12 夢幻まかない料理人②
扉をくぐる。
「いらっしゃーい」
と、どこからともなくのんびりとした声が響いてきた。
私はハッとし、素早く声の方を向いた。
白の塊。
かと思ったら、背が低くて丸っこい中年の女性だった。
白い割烹着に三角巾をキリリと身に着け、縁なしの眼鏡をかけた丸顔の女性が、にこにこ笑って立っていた。
私はぱちぱちと目をしばたたき、女性の顔を見た。
初めて見る筈なのに不思議と懐かしい人だなと、ぼんやりした頭で思った。
「あらま。ずいぶんとまた重なっているお嬢さんが来たねえ。まあいいでしょう、どうぞ」
彼女はよくわからないことを言うと、目で私を招いた。
瞬間的に躊躇したが(だってお金なんか持っていないし)、彼女の笑顔に抗いがたい吸引力を感じ、招かれるままに私は店内へと導かれた。
落ち着いた色合いの木の床に気まぐれのように配置された、さながら子供のごっこ遊びのような、寄せ集めめいたテーブルセットがいくつかある。
その中で、すべてが白いシンプルなデザインのソファーとローテーブルの、四人掛けの席に私は案内された。
座るとすぐにサーブされたのは、透きとおったグラスに入った、やはり透きとおった氷の浮いた、水。
考えるより先に手を伸ばし、私は水を飲んだ。
ひんやりとした水が心地よく全身にしみわたる。
美味しい。
ひどくのどが渇いていたのを、水を飲んで初めて私は気付いた。
ひと息にグラスの水を飲み干し、息をつきながらテーブルにグラスを戻す。
すぐさま新しい水がサーブされた。
目を上げると、白い陶器のクラシカルな水差しを持った、さっきの女性がいた。
「まずはゆっくりと水でも飲んでいて。落ち着いたら声をかけて下さいな」
そう言うと彼女は、水差しを持ったままきびすを返す。
なんとなくその後ろ姿を目で追っているうちに、どんどんと意識が澄んでくるような気がしてきた。
何度か瞬きをし、私はゆっくりと店内を見回した。
意外と広い、のにまず驚く。
体育館とは言わないが、教室ふたつ分くらいの広さはありそうだった。
その広い空間に、ポツリポツリとテーブルセットが置かれている。
セット毎に高さも様々・材質もまちまちだったが、たとえば私の席が白でまとまっているように、それぞれどれも同色の上、不思議なくらい同一トーンの色でまとめられたテーブルセットだった。
そのせいか、店内に雑な印象はない。
俯瞰のイメージとして、木の机の上にさりげなく散らばった数色のクレパス、という感じだろう。
ぼんやりそんなことを思いながら私は、無意識のうちにもう一口、水を飲んだ。
不意に、キィイン、とかすかに耳鳴りめいた音がしたかと思うと……視界の隅で動いている何かに気付いた。
食事をしている人だった。
5、6mほど離れたところにある、暗い青のテーブルセットに座っている三十過ぎくらいの男性。
空色のポロシャツにコットンパンツのラフな格好だったが、ひどく思いつめたような、あるいは儀式に臨んでいる人のような、生真面目に引き締まった表情で食事をしていた。
そんなにしゃちこばって一体何を食べているのだろう、と、私は瞳をこらす。
彼が食べているのは、白いオーバル形の皿に盛られているカレー、だった。
大きめのスプーンでご飯とルゥを軽くまぜ、粛々と彼はカレーライスを口へ運ぶ。
皿の底とスプーンが触れる、かすかな音以外は何も聞こえてこない。
ふと、強烈なまでにエキゾチックでスパイシーな香りが鼻先へただよってきた。
(あ、これは!)
この店に気付くきっかけとなった、あの香りだ。
ここってカレーの専門店なのかなと、私は、ややのん気にそう思った。
特別カレーに詳しくなくても、この香りがかなり本格的なカレーというか、普通に出回っているものとは違うとわかる。
もちろん、何故さっきの女性が『死後の世界』で、カレー屋さんを営業しているのかはわからないが。
男性は静かにカレーを食べ終わると、テーブルにあった紙ナプキンで口許をぬぐい、水を飲んだ。
そして彼はふと思い出したかのように目を上げ、私を見……切なそうに、ふっとほほ笑んだ。
「あっ」
強烈な既視感。
この目、この顔。
そしてこの、困ったような苦笑い。
『否定はできないな』という、少し情けない声。
知っている。知っている!
「お前は……!」
ぞんざいな言葉と共に、激情がほとばしる。
理不尽への激怒、置いて行かれる寂しさ、そして……彼への強い思慕。
男性は再び困ったように笑い、小さな声で
「さよなら」
とつぶやき、消えた。
消えたのだ、まるで蒸発するように。
「さよなら、じゃねえよ、あの馬鹿が……」
真白のソファにぐったり身を預け、泣き笑いをしながら私は手を伸ばし、グラスの水を口に含んだ。
とうとう行っちまったんだな、と、不思議なくらい静かに納得しながら。
キィイン、と再び、耳鳴りめいた音が響く。
ハッと気付くと私は、『私』に戻っていた。
あの男性をよく知る、ぞんざいな口調の『誰か』ではなく。
「おや、ひとり帰ったみたいだね」
水差しを持った彼女がいつの間にかそばにいて、どこか飄々とした感じでそう言った。
「月の氏族の巫女姫は、正しい意味で『巫覡』と呼びにくい者が多いんだけど。お嬢さんはどうやら、本来的な意味で『巫覡』の素質が濃いらしいね」
「どういう……ことですか?」
私の問いに、彼女は少し困ったように眉根を寄せる。
「あー、説明がしにくいねえ。お嬢さんはわからないだろうし、実際にどうなるのかは未知数だけど。今のあんたの状態は、ちょっと困るくらい優秀な巫覡らしいね。困っている女の子たちが、あんたを頼って重なってる。穏便に彼女たちを帰すしか、あんたはここから戻れないよ」
私は首を傾げた。
やはり、何もかもがよくわからない。
「えーと。お聞きしたいんですけど。そもそもここは何処で、あなたは誰ですか?どうしてこんなよくわからないところで、カレー屋さんを営業してるんですか?」
思い付くままに問うと、彼女は苦笑いした。
「別にカレー屋さんをやってる訳じゃないんだよ、今回はたまたまカレーだっただけで。心に強く残る食べ物や飲み物を提供するのが、私の役割なんでねえ」
彼女はますますわからないことを言うと、真顔で私を見た。
「まあ、ここら辺りを仕切ってるというか面倒みてるというか。自治会とかPTAの役員みたいな者なんだよ、私は。此岸と彼岸の狭間で迷っている連中に、こうやってまかない料理を出して、ゆくべき先を案内してるんだ」
『ゆくべき先』……『逝くべき先』。
急に背筋が冷えた。
やはりここは死後の世界なんだと思い知る。
「ところで。お嬢さんはまだまだ重なっているみたいだけど、何か食べたいものとか飲みたいものとか、思い浮かぶかな?」
別に無い、と言おうとした次の瞬間。
香り高い緑茶の味が、鮮やかに舌によみがえった。
「お茶……緑茶を。あの時のお茶が、飲みたいです」
彼女は眼鏡の向こうの目をやるせなさそうに歪め、
「……了解」
と言ってきびすを返した。




