11 恋ですらなく~知られざるハートブレイクストーリー③
学園祭も済み、校内もようやく静かになり始めた。
心なしか、吹く風もひんやり感じる。
日毎に秋が深まっている。
もう冬が近い。
職員室へ書類を届ける途中、私は廊下の窓から中庭を見た。
芝生に覆われた中庭の中央に、メタセコイヤの大木が風に枝葉をゆらせていた。
枝先の葉が茶色く色変わりし始めている。そろそろ葉が散るのだろう。
ふと、この先永遠に冬に閉ざされるのではないかなどと、馬鹿げたことを私は思った。
少なくとも個人的には、明けない冬に閉ざされたようなものかもと心でつぶやき、自分で自分の感傷を嗤う。
草仁先生が結婚される。
この間、津田高から先生へ結婚祝いを贈る為のお金を集めていたので、私も出した。
お祝いの寄せ書きを書くと言うので、私も書いた。
そして、それ以上この件に関して私が何かするのは過剰になる、自分の立場を改めて思い知った。
(失恋でさえない……)
教え子の立場から、あえて抜け出さなかったのは私だ。
私は草仁先生が好き。
でもそれは私の一方的な感情。
伝えても先生を困らせるだけだと思っていた。
……そう言い訳し、うずくまり続けていたのだとも思い知る。
(せめてちゃんと失恋をしておけばよかった)
その方がもっとすっきり、先生のご結婚を祝えたかもしれない。
あの方はさながら草原に立つ孤高の樹のような人で、恋などという人間臭い下世話な感情とは無縁に、気高く生きている。
私はいつからか、自分勝手にそう思い込んでいた部分があったようだ。
孤高の樹はそれだけで完結していて、何を付け加えても世界を壊す。
だから、たとえどんな女性であったとしても、彼の隣にはふさわしくない。
容姿やら能力やらの問題ではない、あの方の魂に寄り添える女性など、おそらくどこを探してもいないだろう。
……だから当然、私もふさわしくない、と。
(言い訳だ)
わかっている。
行動しなかった理由なんて、拒絶されるのが怖かったからに過ぎない。
書類を渡し、階段を降りて一階の事務所へ戻る。
その途中、何故か中庭に寄りたくなった。
いつにないことだったが、ちょっと息抜きがしたかったのかもしれない。
今は授業中、中庭には当然誰もいない。
2~3分、ここで一人ぼんやりするくらい、別にいいだろう。
芝を踏み、なんとなく中央のメタセコイヤの巨木へ近付く。
中庭には他にも数本、メタセコイヤの木があったけど、中央の木が一番大きく、すらりとして美しい。
草仁先生の立ち姿に似ていると思い、未練がましい自分が自分でイヤになる。
ふと、どこからともなくやわらかな笛の音が聞こえてきた。
音楽室での演奏が、風に乗って流れてきたのかもしれない。
とぎれとぎれのその音に、私は耳を澄ませる。
自分でも持て余す、鈍い痛みを包んで隠してくれるような、優しいメロディライン。
無意識のうちに私は、メタセコイヤの幹に手を伸ばした。
姿の美しい巨木の幹は、思っていたよりあたたかった。
一瞬、何故かふっと目の前が暗くなった。
津田高校の標準服をきちんと身に付けた、細身の少年が見える。
柔らかそうな茶色がかった髪の、よく見ると繊細な目鼻立ちの、美少年と言える男の子だ。
彼は木製の、フルートくらいの大きさの横笛を奏でていた。
柔らかな音色が紡ぎ出すメロディは、ドビュッシーの『月の光』を思わせるがどことなく違う、オリジナル曲のようだった。
もしかするとこの少年が作曲したのかもしれない。
私は幹に手を置いて立ち尽くしたまま、ぼうっと少年を見ていた。
夢を見ているのかな、と、心のどこかで思う。
彼がこの学校の生徒だとしても、授業中の中庭で笛を吹くなんて状況が変だし、ついさっきまで無人だった筈。
誰かがいるようなら、私はそもそも、中庭に寄ったりしなかっただろう。
静かに吹き口からくちびるを離し、少年はほほ笑んだ。
やわらかな、ふわりとしたほほ笑み。
どこかで見たような、懐かしく切ないほほ笑み。
「おねえさん」
どことなくボーイソプラノの名残りの残る、可愛らしい声だ。
「その……あの方が、すみません」
急に謝られて驚いたが、『あの方』が草仁先生のことだということは、何故かわかった。
「僕は木霊だから、恋がどんなものかはっきりわかる訳じゃありませんけど。でも、気持ちが伝わらないもどかしさや切なさは、少しは察せます。僕も遠い日、ただ黙ってあの方を見ているしかなかった、死にたいくらい苦しんでいたあの方に慰めの言葉一つかけられなかった、辛かったあの頃の気持ちを思い出すと今でも苦しくなりますから」
少年はそう言うと、再びやわらかく笑んだ。
ああ、草仁先生の笑みだと私は覚る。
そして、彼はやはり草原に立つ孤高の樹だったんだと納得した。
不意に風が強く吹いた。
枝葉がゆれ、葉ずれの音が響く。
ああそうか。
草仁先生が選んだ方はきっと、枝をゆさぶる風のような女性なんだ。
涙がにじんできたけれど、それは決して嫌な涙ではなかった。
「おねえさん。冬は終わります、いつかきっと。冬を乗り越えたからこそ……春の暖かさ、明るさや優しさが身に沁みます」
少年は静かにそう言うと、再び横笛の吹き口にくちびるを寄せた。
やわらかな、それでいて寂しい音色。
寂しいけれど、来る春の明るさが旋律の後ろに感じられるメロディ。
涙のにじむまぶたを閉じる。
芽吹いたばかりの幼い緑の香りが、不意に鼻腔をくすぐった……。
ハッと我に返る。
メタセコイヤの幹に軽くもたれるようにして、私はぼんやり立っていたらしい。
あわてて身を起こす。
まばたきした刹那、涙が転がり落ちてさらに驚く。
ポケットからハンカチを出し、そっと両目を押さえた。
(ああ……。夢だったんだ)
どうやら私は立ったまま瞬間的に眠り込み、白昼夢を見ていたらしい。
葉ずれの音が響く。
今年最初のメタセコイヤの落ち葉が、ハラハラと舞い落ちてくる。
(おねえさん。春は来ます、いつかきっと)
夢で出会った少年の声が、葉ずれの音の向こうから聞こえた。
私はハンカチを顔から外し、ゆっくりと上を見上げた。
黄色味を帯びた秋の陽射しの中、メタセコイヤの巨木は静かに私を見下ろしている。
まるで気遣うようにゆれている梢へ、私は、笑みを作ってうなずいた。
伊賀海栗様より、メタセコイヤの遥のイラストをいただきました。




