいですね」


 赤ちゃんの顔をなめる犬が描かれた絵はがきを眺めながら私は言った。


「甲斐犬というんだ」


「飼い犬ノコトデスカ?」


「惜しいけど違うかな。リニさんったら面白い間違い方するのね」


「発音や読み方が似ていないようで似ているのがオモシロイデス」


「会社を辞めてから野鳥観察をし始めて、ずっと絵が描きたかったなあと新聞の読者欄のイラストとかさ見てたら、絵に対する興味を思い出して絵はがき書いてみようと思ったんだ」


「どなたに送ったりするんですか?」


「うーん、広島に嫁いでった娘に一ヶ月おきに送ったりしてるんだ 」


「娘さんもおじいさんが元気そうで安心ですね」


「孫の写真をくっつけた手紙がかわりに返ってくるのがたまらないな」


 足立さんは目を輝かせながら言った。


「モウスコシこどもがセイチョウしたら、クレヨンの絵日記のハガキが返ってきたりして」


「そうだといいな」


 三人笑いあった。私たちと同じような笑い声が合わさった。




 細い通路を一列に並んで通り、来た道を戻るようにしてオカッテの間へ行く。


 囲炉裏を珍しそうにガン見しながら、リニさんが言う。


「生活は何一つ変わらないんデスヨネ。食べ物を食べたり暖まったりを繰り返していく。囲炉裏みたいな人間に私はナリタイ」


「人が足りなくなっている。リニさんみたいな人が日本に来て薪になればいいのだ」


「日本でイキテクにはシゴト。会社に入るのムズカシイ。働くのさらにムズカシイ」


「うん、争いばかりだからな、なおさら」


「会社で働く。つまりアラソウ。足立さんはドウシテタ?」


「他人と争ってまで生きたくなかった。そのせいであまり出世はできなかったけど、わしは満足している」


 リニさんが質問すると、足立さんはすぐ答えを返した。つよがりではなく、清々しさを感じさせる声音で彼は言った。




 足立さんの住む部屋はマンションの2階の角部屋だった。


「敏子は今、神社に行っててな。おみくじを星占い感覚で毎日引いては凶を引いた日には真に受けるところがかわいらしい」


「若々しさがありますね」


「仲良くしている健治さんはおとなしい性格のせいなのか、俺の他に人付き合いがあまり無くてな、心配になる」


 足立さんはこの世の理不尽を憂うようなため息を一つ吐いた。


「老後に新しく人とゆるやかなつながりを持つ何かしらのきっかけが一つでも増えればいいんですけどね」


「東南アジアでも少しずつ高齢化がススンデマス」


「なんてこった。どこもかしも老いるばかりとはな」


「ミンナに食べさせたいものがアルンデスガ、イイですカ」


 そう言ってリニさんがポーチからラップで包まれた黄色いたまごむしパンのようなものを取り出して、ナイフアリマセンカ?と聞いてきた。


 足立さんはキッチンまで行き、引き出しから果物ナイフを用意してリニさんに渡した。 ビカアンボンというインドネシアのケーキ菓子はココナッツの優しい味がした。


「ステキなあなたの国の菓子もいただいたことだし、毎回あげているこれでも」と言いながら足立さんはリニに縦川の店名をクロスワードの問題に仕立てたものと、流行語の辞典とJ‐POPのCDを渡して微笑んだ。


「ぱらぱらとからからだと一文字違うだけで印象が変わるだろう」


 足立さんがそう言うと、リニさんは一瞬不思議そうな顔をした後、納得をしてうなずいた。


「案外そんなもので日々はできてるのかもしれないですね」




 トイレの消臭剤や入浴剤などの日用品を買った後、ペットフードの棚を見ていると背後からペット飼ってるんですか?と声がした。


 振り返ると、茜色のブラウスと黒いスカートを履いた女の子が立っていた。


 手にはドアノブを持っている。修理に使う道具を揃えるのに必要なのかもしれない。


 彼女はみさと名乗った。銀行員として働いているらしい。


 占いにあったオレンジのピアスをつけていたので、「ラッキーアイテム?」と聞くと


「そうだよ、もしかして同じ星座なの?」と質問してきたので、


「うちの母親と同じなの」と答えた。


「ちなみに私のラッキーアイテムは黒の帽子なんだ」


「ああ、かに座か」


 そう教えると、みさは大して興味もない様子で言った。


「なんだ、みずがめ座か」


 真似して私が言うと、みさが笑った。


「特別なカフェに連れていってあげようかな」


 笑い止んで、みさがイタズラっ子な笑みを浮かべたまま言った。


「ど、どんなカフェ?」




 みさの話を聞いて、特別なカフェという言葉の意味を理解した。


 このカフェではシングルマザーやニートを多くスタッフとして雇っていること。


 カフェの猫は全て元捨て猫だということ。


 そうとは知らず、何気なく利用し、カフェの事情を知ってからはもっとこういう取り組みが広がれば良いと思っていることなどを語った。


 最初に猫に雑菌が入らないようにと、手洗いをする。


 ハンドソープの泡がオーロラに光る。


 禁止事項をひととおり聞いて、ペットフードのカリカリを一つ買っていざ猫たちのもとへ。みさはキジの羽根を借り、ふざけて私に羽根をブラブラさせるので、フーッと声を出して軽くはたいて猫っぽく振る舞った。


 店内の猫をざっと数えてみたが、8匹くらいか。


 営業時間は朝の10時から夜の10時まで。


 てんでばらばらに散った猫は思いのままに生きている。


 カーペットにお腹を見せたリラックスした姿勢でくつろぐペルシャ猫。


 突然、アクセルが入った白い猫。


 電光石火の早さで走る猫にぶつからないよう避けるのが大変だ。


 みさが羽根を自在に動かし、走っていた白い猫を止まらせ、彼に獲物を追わせながら言った。


「何度もここに来てるから猫の名前もほとんど覚えたかも。白と黒のブチ模様は牛若ちゃんで、顔の部分の毛が両側茶色でまんなか白くてパンみたいな模様だからしょくぱんみみ、あの猫は・・・あー、わからない。店員さん、あの子名前なんだっけ?」


「黒糖です」


「そうそーう、インパクト強いのになぜか忘れてた」


 みさが黒糖を撫でるのを眺めていると、銀色のポニーテールの店員が灰色の猫を抱いた状態で近づいてくる。


「この子女性にけっこうなつくんですよー」


 そう言いながら、スッと私のひざの上に猫を置く。


 名札にはルゥリィと書かれている。


 うるるっとした目で私を見つめ、ひざを揉むようにする。くすぐったくて、悶えてしまう。


 ルゥリィの体をマッサージしてみよう。首筋や背中を撫で、肉球をにぎにぎした。うっとりと目を閉じ、安らいだ顔がかわいい。


 カリカリを与えると、これがまたおいしそうに食べやがる。


 みささんはというと、すごく人見知りする茶色の猫に終始ずっと無反応で対応され、さみしそうな面持ちをしていた。


 みさは無念なため息をして、手の上から猫を降ろした。


 それから私の元に歩いてきた。


 みささんはなかなか人懐っこい猫に出くわさず、抱っこをしても嫌がったり、怖じけて鳴かない猫にぶつかりやすい、猫運が悪いニャとぼやき話をした。




 馴染みの店員の詩歩ちゃんと一ヶ月ぶりに再会を果たし、みさの士気はギシギシ音が鳴るほど上がったみたい。詩歩さんは田舎の両親に会い、しばらく2歳の息子といたようだ。 もちろん旦那はいない。いてほしいがいない。


「あの、ここの猫カフェすごく好きなんですよ!!」


 みさが店内じゅうに響くほどの声で言うから、申し訳ない気分になる。


「ありがとうございます。そんなにはしゃいでしまうくらいなんですね」


「もっとカフェのこと知りたいんですけど、どこまで教えてくれます?」


 弾んだ調子でみさは聞いた。


「今日たまたまオーナーが来てるんですが、会ってくれると思います。休憩室でお待ちしていただけますか?」


 トントン拍子に話が進み、私が置いてかれっぱなしのままで盛り上がっていった。


 その時、左斜め後ろから猫のうなり声が聞こえた気がしたので、振り返った。


 虹色のキノコ型の足場がいくつも連なったキャットタワーの二段目と五段目に似た模様の三毛の姉妹がいた。足場を黒い猫が昇ろうとしたところ、不満げに二段目の猫が唸った。


きしゃあと強く鳴き、猫パンチをお見舞いし、黒猫は反撃に出た。


 ケンカを止めようと猫じゃらしを持ったメガネの男の店員がやってきたのだけど、猫たちに全く無視されてしまっている。


 おろおろと困り顔で立ち尽くしている。


 すると、茶髪のシニヨンの女の子がぱっと現れ、


「ここは私がやっておくから裏からトイレの砂持ってきてくれない?」と言った。




 オーナーが来るまで、休憩室で待たせてもらう。


 休憩室では来原くんが人の赤ちゃんを精いっぱいの猫なで声であやしつつ、ミルクを与えていた。


 先ほどの店員が


「集都くん、君のママ仕事中だけど、おとなしくしててね」と言った。


 私たちは互いに自己紹介しあった。


 メガネの店員は来原くんで、シニヨンの店員はリナちゃん。


 来原くんはニート生活を3年間ほど続けて、ある日喉の異物感を感じて病院に行ったが身体に異常は全くなく、ストレスが原因と言われたらしい。


「私は高校途中で辞めて彼氏とくっついたけど、シブい未来が待ってるとは思わなかった」


 リナちゃんは言った後に身震いした。


「一番元気がない頃、店にもほとんど出れる状況じゃなかったッスもんね」


「あいつったら、しょっちゅう嘘もつくし、待ち合わせにも遅れてくるし、お金貸してって言って、ギャンブルに使うし、ろくな人じゃなかった」


 思い出したら怒りが再燃したのか、リナちゃんの顔が睨むような表情に変わった。


「またたびで猫を引き寄せるように、良い出会いを引き寄せられたら生きやすくなるんですかね」


 そう私が願望を口にしたところ、沈黙が広がった。スベってしまった。


「なんか来原くんって彼氏と対極すぎて、外国の猫を見てる気分になる」


 言い得て妙な例えをするものだ。


「変なこといいますね。どこらへんでそう思ったの」


「優雅でのんびりした感じ」


 リナちゃんはぷっと吹き出して笑った。


「でも来原くんも最初の頃はクレーマーにガチヘコミして、小声でぼく遠吠えしたい気分ですよって妙な愚痴を言ってた頃が懐かしいな」


 リナチャンの言葉を聞いて、来原くんはすごく恥ずかしそうな顔をした。


「うっ、恥ずかしい昔話をするなあ。今まで何やってもあまり長続きしなかったけど、これはけっこう続いてる。バイト中に失敗しても猫見てると疲れも悲しみも吹き飛ぶ」


 来原くんは猫の顔を眺めながらつぶやくように言った。


「わたし、小さい娘に延々と愚痴を垂れ流していたけど、猫を飼うようになってから和やかな雰囲気の時間が増えた気がする」


 打ち明け話をしていると、詩歩さんが現れた。


「だいたいこの時間帯にオーナーが来るんです。お待たせしました」


 詩歩さんは私たちにそれを知らせると休憩室から出ていき、再び店に戻った。




 休憩室の奥にオーナーの部屋があった。エンジ色のソファーに朝番のバイトを終えたらしき女の子がくつろいでいる。


 女の子は私たちに気付くと、お茶用意しますねーと言って、部屋の左脇にある小さい冷蔵庫まで向かっていった。


「どんな人なんだろうね」


「動物がなつくような人なのかもね」


「一人の辛さを知ってから猫カフェを開いたのかな」


「時々人懐っこくて、時々放っておいてほしい考えの人なのかもね」


「オーナー、お客さんが来てる」


 二人で想像を広げていたら、女の子の声が聞こえた。


 ドアを開き、部屋に入ってきた革ジャンの男がオーナーだった。


 私たちはソファーに座った。休んでいた女の子は席を外し、仕事に戻ったようだ。入れ替わるように来原くんとリナちゃんが部屋を訪れる。富石はけっこう慕われているようだ。


 ソファの前の座椅子に座ったオーナーが話す。


「きれいな女の子二人かー。どう、この猫カフェでバイトしてみない?」


「自分探しが済んだら、してみたいバイトのひとつには入ってますよ」


「私は客サイドのままで良いかも。親戚にニートがいたらそこらへんのバイトよりは紹介できそうと思うんですけどね」


 みささんは自然な笑顔で言った。


「この猫カフェ、作った時はあることないこと適当に書かれてさ、売名行為だの、うさんくさいセミナーか何かに勧誘するのでは? みたいに言われてヘコんだけど、君らは普通のコたちみたいだな」


「少し疑心暗鬼にもなりますね」


「猫カフェを立ち上げた理由は何ですか」


 みさがオーナーにたずねた。


「人が近くにいないからこそ、猫でも何でもいないとおかしい方向にはぐれてしまうと思うのですよ、ぼくは」


 オーナーの富石は熱く力説した。


「自分自体、母子家庭で育って一時期ニートだったからそういう環境の人間を集めたくなったのかも。映像のテーマに彼らを使いたいってのもあったけど」


「まさかシングルマザー・ニート割引なんてやってるドーナツ店初めて見た」


「手っ取り早く君らに巡り会うにはそれくらいわかりやすく目立たないとダメだと思ったから」


「ネットの面白ニュースで取り上げられてましたよね」


 尊敬した目をして来原くんが言った。


「バイトも劇団も全くモノにならなくて、毎日酒飲んで暗い鼻歌歌って2年くらい過ごしたっけ。正月に母方の親戚が集まった時、映画配給会社に勤めていた叔父に色々話したら誘ってくれたから、今があるけど、意地を張って顔出さなかったらと考えるとゾッとする。この猫カフェの店名ははぐれた状況を元に戻せたオレみたいな人間をもっと増やしたいから、名付けたんだよね」


「イエース、はぐれもどし」


 リナちゃんが照れ隠しにはしゃいで言った。


「ようやくこの店のPR動画ができた。気合入れて作ったから見てよ」


 プロジェクターから映像が映し出される。


 一人の女性がマンションの玄関前で心細げな表情で佇んでいる。


 スマホのスケジュール欄は週4日のバイトを除いて、ほとんど空欄。


 髪は茶色と黒のまだらになっていて、染め直すにもなかなか金銭的な余裕がないのだろう。


 メールを確認することもなく、そのままポケットにしまうところからやりとりする友人に恵まれていないのかもしれない。


「無気力にうつむくシングルマザーの玲耶さん」とナレーションが入る。ミナちゃんの声だ。


 猫はそっと歩き出し、商店街を右に左に好き勝手に曲がっていく。


 寿司屋のおじいさんが余り物のカツオの刺身を猫に食べさせ、にっこり微笑む。


 小さい女の子は猫じゃらしでくすぐろうとして、猫にかわされる。


 店に続く三毛猫色の階段を昇る猫を玲耶さんは追う。オーナーが現れ、「コーヒー飲んでく?ついでに猫も見てく?」気さくにそう声をかけた。


 カフェオレのドアップから少しずつ画面が引いて、泣きかけた玲耶さん。マグカップを傾け、味わうとゆっくりと息をして笑顔を浮かべた。頭の上に吹き出しが出て、娘と仲良くするすももちゃんの写真が浮かんだ。


 猫に囲まれ、感動に泣いている玲耶さんと娘の場面でPR動画は終わった。




 幸福のねこまんまを注文する。


 あっ、ドリンクはウーロン茶にしておこう。


 店員に料理の内容を尋ねると、ねこまんまに大量のねこの顔の形の麩が付いたメニューとのこと。料理を持ってきたのは来原くんだった。


 猫の大群が茶碗にひしめいている。ふわっとした麩が口の中で優しく溶ける。


「おいしいです。猫たちが支え合っているみたいで」


「ようやく安心できる生活に手が届きそうな僕にはなんとなくわかります」


 はははっと笑った後、来原くんは穏やかな口調で言った。


「本当大変だよね。どうしてもバイトとかうまくいかなくて、ぐらぐらしっ放しなのは。最初のバイト先で上司と噛み合わなくて辞めた時はこれからのことを考えるのが不安だった時を思い出す」


「動物も不器用な人間もないがしろにされがちだけど、少しずつ上向きになんないかな」


 祈りを込めるようにぼそりと来原くんがつぶやいた。




 店を出て、夕闇の町の薄暗さになんだかしんみりする。


 弾んだみさの足どりのリズムになんとかついていく。


「そのドアノブ何で持ち歩いているんですか?」


「ドアを開けるような勇気が湧いてくるんだ」


「みささんったら意外とかわいい」


「えいっ、開け」


 ドアノブを私の体に当てて回す仕草をするみさ。


 じゃれる彼女にケラケラ笑って対応しつつ、何だか一進一退の日々の取っ掛かりが見えた心持ちになった。ドアノブが実際に何かを回し開けたのかもしれない。


 スマホのメールアドレスとツイッターのアカウントを教えあって、みさと別れた。




 食卓にはスーパーで買ってきたほうれん草と鮭のクリームコロッケと肉じゃがが並んでいる。


「あなた、体験サナギってのはどうだったの」


 お母さんがクリームコロッケをおいしそうに頬張りながら、聞いてくる。


「お母さん、ツナギだよ。変な間違い方しないでよ」


 私の眉がやや吊り上る。


「インドネシアの女の子に日本語を教えたり、猫カフェのオーナーに会ったりした」


「変わった経験してるもんだね」


「他に講座をチェックしたけど、ピエロの格好をして空き家が荒らされないか見張るものとか、鍵っ子を集めて劇をやったりとか」


「それもなかなか面白そうね」


「私もあんた産んでずっと家で時間過ごしてきたし、学生時代の友達ともたまにしか会わないし、どうしようかな」


「まさか母さんも参加する気なの?」


「ついていってもいいかな」


 母は期待に満ちた目で私を見る。


「一人で行くのもなんとなく気が乗らない時があるから、まあいいけど。帰り何かおごってよ」




 ゆるキャラがいる美容室として知名度を伸ばしてきている美容室こぴっとを尋ねた。こぴっとは甲州弁でしっかりという意味。店主の大藤さんが勝沼出身とのこと。


 入口の自動ドアが開き、話題のゆるキャラを見てわあと驚いてしまった。


 身体中にうどが生えた狸のうどぽんは痒さを覚え、はさみで頭の一部のうどを残して余計な箇所を切った。モヒカンの髪型ならぬうど型をした彼は黙々とお客さんの髪を切っていた。


 うどぽんは腕前や容姿を褒められるともじもじと照れるポーズをする。


 うどパイをよく差し入れにもらうらしく、私たちに食べきれないパイを1ダースほどくれた。


 うどぽん、なんてイイヤツ。


 店のシャンプーにはうどエキスが使われているようで、もはやお客さんは苦笑いするだとか。


 私と母はアシスタントとして受付や掃除を主にこなす。


 美容資格を持っていないので、シャンプーやヘアカラーを塗るなどのお客さんに触れる業務はできないが実は今回の体験ツナギはうどぽんの妹、うど子になるのが課題だから、そちらのほうが重要だろう。


 13時、待っているお客さんは5人。


 二人組の女子高生、主婦と男の子、OLが待合イスに座っている。


 うどぽんはファンの女の子をショートボブに整えていく。彼女ははにかんだ表情で鏡に映るうどぽんを熱い眼差しで見つめている。やりとりする声で気付いたが、中の人は若い女性なのに驚く。


 ありがとうございましたの挨拶の後に、とっておきの姿へと変わったお客さんが美容室を後にする。


 須藤さんはサーファーのような見た目のスタイリスト。


 浅黒い肌に、ワックスで立てた短い髪、短パンでワイルドな印象だ。


 しかし、子供の客にも落ち着いたテンションで接客するので、意外である。




 15時に大藤さんに和室に呼ばれた。


 うど子の着ぐるみは抜け殻のように畳の上に置いてあった。白い体に緑の手のひら型の髪が炎のようにゆらめく。紫のリボンがついただけで女の子っぽくなるってすごい。


 困ったような八の字の眉と星が多く入った少女漫画の瞳がチャームポイント。


「よく似合ってるよ。体型もバランス良いし」


「なんか緊張します」


「うどぽんよりも目立ってもいいから」


「えー、ハードル上げますね」


「着ぐるみ作るの、私だけでやるからアイデアは固まりやすくても、作業で手間取ったわ」


「一から服を作るのは大きいケーキを作るような手間がありますよね」


「じゃ、うどぽんタイムでよろしく」


 うどぽんタイムとは16時から一時間、うどぽんが日舞を踊ったり、子供たちと一緒に輪投げを楽しんだりして好評を買っている美容室のイベントのことだ。


 美容室の近くにある児童公園のスペースの一部でやっている。


「よろしくお願いいたします」


 大藤さんは通常業務に戻るため、和室を出ていった。


 突然ふすまが開き、小学生の男の子と女の子がドタドタと入ってきた。ランドセルを放り出して、二人とも私の前まで走ってきて囲むようにする。


 ちょうど学校から帰ってきた大藤さんのお子さんがうど子という格好の遊び相手を見つけてテンションを上げる。


 男の子の方は人気サッカーチームの赤いTシャツとジーンズ、女の子はハムスターの絵が描かれたピンクのTシャツ、黄色のスカートを履いていた。


 うろ覚えだが、男の子は真希、女の子はみつ子といった気がする。


「わあ、ママがもうそろそろできるかもと言ってたうど子だー」


「いも芋ヤロウ食べる?」


 私は声を出すか迷って、黙って首をノーの方向へ振る。申し出はありがたいが、喉が乾いては困るよ、僕ちゃん。


「学校長いし、くたくただよ」


「バク転してよ、余裕でやれるほど器用なんでしょ」


 小学二年生の娘さんはいかにも子供らしい無理難題を吹っ掛けてくる。


「大した給料もおみやげも出せないけどやる気出してな」


「人使いそこそこ荒くても勘弁ね」


「宿題代わってよ、ゆるキャラは陰でだいたいやってくれてるんだよ」


 真希くんはよほど宿題をやりたくないのか、反応を引き出そうとしてなのか、厚かましく変な駄々をこねる。


 そんな都合のいいゆるキャラがいたら、私こそ子供の頃に真っ先に頼っているだろう。


「中身イケメンなの?なら、お母さんにかけあってカット代安くしてあげようか?」


 黙っていてもかまってほしいのか矢継ぎ早にしゃべり倒すので、たまらず反応を返した。


「イケメンでもないし、女だしこれからイベントに登場しなきゃいけないの」


 私は早口で告げた。


 途端にみつ子ちゃんの顔が宿題を忘れた時のようなものに変わって、私は吹き出しかけた。


 オセロやってよと真希くんがランドセルからそれを出した。


 子供を追い払うのもめんどくさく感じられ、一戦戦えば16時前には離してくれそうだと考え、私はいいよと引き受けてしまった。


 思えば、甘えすぎる態度だった。




 子供と遊びすぎて約束の16時をやや過ぎてしまった。


 オセロを戦い終えると、今度はしりとりを要求して23番目にワインと言って、負けて終わりに思えた。


 真希くんは上機嫌にトランプを出すとババ抜きの対戦をせがみ始めた。


 何度も断ろうとしたのに、みつ子ちゃんが「やるの! やるの!」と連呼して止めないので従ってしまったのだった。


 遅れた分、頑張って目立っていかないと。


 児童公園に着いたものの、誰もいないので途方に暮れながら必死で探す。


 茂みが無性に気になって、そこへフラフラ進んだ。


 かくれんぼで遊んでいたらしく、木の陰に隠れていたうどぽんと目が合った。まさかと驚いて、二人同時にあ!と強く叫んでしまったので、簡単に見つかり、子供たちから飛ぶブーイング。




 アシスタントの井上くんがラジカセを渡した。


 押して、押してと小声で言うので再生ボタンを押すとが流れ出す。


 うどぽんが日本舞踊を踊る。扇子を持って優雅に舞う姿は様になっているが、ゆるキャラの格好だから非常にシュールな光景だ。


 三分ほど経って、手持ちぶさたな私はうどぽんの横に行き、パラパラを踊って子供たちがゲラゲラ爆笑する。


 ダンスが終わり、井上くんがその間に輪投げの準備を終わらせていた。


 どうやらうどぽんと対戦するらしい。


 私と子供たちは一回ずつ投げ、うどぽんは全部投げるようだ。


 先に投げる順番を決めるジャンケンをする。ジャンケン運に見放されがちな私はやはり負けてしまいうどぽんに決まった。


 うどぽんが投げた輪は右下の4の的棒に入った。


 私が投げた輪は地面に落ちた。


 二度目のうどぽんの輪は左上の1の的棒へ。


 緑のトレーナーの男の子が投げた輪は真ん中の6の的棒にハマった。


 逆転に成功して、子供たちのテンションが上がる。


 三度目のうどぽんのトライはダメだった。


 赤いスカートの女の子の輪も外れた。


 六回目まで両者得点は入らず、うどぽんが中央上の7の的棒を得るのに成功した。まんまと逆転を許してしまった。


 そのまま最後まで得点は入らず、うどぽんの勝ちに決まった。心底嬉しそうにバンザイをするうどぽん。


 賞品の駄菓子の詰め合わせ三袋を井上くんからもらい、さらにバンザイをするうどぽん。


 一人では食べきれないということでみんなで分けることに。


 麩菓子9本、コーラガム24個、小さなポテトスナック6袋、おかき3袋をなんとか配る。


「うどぽんはうどしか食べないんだ、本当だよ」


 自分の分の駄菓子まで子供たちに分けるうどぽんに子供が疑問をぶつけると、かわりに井上さんがふざけて答えた。


「なにそれこわい」


 野球帽の少年が茶化すように言った。


 小さい女の子のお父さんがたまらず笑う。


 あっという間にうどぽんタイムは過ぎた。




 頭を脱いだうどぽんから現れた顔は温和な表情の女性だった。


 表情とはあべこべにカチコチした動きで大藤さんの横に立つと、丁寧に礼をした。


 こちら鳥見さんと大藤さんが目の前のコを紹介する。黒いロングヘアーがすっぽりと収まっていたのが不思議だ。


「小さい頃からあまり人と接するのが苦手で、でも親戚の叔母さんが美容師の仕事してて、憧れてたんですよね」


 小声で話す癖のある鳥見さんの声は耳を澄ませるようにしないと、なかなか聞き取れない。妖精のような印象を与える人だ。


「なるほど」


「対人恐怖がひどくて、あんた腕はいいのにもったいないなあって大藤さんに言われて。小学生の息子さんがお姉ちゃん、ゆるキャラになって仕事してみたら?って提案したんですよね」


「えっ、そんな事情があったんですか」


「大藤さんはおかしいこと言うんじゃありませんって叱ったのですが、スタイリストのみんながうん、ありだと思う。このまま穂未ちゃんに仕事辞めてほしくないし、面白いアイデアじゃんってなって」


 須藤さんが茶目っ気のある笑顔で言った。


「一時はどうなることかと不安だったけれど、息子もただのバカではないらしい」


「ひどいな。ジャンボプリンおごってくれたっていいんだぜ?」


「将来うちの店を継いでガンガン稼いでくれれば、プリンなんかいくらでも食べさせてあげるよ」


 これだからケチな母さんは、とむくれる子供を須藤さんが撫でる。子供は照れて下をうつむいたままだ。




「あの子にシャンプーしてもらいな」


 店内に戻ってきて、着ぐるみを脱いで、それから三十分の休憩を終えて戻ってきた私の方を見ながら、トップスタイリストの蔵川さんが言った。


 いったいどんな思惑があるのだろう。


 言われたとおり、シャンプー台まで二人一緒に歩く。鳥見さんは台の上に身体を預け、目をつぶる。


 私は湯温を確認しながら、シャンプーの栓を押し、液体を手のひらに乗せる。ぎこちない手つきで鳥見さんの頭を洗う。


 シャワーを終わらせ、タオルを探す鳥見さんに渡すと、濡れた髪をゆっくりと拭いた。手が疲れているのに、パーマをかけてくれるのはサービス精神が強いのだろう。


 バラのシャンプーの香りがする。


 彼女の髪をドライヤーで乾かすと、華奢な髪質が手に触れて繊細な人形に触れているかのような気持ちになる。


「なんか、新人の頃を思い出しました」


 タオルで顔を拭いた後に、鳥見さんがつぶやいた。




「クリープパーマかけてみますか?」


 シャンプーを終え、きりっとした表情になった鳥見さんは私に提案した。


 もちろん断る理由がない。


 1剤のパーマ液を塗られ、くるくるっと髪を巻かれ、ある程度薬剤を浸透させる時間を置いたら、お湯でパーマ液を洗い流し、乾かし、今度は次のパーマ液を塗って完成。


 私は鏡に写る鮮やカールにホレボレした。


「あら、貴方、ここ一週間で二番目くらいにキレが良くなってるじゃない」


 パーマを当て終えた私と山のようなロッドを両手いっぱいに持った鳥見さんを見比べながら、蔵川さんは満足げに言った。


「久しぶりに褒めてもらえたのがうれしいです。パーマみたいなふわふわした喜びというか」


「気が迷うところがあってしばしばテンポが悪くなるところがあったのに、良い調子よ」


「わかりました、頑張ります」


「慎重であることに悪いことはそんなにないのにね」


「蔵川さんのようにぐいぐい引っ張っていけるような人に憧れているいんですけどね」


「あなた、末っ子?」


「あっ、そうです。蔵川さんは?」


「私は長女だから。まあ一度くらいは次女や末っ子に生まれてみたかったよ。でもこればかりは言ってもきりがないからね」


 にこやかな表情のまま、蔵川さんは踵を返し、次のお客さんのカットを担当する。




 閉店時間になり、母と帰ろうとしていたら鳥見さんが


「時間空いてる?」と聞いてきたので、母は挨拶をしながら先に行ってしまった。


「今はゆるキャラの中に入って仕事してるけど、顔を見せて髪を切りたい」


「鳥見さんなら、きっと大丈夫だよ」


 私は力強い声で彼女を励ました。


「ずっとうどぽんに入り続けるのもどうなんだろうって気持ちと名物ゆるキャラにしていきたい気持ちがぶつかるんだ」


 鳥見さんは胸の前で指をもじもじさせながら言った。


「時々うどぽんで、時々普通のスタッフとして活動することが一番丸く治まるかもね」


「あっ、ああっ、そのスタイル取り入れられたらな。まだ人が少し怖いけどいつかは」


「いいこと聞いたな」


「いいこと言えたな」


「ゆるキャラなのに、鳥見さんの人生は全然ゆるくないね」


「本当にね。強い対人恐怖があるのに、なんとかやれてる。ある意味ゆるキャラじゃなくてきつキャラだけど」


「また会おうね」


「当たり前じゃん、鳥見さん」


 別れ際、鳥見さんからうどぽんの作者の情報を教えてもらった。




 縦川商店街を見て回る。


 ドラ焼の店とたい焼き屋と中華料理屋、向かいには理容店、ドラッグストア、八百屋が軒を連ねる。


「ふんわりした白あんのどらやきだよ」


「外はカリッ、中は、えーと、まったりしたクリームのたい焼きいかがだーい」


「なんといってもチャーハン。途中で味に飽きたらラーメンの汁をかけてもレンゲが進む」


 色々な呼びかけに心が揺らぐ。


 菓子の香りが鼻をくすぐった際には甘味を味わいたくなり、チャーハンの香ばしい匂いがした途端、おかず物を求めたくなった。


 探していた絵本の店はあった。


 赤と青と黄色の北欧雑貨が並ぶアトリエ。


 絵本を一作品三十冊限定で売っている。


 うどぽんの作者のマカロン根元さんはロッキングチェアに腰かけている。


 美容室の常連客で、大藤さんからうどぽんの着ぐるみのデザインを相談された時には快諾したという。


 本来なら鳥見さんと一緒に訪問した方が打ち解けた雰囲気で話し合えそうだけど、多忙な彼女を誘うタイミングが見つからず、一人で来てしまった。


 うどとゆずを練り込んだ緑と黄色のマカロンを渡しながら根元さんは口を開いた。


「何から話そう」


 根元さんはポケットから緑色のハンカチを取り出すと汗を拭いた。


「その緑色のハンカチ、ひょっとしてラッキーアイテムのですか?」


「うん、そう。いて座の占い見てたら書いてあるんだもん。いい歳して信じるのもなんだかなあって思うけれど」


「私の今日のラッキーアイテムは鳥のキーホルダーなんですけど、持ってないのでパスしました」


「ちょっと揃えづらいよね。でも手元に無くても、悪いことが起きるという訳でもないでしょう」


「そうですよね。うどぽんはどこから生まれたんですか」


「縦川の名物なのかな、うどって。ちらほら見かけるじゃない。山菜をモチーフに使うのも斬新と感じて」


「確かに斬新ですね」


 私はそう言ってうんうんうなずいた。


「あっ、そうそう、鳥といえばね」


 根元さんは面陳された絵本の中から一冊の絵本を選び、私に渡した。


「とりの子とりとん」というタイトルが目に飛び込んできた。


 謎の鳥の子供とりとんは親切な鳥たちに育てられた。とりとんは危険が迫る可能性がある場所を見極め、警告する能力を持つ鳥に成長した。


 ある時、警告が全て外れてしまい、だんだん相手にされなくなってしまう。


 失意と憤怒を大根の葉っぱのヤケ食いで晴らすとりとん。


 鳥たちの間から姿をすっかり消して、木の上で鼻歌を歌うとりとん。でも、その鼻歌のメロディは悲しげ。


 絵本で使われる色ははとりとんがダメになっていく描写の中ではそれまでのクレヨンのカラフルな色彩から一転してモノクロで表現されている。


 別の島に旅に出ることにしたとりとん。たどり着いた島は踊りの島で、いたるところに踊り場があった。


 いろいろな鳥と何回も踊るうちに、とりとんはこれまでにない新しい踊りをひらめいた。羽根を持った上でそれを舞うと良いことが起きることに気付く。


 危険を予知する能力を失ったものの、良いことを起こす不思議な踊りを身につけたとりとんは今日も踊るというストーリーだった。


「読後感、あったかいえぽん、絵本ですね」


 私は変な言葉の噛み方をしつつ、素直に褒めた。根元さんはやや笑いそうになりながら、耐えている。


「いったん能力を失った後に、新しい能力をどんなものにするかなかなかアイデアが浮かばなくて苦労しました」


 絵本についての話が終わり、根元さんによかったら持ち帰ってと言われ、ポーチにしまった。


「鳥見ちゃん、最初会った時よりだいぶ元気になってよかった」


「怪我をしてたんですか?」


「ううん。ちょうど美容師の仕事がうまく行かず、恋人とも別れた直後でガクンと落ち込んでいる頃だったの」


 しょっちゅう目の下にクマを作り、泣き腫らした顔の彼女と会うことが多かったらしい。


「調子を取り戻すのに絵本が役に立っていそうですね」


「よくわかったわね。夢中で私の絵本を読んでくれていたの。何が面白いのか自分で疑いたくなるくらい、熱心に」


 店内にある絵本を一気に読み尽くし、習作までも今までの根元さんの過去を味わうかのように読んだという。


「今、美容室に立てているのは根元さんのおかげでもあるんですね」


「そこまで役に立てたかわからないけどね。絵本の絵を一部描いてくれたりして、私の方が助かったくらい」


「人生でどう進んでいいかわからなくなった時、どうしたらいいんですかね」


 答えに窮するような質問でも、根元さんなら絵本を描くより簡単に答えそうな気がした。


「ホットケーキをひっくり返す感じ思い出してごらん」


 泡がぽつぽつ表れる、そこそこに焼けてきたホットケーキを思い浮かべた。


「ああ、なるほど」


 根元さんの例えになぜかすごく納得がいっている自分がいた。


「いつの間にかタイミングが揃っていてひっくり返しても生地が崩壊しないように進む物事もあるはずなの」


 言い終わってから根元さんは「半分は生焼けのまま、取り上げる羽目になるような状況もあるけれど」と付け加えた。


 ひととおり話をして、たまごパーティーという絵本を買って、アトリエを出た。




 人生を常に最良の方向に導くラッキーアイテムは存在しないけれど、一日ごとに夢見て生きていたい。時間はいつも矢のような速さで過ぎて、やるべきことは後回しになりやすく、前に進まないことばかりでも、一つずつホットケーキを食べるようにこなしていきたい。ラッキーアイテムを一生でどれくらい見つけられるのかな。



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