6 番外編・『紙婚式の頃』
本編から一年半ほど経った、主人公たちの日常を書いてみました。
糖度は低めですが、それなりにほっこりしたお話になっていると思います。
るりは最近、家事の合間にちょっとしたことを思い出し、クスクス笑うことが増えた。
結婚してもうすぐ一年。
小波での暮らしにも慣れてきたし、花屋でパートタイムの仕事も始めた。
そして、碧生との暮らしにも慣れてきた。
お互い違う環境・違う家庭で育ってきたのだ、たとえ相手に愛情があっても、驚いたり理解しにくかったりする部分はどうしても出てくる。
例えば。
碧生は真面目で手の抜けない人だ。
当然長所だが、短所でもある。
仕事でそれをやると、どうしても効率が悪くなる。
結果、身体に負担がかかる。
そもそも彼は頑健ではない。
特定の病気ではないが子供の頃から心臓の不整脈を抱えているようだし、疲れやすい体質で無理が利かない。
疲れると頭痛がするとよく言っているし、市販の頭痛薬が薬箱に常備されている。
頭痛薬を飲みながら青い顔でパソコンのキーボードを叩いていることも、少なくない。
るりとしてはそんな碧生が心配だが、だからと言って仕事のやり方までは口出し出来ない。
彼に限界が来て倒れないか、はらはらしながら見ているだけである。
一緒に暮らし始めて三ヶ月ほど経った、まだ寒い頃のことだった。
持ち帰ってきた仕事を手に休日の午後、彼は二階の仕事部屋に籠った。
宵になり、夕食の支度が出来たのでるりは彼を呼びに行く。
二階の仕事部屋のドアをたたいて声をかけたが、返事がない。
それどころか気配らしい気配もない。
不審に思い、首を傾げながらるりはドアを開け……息を呑む。
碧生は、何故か仕事机の下に、手足をきちんと伸ばした状態で仰向けになり、目を閉ざしていた。布団に入っていれば、さながら臨終シーンのような感じだ。心臓が強く収縮するのを、るりは初めて体感した。
「あおいさん!」
悲鳴を上げてるりは彼の両肩に手をかけ、抱き起した。
「……はあ?」
軽くうなった後うっすらと目を開け、彼は、間の抜けた声を出してるりを見た。
「碧生さん!大丈夫なんですか?倒れたんでしょう?」
「は?え?たおれた?」
言葉の意味を把握していない目でるりを見た後、辺りをぼんやり見まわし、
「いや……急に眠たなってきたから、ちょっと寝よかな~って……」
と、当たり前のように言った。
不意にるりは、彼と初めて会った頃、何故か彼が松の根方ですやすやと眠っていたことを思い出した。
あの時は、眠れない事情があったせいであんなことをしていたのだろうと思ったのだが……いやまあ、それはそれで間違っていないのだろうが……、これは単純に彼の癖なのだと、閃くように理解した。
猛然と腹が立ってきた。
「んもう、馬鹿!バカバカバカ!びっくりしたじゃないの!」
碧生はるりの剣幕に驚き、目をまんまるに見開いて硬直していたが、涙ぐんで怒っているるりへ、さすがに申し訳ない気分になってきたらしく、
「えーと。あの。ごめん。すんませんでした」
と、きちんと正座をすると肩をすぼめ、謝った。謝ったが、
「えーとその。でもナンデそんなにびっくりしたん?」
と訊いてきたので、るりは再び
「んもう、馬鹿っ」
と叫んだ。
落ち着いた後、話をした結果。
碧生は眠くなるとその場で眠り込む癖がある事(彼曰く『でもちょっとだけやで?メッチャ暑い場所や寒い場所ではさすがに寝込まんで』だそう。確かにファンヒーターはゆるくかかっていたが、フローリングに薄手のカーペットを敷いただけの場所で、上に何もかけず無造作に寝るのはどうかと思う)、今まで、特に一人で暮らすようになってからあちこちで無造作に眠るようになったが、それを特におかしいとは思っていなかった事、などがわかった。
るりとすれば、眠るべき場所……たとえば、寝室のベッドの上でちゃんと眠っているならまだしも、ひょっとして倒れたのではないかと心配になる、いくら本人が病気ではないと言っていても、不整脈を抱えている夫がとんでもないところで眠り込んでいれば、妻である自分は心配になると訴えた。
「そ……そうか。そりゃ……言われてみたらそうやな」
一応納得してくれ、今後気を付けると彼は約束してくれたが、疲れがたまってくるとやっぱり、リビングなどでひっくり返って眠っていることが、それ以後もちょいちょい、あった。
また『真面目で手が抜けない』性格は家事にも反映される。
碧生は元々一通り家事が出来る上に嫌がらない人で、そういう意味では理想の旦那様かもしれないが……『家事が出来る』人は『家事にこだわりがある』人でもある。
るりは今のところ彼と、7対3とか6対4……という感じでゆるやかに家事を分担しているが、夫の方が何でもきっちりしているし、こだわりが強い。
洗い物用のスポンジひとつにしても細かく分けてきちんと並べていて、間違って使わないようるりは結構、気を遣う。
こういう細かさは時に、面倒だったりイラっとしたりするのを否めない。
世の中には、自分で家事は一切しないくせに、チクチクと細かい文句を言う旦那さんも多いだろう。そんな人に比べれば、碧生は100倍いい旦那さんだ。
が……もっといい加減だったとしても、別に死なないのにな、と、密かに思うことはある。
夫は夫でるりのことを、女性にしては大雑把な人だなとか何とか、思っているのかもしれない。
そんなこんなを思い出していると、何だか可笑しくなってくる。
最初は驚いたり戸惑ったりしたあれこれも、慣れてくれば不思議と愛嬌だ。
大真面目に洗い物のスポンジを使い分けている彼が、何だか可愛く見えてくる。
もっとも所かまわずうたた寝する癖は、今でもやっぱり悪癖だと思うが。
【奥さん】
開け放った窓から、声でない声が聞こえてくる。
【ご機嫌さんやな。ナンかエエことでもあったんか?】
「うーん、別にそうでもないけど。ただ、明日は碧生さんがお休みだなって思って……」
するとしらッとしたような気配で
【さよか】
と声は答えた。
【結婚してもう一年になるのに仲のよろしい事で。ご馳走さん】
和棕櫚のナンフウだ。
庭で最年長の樹木として、彼はどっしりとそこにいる。
人間で言えば、気兼ねのいらないお隣さん感覚だ。
彼らが目を覚ました後も、るりには彼らの姿が見えないのだと知った時は、とても哀しかったし寂しかった。
【ですが、悪いことばかりとも言い切れませんよ】
小波神社、という名の地元の神社の神木でもある『義昭の楠』が、葉擦れの音を響かせて言う。
【ヒトの身で見え過ぎるのもお辛いでしょう?貴女は今まで、そのせいでご苦労をなさってこられた】
いたわるような優しい声だ。
【貴女はあの時、月のはざかいを小波全体に敷き、黄泉平坂を行こうとしていた我々のクサのツカサを現世へ連れ戻してこられた。それだけでもかなりの霊力をお使いになられた筈です。幻視の霊力が衰えるということが起こっても、それはもう仕方がないでしょうから】
我々木霊の声が聞こえてしまうのも、やはり余計な能力なのかもしれませんが、と、ためらいがちに言う巨木の幹に、るりは軽く触れた。乾いた幹は、ほんのりとあたたかい。
「いいえ。余計な能力なんかじゃありません」
るりの言葉に、巨木は物問いたげな波動を向ける。
「とても豊かであたたかい……嬉しい能力ですよ」
ふわりとほほ笑むように、楠の大樹は葉擦れの音を響かせた。
初めての結婚記念日を祝って、しばらく経った頃。
冷たい風の吹く日だった。
夕方に仕事から帰ったるりが玄関のかぎを開けようとした時、
【奥さん、奥さん】
と、ナンフウが声をかけてきた。
【あのおっさん、一階の和室で機関紙用の手本を書く仕事しとったけど、今しがた電池切れてひっくり返りよったで。はよ起こして寝床に連れてきや】
碧生が疲れて所かまわずうたた寝する癖を、ナンフウは『電池が切れる』と表現する。
なるほど、言われてみればそんな感じだと、るりはちょっと感心した。
彼が眠る癖は、体力のギリギリまで手を抜かずに仕事をしているせいだということも、さすがに見えてきた。
ナンフウが言うには、碧生には昔からそれに近い癖があり、気付いたら起こしてどやしつけたやったのだそうだ。
「もう、また?ありがとう、ナンフウさん」
【なんの。お隣さんの誼や】
ちょっと照れくさそうに言うと、ナンフウは手を振るように葉を軽く鳴らした。
一階の、庭に面した部屋に一室だけ、茶室にも使える小さな和室がある。
書道関係の仕事や展覧会の作品の創作などを、彼はいつもこの部屋でやっている。
襖を開けると、湿った紙と墨のにおいがただよってきた。その部屋の真ん中で、碧生がうつ伏せになって眠り込んでいた。
「碧生さん、碧生さんったら」
肩をゆさぶると、うーんとうめきながら碧生は渋々のように片目を開いた。
「んあ?ああ……お帰り、るりさん」
「またうたた寝して。ホントにもう、風邪ひいても知らないんだから」
るりに文句を言われ、碧生はもぞもぞ起き上がって半身を起こし、ぼんやり首筋をかいた。
「眠たい……」
放心したような顔でそう言う碧生の背中を、るりは軽くたたく。
「夕飯は今から用意するから、小一時間くらいかかると思う。だからその間、ベッドで眠ったらどう?」
「夕飯?ああ、もうそんな時間か。今日の夕飯、ナニ?」
「ポトフにしようと思うんだけど。ホットケーキミックスで、簡単なケークサレでも焼こうとも思うし」
「おー、エエな。そういうのんが美味い季節や」
そう言いながら立ち上がり、ふらつきながらも彼は部屋を出る。
るりも立ち上がり、部屋を出ようとして、ふと気付く。
小机の上に、半紙用の手本として書かれた作品が乗っていた。
一般会員向けに書かれた、楷書の手本だ。
きりりとした美しい線の、端正な楷書作品。
だけど不思議とその作品から、まるで初夏の陽の光が差してくるような、明るさとあたたかみを感じる。
結木草仁の書だ。
るりは無意識のうちに姿勢を正し、作品へ向かって頭を下げていた。
風にゆれ、陽をはじく若木の葉のさざめきが、作品の向こうから聞こえてくるような気がした。