鱗の四・変化(へんげ)
シレーネは前より深く、王子のことを想いはじめた。
ひどい経歴をもったひと。悲しみの運命の王子様。何度だって生まれ変わり、妻と夫と永遠に一緒にいられるという、歪んだ甘い呪いにかかった愛しいひと……。
姉のシーレンの言葉は、語った本魚の思惑とはまったく反対に作用した。シレーネはなかば静かに狂ったように、ナーマンを想いはじめてしまったのだ。
(また、逢いたい……)
そう願いながら、シレーネはふたたび崖へ行くのをためらっていた。思い出すのは、以前に一度きり逢った時、海蛇王子の語った言葉。
『ここはお前のような、美しいものが来る場ではない』。
その言の葉を思うたび、優しく拒まれているような気がした。
お前はここに来てはいけない。
お前と俺とはつり合わない。
そう言われているような気になって、シレーネはしまいに自分の美さえも嫌になった。
(海蛇のような容姿になりたい。そうすればもしかして、ナーマン様もわたしを受け入れてくださるかもしれないし)
そう念じるようになった人魚は、どうにも辛抱がきかなくなって、珊瑚の森へと泳いでいった。珊瑚の森には、珊瑚の魔女が棲んでいるのだ。
(魔女にお願いをするなんて、いつも姉さんの話してくれるおとぎみたい……)
内心でつぶやいたシレーネは、くすりとひとり苦笑した。
(ああ、違うか。姉さんのおとぎの人魚は、より美しくしてもらいに行くんだもの。わたしはより『みにくく』してもらいに行くんだから、全然違うわ、おとぎとは)
赤い珊瑚を組み合わせた洞の前で、シレーネはくすくすと笑いをもらす。中からいら立ったような、艶やかな声が響いてきた。
『そこな女。門前で黙って笑っておらんと、とっとと戸を開けて中に入らんか』
「……っは、はいっ!」
あわてて返事したシレーネは、うぅむとそこで考えこんだ。
さっきもそれで立ち止まって考えたのだが、『戸』の開け方が分からない。入れ子細工のようにひっ絡まった珊瑚の扉は、どうしても開かない檻のようだ。ためしにちょんとつついてみると、珊瑚はがらがらと崩壊して『扉が開いた』。
『……ぶきっちょめ』
中にいる赤い美人がため息をついて吐き捨てる。えへへ、とごまかし笑いしながら、シレーネは奥へと入っていった。
『……で、望みは何だ? 人魚の娘。わざわざ忌まれる魔女の所へ出向くとは、よくよくの望みがあるのだろう。たいていのことなら叶えてやる。ただ働きはごめんだがな』
珊瑚の魔女は、ひとと関わりをもつのが好きではないらしい。たんたんとそちらで話を進め、ちらと横目でシレーネを見やる。シレーネはちょっとあわてながら、胸の前で手を組んだ。
「え、えぇっと……今日は何も持ってきていないんですが、報酬は必ず……で、あのっ! わたし、海蛇の姿になりたいんです!」
珊瑚のようなごつごつとした肌の魔女が、ぴたりと動きを止めて目を見はる。ぱちりぱちりと二度ほどまたたき、赤あかしい目で人魚を見やった。
『……正気か?』
「はいっ! わたし、海蛇の王子に恋をしちゃいまして! 彼と同じ姿になれば、結ばれることもあろうかと……っ!!」
なかば呆然としていた魔女が、思わずくくっと吹き出した。珊瑚の指を口もとへあて、苦笑しながら人魚を見やる。
『面白いやつだな、わざわざ今より劣る容姿になりたいなどと申すとは……。気に入った、小娘、お前の望み叶えてやろう』
「あ、ありがとうございますっ!!」
ぺこたんと弾むように頭を下げるシレーネに、魔女は抜け目なく言いたてた。
『何にせよ、報酬はもらわんとな。海蛇になりたいのならその白肌は要らんだろう。小娘、その美しい肌を私によこせ』
「は、はい! こんなもので良ければいくらでも!」
『良し、これで契約成立だ。イナクリャ・サラーヴィナ・グルルゥニャ……カ!!』
魔女が人魚には理解出来ない言葉を吐いて、すっと胸もとで印を組む。一瞬光に目がくらみ、景色が元に戻ったときには、珊瑚の魔女の容姿はひどく変わっていた。ごつごつとした珊瑚の肌はなくなって、魔女は赤毛の人間のようになっていたのだ。
今までもかなり美しかったが、今やその美は以前の比ではなくなっていた。
「わあ、魔女さんとてもお綺麗!」
『見え透いた世辞を言うでない。私のことなど構わずに、お前の姿を見るが良い。注文どおりになっただろう』
つんと冷たい言葉とは逆に、魔女は嬉しげにはにかんでいる。ごつごつの珊瑚のような肌が、よほどコンプレックスだったらしい。部屋の奥の姿見を示され、シレーネは我とわが身の姿を目にした。
注文どおりどころではない。
つやつやと真っ黒に長い髪、深翠の色の肌、ぬめりと黒いしなやかな魚体、予想以上に『海蛇』そのものの姿だった。シレーネはまつ毛の長い赤い瞳をまたたかせ、ぺこりぺこりと玩具のようにおじぎした。
「ありがとう、ありがとうございます! さっそくわたし、海蛇の王子様に逢ってきます!」
『ああそうだ。……今さらだがな』
「はい?」
『海蛇の王子はひどく身持ちが固いそうだ。何でも呪いをかけられてから今の今まで、正妻も側室も娶ったことがないらしい。まあ、がんばってみることだ』
「え……えぇえっ!?」
軽くパニックになるシレーネを追い立てて、魔女は扉を閉めてしまう。がらがらと組み立った珊瑚の戸の向こうから、綺麗な鼻歌がもれてきた。その鼻歌を聴きながら、シレーネの体から、すんと力が抜けてゆく。
(どうしよう……誠実な方だとはお見受けしていたけど、そこまで身持ちの固いひとだったなんて! わたしなんか鼻先であしらわれるかもしれないわ!)
そう考えてみると、今さら早計なことをしたかと思えてくる。何にせよ、仮のお暇乞いにと、シレーネは自分の住みつく海底に一度戻ってきた。ひらひらと姉の背中から近づいてゆき、いつもの調子で呼びかけてみた。
「姉さん、姉さん!」
笑顔で振り向いたシーレンは、恐怖にひきつった顔で悲鳴を上げた。
「ぎゃあぁっ! ば、化け物ぉおぉっ!!」
「姉さん! シーレン姉さん、わたしよ、シレーネよっ! 姉さんってばっ!!」
必死の言葉も、恐慌状態におちいったシーレンの耳には入らない。姉の人魚は飛ぶような速さで水中を逃げていってしまった。
その背をあっけにとられて見つめ、シレーネはくたくたとその場にへたりこんだ。
「……どうしよう。こんなんじゃ、王子様に断られても、もうここには帰れない……」
絶望混じりにつぶやいた後、シレーネは思い直してかぶりを振った。
(ううん、そうしたら何とか頼みこんで、海蛇さんたちのコロニーのすみっこにでも置いてもらおう。何にせよ、今よりは王子様との距離が近くなるんですもの。それでも全然構わないわ!)
恋する女の強さだろうか、シレーネは心中でつぶやいて、すっくと海底に立ち上がる。そうして黒い髪をわかめのように揺らしながら、一心に崖を目ざして泳いでいった。