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鱗の二・海蛇

 海底うみそこの崖は、暗かった。

 奥へおくへと降りてゆくうち、シレーネは初めて自分の体が光を放っていることを知った。人に似た肌、桃色の魚体、全身が燐光りんこうを放っているのだ。夜にもうっすら明るく青い場所にいて、今まではまったく気づかなかった。

 自分の体の光をたよりに、シレーネは奥へおくへと降りてゆく。誘うように紡がれている歌声が、わずかずつ大きくなってくる。

(近いわ、近づいているんだわ。この歌を歌ってらっしゃるひとに……)

 娘ははやる胸をおさえて、ひらひらと崖を伝って泳いでゆく。崖のとちゅう、ざっくりと広い踊り場のような場所へと行きついて、シレーネはふっと足をとめた。

「ここで少し休ませていただこうかしら……」

 桃色の魚体を海底に落ちつけたその刹那せつな、目の前が急にざあっと赤くなった。

「っ!?」

 シレーネがびくっと目を見はる。目の前を赤くあかく染めて、真っ赤な体の大イカがずほんと立ちはだかっていた。イカは威圧するように、低いひくい声を放った。

「そこな娘。どこへ行く」

「あ、あの……歌が、聴こえて……歌の主に逢いにゆこうと……」

「愚か者が。ここはわしの領域じゃ。すぐさま立ち去れ」

 そう言いながら、大イカはふと気づいたようにしげしげとシレーネの体を見つめた。舐めるようなまなざしに、娘が身を固くする。逃げ出したいが、射すくめられた体が言うことを聞いてくれないのだ。

「いや待て……ふぅむ……お前、なかなかに良い体つきをしておるな。顔立ちも上々だ。良し、特別にここを通っても構わんぞ。ただし……」

 ぬらりと伸びた足先が、娘の魚体を捕食するように押さえこむ。驚いたシレーネは必死にもがいたが、細かな吸盤がぬっとりと張りついて逃げられない。

「いやっ! な、何を……っ!?」

「娘、ひとの話はよく聞くものだ。先の話の続きだ、良く聞け! ……ただし、通行料がいる。お前の体で払ってもらうぞ!」

「やぁっ、嫌ぁあっ!!」

 シレーネがもがけばもがくほど、イカの足はぬるぬると絡みついてくる。なめらかな肌を犯すそぶりでぬちゅりくちゅりと絡みつき、吸盤でしつこく吸い立てる。あらがっていたシレーネの息が、だんだん熱っぽく荒くなってゆく。満足そうに啼いた大イカが、あざけるように言い放った。

「何だ、嫌じゃ嫌じゃと言うておいて、だいぶん感じているではないか……」

「……ぃ……や……ぁ……」

「言うていろ。そのうち声も出ないくらいに犯し尽くしてやるからの!」

 ぬるぬるとうごめく触手の動きが、ふいにつうっと途切れてゆく。ほんのわずか正気に戻ったシレーネが、息も絶えだえに顔を上げた。

 目の前に、一匹の生き物が佇んでいた。海草のような深翠ふかみどりの色の肌、なめなめとした黒い魚体。一見不気味にも見えるいでたちにも関わらず、長い黒髪に彩られたその顔は、ぞっとするほど美しかった。

 イカがぬるりと笑ってみせ、触手を二本かかげるように持ち上げた。黒い生き物へのあいさつ代わりのつもりらしい。

「おお、これはこれは海蛇王子ナーマン様! わたくしなんぞに何用ですかな?」

 ナーマンと呼ばれた青年は、舌打ちしたそうに綺麗な顔を歪めてみせた。

「いらん世辞を使うでない。海蛇たちの寝所しんじょ近くで、お前は何をしでかしている」

「は、偉そうに! いくら王子と言ったとて、しょせんは海蛇の仲間内での話じゃろうが」

 手のひらを返したイカの態度に、ナーマンは架空の剣を振るうがごとく、ぶんと腕を振り立てた。

「答えろ、助平すけべいイカの下郎めが。お前は迷いこんできた罪もない人魚の娘子むすめごに、いったい何をしでかしている?」

「決まっておるよ。この娘がわしの領海を犯したから、ちょいとらしめてやっているのだ。いやいや、そうでない、これはちょっとした通行料代わり……ほほほ、甘露、かんろ」

 言いながらイカが吸盤でシレーネの乳首を吸い立てる。あ、あ、とかすれた声をあげる娘の様子に、ナーマンがひらと身を躍らせた。

 ざっ……。

 海蛇の王子がひらりひらりと舞うように腕を振り立てる。その動きにつれ、イカは見る間に斬られてゆく。

「お、おぉお王子様! わたくしが悪ぅございました、どうかお許し、お許……し……」

 あわてたイカが許しを乞う間にも、王子は腕を振るい続ける。体とともに、イカの哀願も細かく千切れてゆく。

 ざっ、ざっ、ざっ……っ。

 気がつけばイカは細かな切り身になり、後には鉤爪かぎづめを開いた王子と、くたくたになったシレーネが残された。王子は外見そとみに似合わないほどの優しさで、気づかうように微笑して手をさし伸べた。

「……大丈夫か?」

 なかば放心しながら、シレーネがこっくりとうなずいた。その刹那せつな、耳もとから黒い鱗がひらひらと散るように舞い落ちた。それに気づいた海蛇王子が、青い瞳をまたたいた。

「それは……」

「……小さなころからの、宝物です。綺麗でしょう? いつどこで手に入れたものなのか、まったく思い出せないんですが……」

 ようやっと人心地のついたシレーネが、はにかんで鱗を拾いあげる。一瞬表情をくもらせたナーマンが「そうか」とささやいて微笑んだ。ふっと気づいたシレーネが、きょろきょろとあたりを見回した。

「あ。……歌が……」

「歌?」

「歌が聴こえなくなったんです。ちょっとかすれてて、とっても綺麗ですてきな歌……わたし、その歌い手にお逢いしたくて、ここまで降りてきたんですけど……」

「……そうか。それはすまなかったな」

「え?」

 物問いたげに自分を見つめるシレーネに、ナーマンは少し笑ってみせた。その表情はどこか無邪気で、いたずらっ子のようだった。ナーマンは華奢きゃしゃなおのれの胸もとに、ひたりと手をあてて打ち明けた。

「歌っていたのは俺なのだ。つたない歌で耳を騒がし、危ない目にまで遭わせてしまって、本当にすまないことをした」

 王子はふっと顔をくもらせ、深々とシレーネに頭を下げた。誠実すぎる対応にシレーネはかえってあわててしまい、あわあわと両手を泳がせる。

「そそそ、そんなとんでもない! ……あの、いろいろありがとうございます」

「いろいろ?」

「助けていただいたのもそうですし、あの……歌っているかたがわたしのイメージどおりの方で、何だかすごくほっとしました……」

「『イメージどおり』……?」

 ある種の皮肉と受けとったのか、王子が細い眉をひそめる。その表情に気づかずに、シレーネは頬を染めてささやいた。

「はい、あの……とても優しくて、すてきな方で……」

 言いながらシレーネが恥らって口もとへ手をあてる。彼女のふるまいと頬の赤味に、王子も気がついて微笑んだ。

「そうか。ありがとう。……お前、名は?」

「はい、あの……シレーネと申します。シレーネ・シレーヌ・シレーナ……」

「そうか。……やはり……」

「はい?」

「……いや。俺はナーマンだ。ナーマン=ナーマ=ナーメロ。仲間内では『海蛇の王子』とも呼ばれている」

「王子……」

 うっとりとつぶやくシレーネに、ナーマンはうながすように翡翠ひすいの指を天へと向けた。

「ここはお前のような、美しいものが来る場ではない。さあ、早くに上へお帰り」

 そうして優しくうながされ、シレーネはぐっと返事に詰まる。

 帰る前に何かいろいろ訊ねてみたい。だが海蛇にそうして甘く語られると、言葉がうまくつむげない。『美しいもの』ということが、くるくると頭の中でしゃぼんのように回っている。

「あ……」

「さあ、早く……」

 にこりと笑ってそう言われ、シレーネは何も言えないままに黙っておじぎして浮上する。上がりながら振り返ると、海蛇の王子はどこか名残惜しそうに、こちらをずっと見上げていた。

 そうして上に帰ってからも、シレーネはずっと海蛇を想っていた。

(何て、なんてすてきなお方……!)

 彼の優しさにうたれたシレーネに言わせれば、彼はもう『素晴らしく美しい』。深翠の肌も、黒くぬるりと長い魚体も、なめなめと豊かに黒い髪の毛も、ぞくりとするほどあだっぽい。

 シレーネが彼を想っている間、海底の歌もきらきら響いていた。まるで上にいる桃色の魚体の人魚を想うように、きらきらひらひら流れていた。『美しい君』『愛している』などというフレーズを遠く甘く耳にするたび、シレーネは(わたしのことかしら)とひそかに胸をときめかせた。

 シレーネは崖の歌に唱和して、小さく歌うようになった。ぽつぽつこぼれる言の葉は、海の花の蜜のように甘かった。そうして人魚の娘は、ますます美しくなった。

 シレーネは、生まれて初めて恋をしたのだ。

 今度は歌に焦がれるだけの、夢想幻想の恋ではない。海底の崖にまう海蛇の王子を想い、シレーネは日夜歌い続けた。艶やかな声音にかれて言い寄るものもたくさんあったが、シレーネは笑って断り、歌い続けた。

 やがて三月みつきの時が過ぎ、娘は百十一歳になった。百十一の年を迎えて、人魚はようやっと成人と見なされる。親もいろいろな縁談を持ってくるようになったが、シレーネは『うん』と言わなかった。ただただ切なく甘い声で、恋の歌ばかり歌い続けた。

 姉のシーレンはそんな妹を見かねて、ある日シレーネに声をかけた。

「シレーネ。あなた、誰かに恋をしてるでしょう?」

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