序・海底の歌
よろしくお願いします。
歌が聴こえる。
優しい耳鳴りを思わせる、かすかにかすれて美しい歌。
その歌は遠くとおく、『海底の崖』から響いてくる。青く艶やかな夜の海に、ひらひらと流れる淡い歌声。
その歌声に魅了され、ある一匹の人魚の娘が、海中にそっと身を起こした。ふわふわの金色の髪がしょっぱい水に広がり揺れる。娘は桃色の魚体をひらめかせ、まつ毛の長い赤目を見はって耳を澄ます。
そんな真夜中の娘のしぐさに、となりで寝ていた娘の姉も目を覚まして起き上がる。
娘と対になるような、すらりまっすぐな白銀の髪。姉魚は絹糸ともまがう白髪をゆらゆら揺らし、赤い目を細めて妹のことをたしなめた。
「何をやってるの、シレーネ? まだ夜中でしょう? おとなしく寝ていらっしゃい」
「シーレン姉さん、聴こえない? 遠くの方から、甘い歌が流れてくるの」
シレーネと呼ばれた娘人魚が、うっとりと大きな目を閉じる。黒い鱗を一枚飾った耳もとに細い手をあてて、聴き惚れるように小首をかしげた。そんな妹にため息をつき、シーレンがおざなりに言葉を返す。
「歌? 珊瑚の森の魔女が歌っているんじゃないの? 珊瑚の精は歌を好むって話だし……」
「うぅん、女のひとじゃない。男のひとの声よ、それに聴こえてくるのは海底の崖の方からよ。きっといつも同じひとが歌ってるんだわ……ちょっとかすれてて、すごく綺麗……」
「また『崖の歌』? 聴こえないわよ、そんなもの。あなたの気のせいか思いこみだわ。そんなのいいから、早くお寝み」
軽いもの言いであしらわれ、シレーネがぷっと頬をふくらました。気に入らなさげに腕組みすると、桜色の人の肌に金色の髪の毛が映える。
「……わたしは耳が良いのよ、すごく。だから姉さんに聴こえない歌も聴こえるの。気のせいなんかじゃないんだから!」
「はいはい、良いから早くお寝み。夜ふかししてると目の下にくまが出来ちゃうわよ? 寝不足は美容の大敵なんだから」
外見を気にする姉の言葉に、シレーネはふっと興ざめた目をしてみせる。
(姉さんはいつもそう)
内心でこっそりぼやきつつ、それでも妹魚はおざなりながらにうなずいた。たゆたう髪の毛を揺らしつつ、海底に身を横たえる。上のほうに目を向けると、突き抜けるほどの青天井に、眠っている魚たちの腹がきらきら光って見えた。
(姉さんは『聴こえない』って言うけれど……でも、やっぱり聴こえる。まだ歌っている)
シレーネは内心でつぶやいて、歌声にひたるように目を閉じた。
もうずっと昔、幼いころから聴こえている、海底の崖から流れる歌。でも『海底の崖』には行ってはいけないと、家族からきつく言われている。
(いつか崖に行きたいなぁ……そうして歌声の主に逢って、じかにあの歌を聴かせていただきたいものだわ)
人魚の娘は夢想しながら、うとうとと甘い眠りに落ちていった。
娘の頭上で、寝ぼけた魚がきゅいっと宙を旋回した。白い腹がきらっと一瞬流星のようにきらめいて、またきらきらと静かになった。再び眠りはじめた小魚の下、シレーネもあどけない寝顔を見せて眠っていた。
これは一匹の人魚の話。
『海底の崖』の歌に焦がれる、シレーネという娘の話。






