11 恋ですらなく~知られざるハートブレイクストーリー①
結木の周辺にいるけれど、知人でしかない女性の物語。
ハッピーエンドのラブストーリーの裏には、こういうささやかなハートブレイクストーリーがあるものではないでしょうか?
風に、秋の気配を感じるようになった。
職員用の自転車置き場に自分の自転車を止め、私はひとつ息をつく。
ついこの間までは自転車から降りた途端、全身にじわっと汗がにじんできた。
下着が肌に貼り付く感触に、未だしぶとく夏が残っているなと舌打ちしたい気分だったけど、昨日一昨日辺りから貼り付きがなくなってきたような気がする。
(……学園祭が近いなァ)
どこからともなく、木犀の花の香りが流れて来る。
この香りが強くなる頃、津田高校では学園祭が行われる。
私が津田高校に勤めるようになって、今年でもう二年になる。
学園祭など事務員の自分には直接関りないが、それでも学校全体が浮き立った雰囲気になるので、釣られて忙しいような楽しいような気分になってくる。
書道部の活動も佳境、なのだろうか?
今日からしばらく、特別顧問の結木草仁先生がいらっしゃるはずだと聞いている。
「非常勤やけど、母校で学校事務の職員を募集しているらしいねん。応募してみる?阿佐田さん」
結木草仁先生がそう私へ教えて下さったのは、就職活動で全敗していた大学四年の冬。
筆記試験と面接を経て、私は春から津田高校の臨時採用の事務員になった。
三年問題なく勤めれば、正職員になれる道があるからだろう。定員一名の枠に、十人を超える応募があった筈だ。
私が採用されたのは、草仁先生のそれとない推しがあったのかもしれないけど、それだけで採用されるほど甘くないことも知っている。
運が良かった、が一番大きかったのではないかと個人的には思っている。
でもあの時、草仁先生に声をかけていただいてなければ今頃フリーターだったろうとも、私は思っている。
そういう意味でも私は運が良かった。
国語科の教職課程で必須だった『書道』を履修した、大学一年生の春。
私は結木草仁先生と出会った。
もっとも講師と学生のひとりとしてだから、出会ったというのも烏滸がましい、一方的な出会いだが。
教職課程を受講していたものの、教師になるつもりは正直、私にはなかった。
ただ、大学で取れる資格はもれなく取るつもりで、私は進学していた。
大学時代は人生の夏休み、という言葉もあるそうだけど、夏休みを遊びで埋めるような精神的余裕など私にはなかった。
私は裕福でも何でもない家庭の娘で、オマケに下には二人、弟妹がいる。
この進学が唯一のわがまま、親にこれ以上の迷惑はかけられない。
卒業後、独り立ちする為の武器は多いほどいい。
そんな、どこか気負った気分で大学の門をくぐったのを、私は今でもよく覚えている。
私は自分が、容姿や性格や技術?で玉の輿を狙える女ではないことくらい、中学生を過ぎる頃くらいからちゃんと知っている。
『女』という武器が使えないのなら、『社会人』としての武器は出来るだけ取り揃えたい。
この大学では司書や司書教諭の資格も取れる。
教師ではなく、図書館員や図書館の先生になれるのならなりたいという漠然とした夢が、この大学への志望動機のひとつだった。
図書館への就職はコネでもない限り絶望的、だという噂も聞いたが、大学入学当時、私はまだ楽観していた。
楽観と悲愴。
両極端な感情に翻弄されながら、私は人生の夏休みを過ごした。
総代に選ばれるほど優秀ではなかったが、ちゃんと真面目に講義を受けて真面目に単位を取り、ソコソコいい成績で卒業できそうだった。
しかし何故か、なかなか就職先が決まらなかった。
一体何が悪いのかわからず、焦る日々。
フリーターになるか派遣社員として働きながら、就職活動を続けるしかないかと思い始めた頃、草仁先生に声をかけていただいたのだ。
『書道』の講義初日、講義室に現れた草仁先生に、皆がちょっとざわめいたのを覚えている。
紺のスーツという就活生のような服装だったが、就活生のような『借りてきた衣装』っぽい感じではなく、ちゃんと身に着いていた。
スーツを着て仕事をするようになって、それなりの時間を過ごしてきた貫禄とでもいうものがすでに先生にはあった。
書道の講師なのに(偏見かもしれないが、書道の先生ってお爺さんに近いおじさんかお婆さんに近いおばさんってイメージがある)、まだ学生のように若い男の先生が現れ、学生たちの目に生気がともった。
ウチの大学は、この辺りではそこそこ歴史のある女子大で通っていて、昔気質な雰囲気が残っている。そのせいか、キャンパス内に若い男性がいることそのものが目新しい。
「はじめまして。こちらで『書道』を担当させてもらうことになりました、結木と申します」
もの柔らかな、耳障りのいいテノールの声。
学生たちの目がさらに熱くなる。
彼はそんな雰囲気など感じていないのか、飄々とした感じで後ろを向くと、ホワイトボードに端正な字で『結木草仁』と書いた。
「雅号を『草仁』といいます。所属してる書道結社の最年少の師範で、まあ言うたらコチラさんで修業させてもらえっちゅう感じで派遣されてきました。他人様に書道教える経験は無いでもないですけど、子供さんとか高校生ばっかりで。ここまで大勢の大学生の方に教えるんは初めてです。あ、名前は結木でも草仁でも、好きな方で呼んで下さい」
拙いでしょうが一生懸命取り組ませていただきますんで、よろしく。
最後にそう言って彼は、律儀にきっかり頭を下げた。
結木草仁先生は、顔はイケメンと言うほどではないけれど姿勢が良くてすらっとしていて、立ち居振る舞いのきびきびした『雰囲気イケメン』とでも言う人だ。
退屈そうに講義室に座っていた学生たちの態度が、途端に生き生きしたものに変わった。
調べていないから正確なことは言えないけれど、草仁先生が担当するようになって『書道』の出席率や履修率が、格段にアップしたのじゃないかと私は思っている。
学生の中にはなれなれしく先生に近付こうとする、『女』の武器を使うのが上手い娘がいなくもなかったけれど、何故か先生に『女』の武器の利きは鈍かった。
悔し紛れなのか、草仁先生はゲイじゃないかという噂が立ったこともあったけど、多分違う。
先生は、教え子をそう言う目で見ないと無意識のうちに戒めているのだと、私は思っている。
(私は……まだ『教え子』なのでしょうか?草仁先生)
木犀の花の香りがいつもより強くて、なんとなく胸が苦しくなった。




