鱗の三・おとぎ
姉に問われて、シレーネはなかなか『うん』とは言わなかった。
当然だ。『美しいもの至上主義』のシーレンに打ち明けられる相手ではない。けれど何やかにやと攻められて、シレーネはついに答えてしまった。
「……ええ。わたしは恋をしているの」
「やっぱりねぇ! 恋をすると、女の子はみんな綺麗になるもんねぇ! で、で、お相手はだぁれ?」
「……想っても、とても叶わないひと……」
「うわぁ! 人間? 人間なのね? すごいわ、有名なおとぎみたいだわ!」
たあいなくはしゃぐ姉の様子に、シレーネは切なげに吐息する。シーレンは白銀の髪を揺らし、妹の肩になだめるしぐさで手を触れた。
「大丈夫よ、父さまと母さまが何と言っても、あたしはあなたに協力するわ! で、お相手はどんな方? 美しいひと? 綺麗な足をしているひと?」
「……王子様なの」
「うわぁ! すてき! まるきりおとぎ話じゃない!」
「……違うの。姉さんの思ってるようなひとじゃないの」
シレーネは事ここにいたって、真実を明かすかどうかためらった。ためらった後、やっぱりゆっくり口を開いて打ち明けた。
「……海蛇なのよ。海蛇の王子様……」
シーレンの赤い瞳が、こぼれそうなほど見開かれる。たっぷり深呼吸三つ分の間を置いて、シーレンは大げさな悲鳴を上げた。
「海蛇にぃ!? まああなた、とんでもないことだわっ! 第一あなた、それじゃつり合いがとれないじゃない!!」
「でも、あのひとはわたしを助けてくれたのよ! そのうえすごく優しくて、上品で、とろけるように歌が上手くて……それに今話したとおり、仲間内では『王子様』って呼ばれてるって……」
「まああなた、その蛇にたぶらかされたのね!? だめよ絶対、海蛇の王子なんかと結ばれちゃったら、大変なことになるんだから!!」
どんどんとまくしたてたシーレンは、妹が泣きそうな顔をしているのに気がついて、ふっと黙りこみ吐息をついた。『しょうのない子』と言いたげにかすかに苦笑して、その場にシレーネをすわらせた。
「いい? シレーネ。今からあたしが昔話をしてあげる。その話を耳にしたら、あたしの意見が正しいことが、骨身に染みて分かるから」
うなずくようにかぶりを振った妹に、シーレンはもったいぶって咳ばらう。シレーネのとなりに腰をおろし、綺麗な声で語りはじめた。
「昔むかしその昔、人魚の王様がここらあたりに住んでいました。王様には一匹の正妻と、たくさんの子どもがおりました」
シレーネが物問いたげに姉を見つめる。戸惑う瞳に赤いまなざしで応えておいて、シーレンは言の葉を連ねていった。
「王様たちは幸せでした。けれどある時、ある酒宴の晩、王様は良くないうわさを耳にしました。自分の正妻が、こっそり臣下と情を通じたというのです」
ほんの少しだけ話にひかれ、シレーネがわずかに首をかしげてみせる。姉は『良しよし』と言いたげに妹の頭を撫でてやり、またお話を紡ぎだした。
「王様はひどく怒りました。そうして、正妻が一番可愛がっていた末の王子に命じて、妻の首を斬りおとさせてしまったのです」
シレーネがはっと息を呑む。姉は『まだ終わらないわよ』という顔をして、すらすら先を続けていった。
「けれど、本当はそのうわさは嘘いつわりだったのです。こっそり正妻に言い寄ってすげなくされた臣下のひとりが、悔しまぎれにうわさを広めただけだったのです」
シレーネがこくりとのどを鳴らした。その頬を柔く撫ぜながら、シーレンはなおも言葉を重ねていった。
「王様は怒りました。うわさの種の臣下を殺し、それでも怒りはおさまりません。どうしようもなく煮える怒りは、末の王子に向けられました。『あいつさえ嫌だと言うていれば、妻は死なずにすんだのだ』『あいつが妻の首を斬った。あいつはおのれの母を、その爪にかけて殺したのだ。親殺しは重罪だ!』」
「……信じられない! 何て勝手な言い分なの!!」
思わず口走る妹に、シーレンはふっと微笑んだ。なだめるようにシレーネのまるい肩へと手をおいて、また言の葉をつなげていった。
「どれだけ勝手でも、王様の言い分は絶対です。王様は末の王子に呪いをかけて、二目と見られぬみにくい姿に変えました。そうして末の王子に同情的なものたちも、みにくい姿に変えた上で、僻地である海底の崖へと追いやってしまいました」
語り終えたシーレンが、得意げにきゅっと腕を組む。どうにも納得のいかない様子で、シレーネが姉に問いかけた。
「ひどいわ、そんなの! それでその後、王子様たちはどうしたの?」
「あら、まだ気づかない? 今した話がそのまんま、海蛇の王子たちのことなのよ」
シレーネが思わず口もとへ手をあて、声もなく小さな悲鳴を上げた。赤い目に戸惑いをたっぷり染ませ、姉の人魚へすがるように問いかける。
「ひどいわ、ひどいわ! その後王様はどうしたの? まさか現在の王様が、そのひどいひとじゃないわよね?」
「まさか、今の王様はそんなむごい方ではないわ! 当時のひどい王様はね、その後すぐに一部の過激派の海蛇たちに、寝首を掻かれて死んだそうよ。でも王のかけた呪いは、歪んだ思いの強さでしっかり残ってしまったの」
つけたして微笑ってみせたシーレンが、さとす口ぶりで綺麗に声を重ねていった。
「だからおやめ、呪われた一族に魅かれるのは……本当はね、父さまと母さまに『この話はシレーネにするな』って言われていたの。お前はとても優しいから、こんな話を耳にしたら『その王子たちに逢ってみたい』と思うだろうからってね。でももう時効ね、あなたは本蛇に逢って恋しちゃったんだから」
苦笑いした姉の前で、シレーネがきゅっと魚体をくねらした。海底の崖に向かおうとする妹の腕をつかみ、シーレンがきつく引き止めた。
「待ちなさい! ……肝心なことを言ってなかったわ。海蛇の王子にかけられた呪いはね、もっと恐ろしいものなのよ」
「……恐ろしい……?」
「そうよ。王子は誰と何と結ばれたとて、まともな子どもは出来ないの。たとえばシレーネ、あなたが王子と結ばれても、生まれるのは海蛇の姿の子どもなの。それだけじゃないわ、王子の妻は一生にいっぺん、大きな卵を産まされるのよ」
「卵……?」
「そう、卵。それは長いこと孵らずに、王子と妻が死んだ百年後に孵るのよ。そこからは双子の海蛇が生まれてくるの。男と女の、双子の海蛇……それがつまり、海蛇の王子とその妻の生まれ変わりなの」
シレーネが思わず息を呑む。その反応に満足げに微笑んで、シーレンは駄目おしに言葉を重ねた。
「双子の海蛇はまたつがうの、前世と同じように……そうしてまた卵を産んで、生まれ変わってまたつがって……これが呪われた輪廻なの。海蛇の王子とその妻は、何度転生してもみにくい姿のままなのよ!」
衝撃を受けた様子の妹に、シーレンはぽんぽんと肩を叩いてたたみかけた。
「ね、だからやめておおき。人魚は三百三十三年にいっぺん自分の肉のかけらを食べれば、ずっと綺麗な姿のままでいられるし……肉はすぐに再生するから、あたしたち人魚はほとんど永久機関よ。美しい今の姿をふり捨てて、みにくい海蛇の姿になるなんてごめんでしょ?」
うんうんとひとりでうなずいて、シーレンはどこかへ泳いでいってしまった。
だが、『美しいもの至上主義』のシーレンは、まったく気づいていなかった。妹のシレーネの受けた衝撃が、まったく異なる種類のものであることに、かけらも気づいていなかった。