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8 色彩(いろ)のたゆたい~『月の末裔』前日譚⑫

 午前中いっぱい、僕は掃除に費やした。

 こういうことはやり出したらきりがなく、熱中し始めれば無心でのめり込んでしまうものだ。

 さすがに疲れたな、と我に返った頃には、正午を大きく回っていた。

(どこかで食事して……食材の買い出しでもするか)

 綺麗になったキッチンで、久しぶりに父から教わったオニオングラタンスープでも作ろうかと思う。

 オニオングラタンスープは母の好物でもある。

 だが、手間暇がかかる割にボリューム感のないメニューだから、忙しくしていたここ二、三年、作る機会もなかった。

 母が何時に帰ってくるのかわからないが、最悪『グラタンスープ』にしなくても、温め直して飲めばいいだろう。

(創作に詰まった時は、こうしてただ無心に玉ねぎを炒めてスープを作る。玉ねぎを炒めることだけに集中していたら、ぽかんとあぶくが弾けるみたいに新しいものが見えてくることがあるんだ。たとえ見えてこなくても、こうして美味しいスープが食べられるんだから損はしないだろう?)

 そう言って笑っていた、在りし日の父の顔が浮かぶ。


 身支度をして外へ出る。

 何の気なしに郵便受けを見ると、幾つか郵便物が来ていたのでチェックする。

 ほとんどダイレクトメールだったが、緊張した硬い字で表書きをした封書が混じっていて、ふと目を留める。

 出身高校の生徒会長が差し出し人だった。

(……ああ)

 僕の出身高校は文化祭で、活躍している卒業生を招いて話を聞くというイベントが、毎年行われている。

 駆け出しとはいえデザイナーであり、決して有名ではないが知る人ぞ知るというか、根強い固定ファンを持つ画家・故神崎理の息子。

 経歴や家族だけをみれば、僕はけっこう華やかなOBだ。いかにも若い子受けしそうだとも思う。

 年齢的にも、そろそろ彼らから声がかかってきてもおかしくない。

 ……残念ながら、話すことなど何もないが。

 軽く息をつき、上着のポケットに封書をねじ込むと市街地へ向かった。


 適当な店で日替わりランチを頼み、水を飲みながら持ってきた封書を開ける。

 断るにせよ何にせよ、一度目を通しておこうと思ったのだ。

 白い便せんに、緊張感のにじむペン文字が並んでいた。

 最近の子ならワープロで手紙を書いてくる方が普通だろうに、あえて肉筆で書いたらしい。

 訳知り顔の年配教師に、ワープロでの手紙は軽薄に見えるとでも諭されたのかもしれない。

 確かにこの方が誠実味があるかもしれないなと思い、苦笑いをする。そういえば肉筆の手紙など、何年ぶりにもらっただろう。


 思いながら僕は煙草に火をつける。仕事を始めた頃に覚えた悪癖だ。

 正直に言うとさほどうまくはないが、煙を深く吸い込むと何故か落ち着いた。ニコチンの鎮静作用なのか単に深呼吸をすると落ち着くだけなのか、多分両方だろう。

 その落ち着いた頭でもう一度、改めてペン文字をたどる。

 ふと、関わってみるかなと思った。

 いつにないことだ。

 が、【いつにないこと】をしろと上司(ボス)に厳命され、僕は休暇をもらって途方に暮れているのだ。

 話くらいなら、聞きに行ってみてもいいかもしれない。

 たまには卒業以来足を踏み入れていない母校へ行ってみるのも、悪くはなかろう。正直母校にさほど強い思い入れはないが、それでも三年間通ったのだ、それなりの愛着はある。

 『懐かしい』という感情を、あそこへ行けば思い出せるかもしれないと、頭の一部でぼんやり思う。


 読み終わった封書をポケットに戻し、僕は、ちょうど運ばれてきたランチに箸を伸ばした。

 さすがに腹が減っていたので、別にどうということのない定食だったが、美味かった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ふわあ、オニオングラタンスープが飲みたくなってしまいました!w まさかこっちでも飯テロされるとは!w
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