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8 色彩(いろ)のたゆたい~『月の末裔』前日譚⑤

 保健室のベッドで横になっていると、父が迎えに来た。

 望月に指示されたクラスメートの誰かが僕の荷物を保健室まで持って来てくれていたので、そのまますぐ帰宅した。

 僕の顔色を見、父はすぐあらましを覚ったらしい。苦しそうな目になって小さく息をついた。


 保健室へ向かおうと教室を出た途端、僕は猛烈な吐き気に襲われた。

 廊下のつきあたりにある手洗い場まで小走りで行き、堰が切れたように胃の中のものをぶちまけた。

 幸い四時間目が終わったばかりの今、胃の中は空だ。苦くて黄色い胃液しか出ない。

「神崎君!」

 叫ぶように僕の名を呼び、えずく僕の背を強くさする者がいる。

 その人からは心配や気遣いの気配しか伝わってこない、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 人間(ひと)というのは不思議な生き物だな、と、胃液すら出なくなってもおさまらない吐き気に苦しみながら、僕は妙に冷静にそう思った。

 余計な妄想をせず、今のようにただ、担任の教師でいてくれればいいのに。

 そう思ったのまではなんとなく覚えているが、そこから先、ベッドに横たわって茫然としている今まで、断ち切られたように記憶がない。

 保健の先生が言うには、僕は意識をなくした状態で望月に抱えられ、保健室に運び込まれたらしい。

 再び吐き気がした。

 あの男は、意識を失くした僕を抱えて保健室へ向かう最中、おそらく邪まなことなど考えなかっただろう。

 そんな余裕もなかったはずだ。

 あの男は善人とは言えないが、とんでもないクズでもない。

 自分の職務からもひとりの人間としても、体調を崩して激しく吐き、おまけに突然気を失ってしまった子供を本気で心配したはずだ。

 だが……驚きや心配が治まると彼はきっと、自分のてのひらや腕に残る、僕の身体の感触を思い出す。

 そしてその生々しい感触に、今後、あの男は苦しむのだ。

「……くそっ」

 ひとりごち、唇をかむ。

 何故よりにもよって、望月の目の前で意識を失くしたのだ、僕は。

 まぶたをきつく閉じると涙が浮いてくる。

 自分自身にも望月にも、腹が立って仕方がなかった。


 言葉もなく僕は父と、校門へ向かう。

 夏の初めのやけに明るい午後の陽射し。短く濃い影が足許にある。

 吹く風はすでに、夏の気配を濃く孕んでいる。

 校門のすぐそばに半ば無理矢理止めた車へ、僕たちは乗り込む。

 スイッチを入れたエアコンの吹き出し口から、生暖かい風が吹きつけてきた。軽い吐き気がぶり返す。

 シートベルトを巻き付け、大きく息をつきながら僕は、助手席のシートにぐったりと身体をあずけた。

「真言」

 エンジンをかけながら父は、不意に僕を呼ぶ。ぼんやり顔を向けると、父はちらっと僕を見ると、かすかな苦笑いをひとつ、落とした。

「真言。()()()()()()()()()()

 二重三重に深く強い意味を持つ、重みのある言葉。

 『言霊』と呼ぶべき言葉。

 思わず息を呑んだ僕へ、父は真顔になる。

「お前の心はお前だけのものだ。他人から強い影響を受けることはあるが、お前以外の誰であっても、お前の心を支配出来ない。忘れるな」

 父、というよりも、当代の月の鏡としての助言だった。

「……はい」

 答え、僕は軽く目を閉じて再びシートへもたれかかる。

 額の辺りが何故か、ぼんやりと熱かった。


 僕の不調は持病でもある『自家中毒』、近年『アセトン血性嘔吐症』と呼ばれているものの発作だ、と学校側には説明した。

 吐き気が治まらず、食事どころか水すら満足に飲めないという理由で、しばらく学校を休むことにした。

 嘘ではない。

 僕は父に連れられ、母が内科医として勤務している市の総合病院へ毎日通院し、点滴治療を受けていた。

 並行して父の手ほどきを受けながら、次代の月の鏡に必要な修練も念入りに行うことにした。

 望月の妄想を止める手立てがない以上、僕自身が強くなるしか対処法がないからだ。

「本音を言うなら、学校に行かないのが一番だけどね」

 月の氏族の末裔でない筈の母が、あっさりとそんなことを言う。

「不必要なストレスを受けてまで、学校へ行くことはないんじゃない?なにも学校だけが教育機関じゃないんだから。勉強のことを考えるんなら、自宅学習や通信教育や、いくらでも手はあるんだもの」

「学校は勉強だけの為に行くところじゃないよ」

 困ったような顔で父が言う。

「もちろん、命を削る無理をしてまで行くところじゃないけど。学校は、社会で暮らす為の訓練だからね……特に我々の血筋の者にとっては」

 母はふっと苦笑いをする。

(おさむ)さん、この持論だけは曲げないのね」

「曲げないよ」

 父も少し、苦く笑う。

人間(ひと)はやっぱり、人間(ひと)と一緒に生きてゆかないと。気の合う奴とも合わない奴とも、ある程度は付き合う訓練が必要だ。学校は、そういう意味では最適な場所だからね。真言に一生、ガラスケースの中で保護するしかないような人生を送らせるつもりかい?」

 母は不意に頬を引く。

「たとえ……ひどい妄想に苛まされるとしても?それも担任の先生に」

 父は静かに母の目を見て言う。

「妄想の対象になるのを怯えていたら、この血筋の者は死ぬしかないのだよ」

 母は絶句した。

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― 新着の感想 ―
[一言] >人間はやっぱり、人間と一緒に生きてゆかないと。気の合う奴とも合わない奴とも、ある程度は付き合う訓練が必要だ。 この辺の思想が父親と母親の違いかもしれませんね。 私に子供はいませんが、もし息…
[一言] お父さんが正しいのかもしれないけど……! 気分的には、お母さんに全面同意したいですよ!! 学校は無理してまで行くもんじゃないやーい!! サボっちゃえ真言くん! お母さんとおばちゃんが許します…
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