火星につれてって
佐藤は内心穏やかではなかった。
いつも通りの時間に起きバス停へと進む彼の表情は冷静そのものだったが、足取はいつもよりも荒く、俊敏だった。
無論早くバス停に着いてもバスが早く来るわけはない。
それでも足は、歩速は上昇した。いつも見る木、いつも見る池、いつも見る電柱、その全ては佐藤の脳を一瞬たりとも通らなかった。それほどまでに考え込んでいた。
そこにはどうにもならないことを、どうにかしようとして、どうにもできない青年がいた。
バス停にいつもよりも三分ほど早く到着すると佐藤は雨除け屋根がついた小屋のベンチに腰掛けた。
右には同じ大学生だろうか。小柄な女が音楽プレイヤーを握りながらスッと空を見つめていた。
女は真白いブラウスに黒のジーンズ姿だった。今風、という感じだろう。目鼻立ちが整っていて、昔よくテレビに出ていたアイドルに似ていた。名前は思い出せないが。
それ以外に人は見当たらない。
これもよくあることである。佐藤はどうでもいいと自分のスマートフォンを取り出そうとして、やめた。佐藤はたった今自らの諸悪の根源であるものを取り出そうとした自分を恥じた。
佐藤もスッと空を見つめた。右の女を真似したわけではない。なんとなくだった。
ふと、右の女が小屋の薄汚れた木の壁を見つめた。
佐藤もつられて見た。真似をしたわけではない。反射的反応だった。
木の壁が、まるで池に丸い石を落としたかのようにユラユラと波紋を描いていた。
しかし佐藤が驚いたのはそれよりも右の女の反応だった。
イヤホンを外しただけ、なのである。
普通は、現実離れした光景に口が開いたり、隣の男に話しかけたりしてもいいはずである。
彼女はまるで当然の事かのように冷静に、未だに壁を見つめている。
するとミルクコーヒーのように茶色い木目から、白い腕が生えてきた。
佐藤は声にもならない悲鳴をあげた。意味が分からなかった。
白い腕の先についている白い手の、手の平には熟れたイチゴのように真っ赤な口がついていた。歯は無い。舌はある。
「いいだろう。」
その手が呟いた。意外にも普通の男の声だった。
しかし、状況は異常である。
何がいいのだろうか。佐藤はゆっくりと震えることしかできない。右の女は少しも動かない。
役目を終えたのか、手はゆっくりと壁の中に戻った。
依然として木の壁の波紋は消えない。
「行きましょうか。」
突然右の女が言った。イキマショウカ。イキマショウカ。行きましょうか。その日まだ一度も言語という言語を発しなかった佐藤は頭の中で意味を考える。が、分からなかった。
佐藤の両親は日本人である。そして十九年間日本で暮らしてきた佐藤がたかが『行きましょうか』の意味が分からないという事は無い。が、分からなかった。
「行くって・・・」
佐藤はその日初めて声を発した。声は裏返った。
「あなたもしたんでしょう。乱数調整。」
乱数調整。乱数。乱数とはサイコロの目のように次に何が出るか分からない所謂、ランダムな数である。しかし、ゲームなどのプログラムは乱数を導き出すことはできない。なぜなら、それらは『ランダムな数を出す』とプログラミングされているため、『ランダムな数を出す』式、条件が存在するからだ。その条件とはプレイヤーが想定できないであろう、時間経過、キャラクターの歩数などである。それらを駆使することによりゲーム内でのランダムなはず、乱数のはずの入手アイテムなどを意図的に獲得できるのだ。これが、乱数調整と言われる。
はた目から見れば意味のない動きを乱数調整と揶揄することもある。
「いつもよりも二分四十七秒早く最寄りのバス停に着いた後、二分十二秒後に空を見つめる。」
右の女が続ける。どうやら佐藤は知らず知らずのうちに乱数調整のようなことをいてしまっていた。
「そうすればこの扉に出会えるのよ。」
そう言うと女は木目の、波紋の中へと歩みを進めた。
「ちょっと待ってくれ。」
女は止まって、何?と振り返る。
当然の言葉である。この状況で質問すべきことは山ほどあった。『俺も行かなければならないのか』とか、『行ったらどうなる』とか、しかし、
「君、名前は。」
佐藤の口から発せられた言葉は意外なものだった。
佐藤の脳内では行くとか、行かないとかではなく、『行かなければならない』という予感が、直感が渦巻いていた。
行かなければならない。行くことはもう決めていた。ならば同伴者の名前は知っておきたかった。
「Ⅹ大学経済学科一年、塩見、真里。」
「Ⅹ大学経済学科二年、佐藤和弥。」
佐藤は聞かれてもいないのに言った。自己紹介なんてものは二つでワンセットだろう。
「じゃあ佐藤、行きましょうか。」
佐藤には何が『じゃあ』なのかは分からなかった。ただ、後輩の塩見真里に呼び捨てにされてもなぜか違和感は無かった。
塩見はまた振り返って木目の方を向くと前進する。
佐藤もそれに続く。
木目に入る手前で塩見が最後に振り返った。
「塩見と、佐藤。なんだか調味料みたいね。」
微笑みながらそう言って、木目の中へ消えた。
佐藤も少し笑いながら木目の中へ足を進めた。
中は真っ暗だった。ただ、少し遠くに光が見える。二人はそれに向かっていた。
「塩見は、」
「塩見さんで、いいわよ。」
「何がいいんだ。」
「塩見は練習したのか?」
「何を。」
「その、いつもより二分なん秒早くバス停に着くみたいな。」
「ああ、したわ。したわよ。すごく難しいのよ。」
「そうだろうな。」
「佐藤は、」
「佐藤さんだろ。本当は。」
「佐藤はどうしてノコノコと着いてきたのかしら。逃げても良かったんじゃないの。」
「ああ、なんというか、なんとなく行った方が良いかなーってさ。別に暇だし。」
「でも、講義あったんじゃないの。」
「いや、経済数学は出席とらないからな。あとでプリントもらえばいいし。」
「ふうん、でも今日は小テストだったでしょう?」
佐藤は回れ右をした。
「帰る。」
「待ちなさい。」
「嫌だ。」
「別に私は帰るのを止める気はないけど、帰るってどこへ?」
「そんなの決まっているだろ。」
佐藤は辺りを見渡した。が、真っ暗でどこから来たのかさえ分からなかった。
「あきらめなさい。私だって我慢することはよくあるわ。」
「じゃあお前は今何か講義をサボっているのか?」
「私は今日、午後からしか講義は無いわ。」
「理不尽だ・・・」
「それより、着いたわよ。」
目の前に木でできた、ごく普通のドアがあった。
どうやらくだらない話をしている間に光源に着いたらしい。
ドアの隙間から光が漏れていた。
「欲しいものを手にする扉がある。」
ふいに塩見が呟いた。
「何だよ、それ。」
「昔好きだった曲の歌詞よ。ミスターエイジアー。」
塩見は扉を開くジェスチャーをしながら言った。
「それより、行きましょうか。」
「ああ。」
扉というのは普通、どこかの部屋ないし、室内に繋がっているものである。
しかし、扉を開けると赤褐色の大地が広がっていた。
二人が出た後、佐藤は気になり扉の後ろ側を見ようとしたが、その時には扉は消えていた。
扉があったはずの背景にもどこまでも赤い大地が広がっている。
「ここはどこだ。」
佐藤は満を持して塩見に言った。
それは確実にもっと早くに聞くべき質問だった。
「では、ここで問題です。」
どんな問題が出されるのかは分かりきっていた
「ここはどこでしょう。壱、火星。弐、マーズ。参、アレース。」
「全部火星じゃないか。」
「ピンポン。正解よ、佐藤。よく分かったわね。」
佐藤は意外にも冷静だった。これは何かの冗談に違いないと分かっていたからだ。
「そんな訳がない。」
「あら、どうしてかしら。」
「まず、地球と火星がどれだけ離れていると思う?」
「そんなのその時々で変わるわよ。近い時で5400キロ、遠くて4億キロくらいね。」
「よく知ってるな。」
「常識よ。小学校で習ったわ。」
「まあ、第一は地球から遠すぎるという事。」
「そうね。」
塩見は何か反論したそうな顔をしたが、最後まで聞いてやろうと相槌を打った。
「次に、仮にここが火星だとして、酸素濃度はどうなる。」
「酸素は0.3パーセントしかないわね。」
「よく知ってるな。」
「これも小学校で習ったわ。」
そんなことまで習ったかと疑問を持ちながら佐藤は続ける。
「とにかく、地球からの距離が遠すぎるし、火星の大気からして、俺達が今のうのうと話しているのもおかしいってことだ。だからここは火星じゃない。」
塩見は真顔で佐藤を見つめた。『本気で言っているのか』と言わんばかりだった。
「本気で言ってるの?」
「ああ。」
「まるで今までまともなことしか体験していないような口ぶりね。あなたは今日、なんの変哲も無いバス停の小屋の壁の木目から真っ暗な道を通ってここに来たのよ。それが何よ、火星に着いたくらいで急にまともになっちゃって。」
「火星に着いたくらいってお前な・・・」
佐藤は続けて反論しようとしたが、やめた。
目の前に数十分前に見た白い手が地面から生えてきたからである。
ただ、今回は数が多い。
「あ、そっか。もう、佐藤が余計なことを聞くから・・・」
塩見が一人でブツブツと呟く。
「何を一人で言ってるんだ。」
まずはこの状況に驚け、と付け加えて佐藤は塩見を睨んだ。
「まあいいわ。逃げましょう。追いかけてくるわ。」
佐藤には何が『まあいい』のかは分からなかったが、逃げることには賛成だった。白い手たちは追いかけてくる気配は無いが。
二人は白い手たちの逆方向に走り出した。
「そうだ。そうだよ。」
「何が。何よ。」
「お前に聞きたいことを思いだした。なんだよ、あれ。」
「どうして私が知っている前提なのかしら。」
どちらもスニーカーを履いているからだろうか、軽やかに風を追い越しながら二人は言い合う。
「知っていなきゃあんな反応しないじゃないか。普通の女子大生なら、『きゃあ』とか、『いやあ』とか叫んでもおかしくないだろ。何だよ、その冷静さは。」
「決めつけるのは良くないわよ。佐藤。もしかしたら私は血も涙もない冷徹な女で、生まれてこのかた叫んだことも泣いたこともないかもしれないじゃない。」
「お前の幼少期を見たくなってきたよ。」
「鉄の女と呼びなさい。」
「サッチャーか、お前は。」
「あら。」
「どうした。」
「あんな所に隠れるには丁度いい洞窟があるわ。」
塩見が指さした先には、なるほど、大人が二、三人は入れるほどの洞窟があった。
「ラッキーだな。」
「ええそうね。」
佐藤はいよいよ訝しげに塩見を見た。
「何よ。」
「いや、早く行こう。」
二人は加速した。
「もういいんじゃないか。」
佐藤は洞窟に入るなり言った。
「何がよ。」
塩見は壁によりかかりながら返した。
「俺を元の場所へ、あの薄汚れたいつものバス停に返してくれと言っているんだ。」
「どういうことよ。」
「とぼけるなよ。」
佐藤は詰め寄る。
「乱数調整なんて、あんなの嘘だろう。仕組んだんだ。お前が。バス停の扉も、白い手も、火星も。」
佐藤は興奮したのか気が付いたころには塩見の顔との距離はちょうど広辞苑の厚さほどしかなかった。塩見は顔を背ける。
「どうしてよ。」
「何がだ。」
「どうして私がそんなことするのかしら。」
「それは俺が聞きたいね。」
「吊り橋効果って知ってる?佐藤。」
さっき塩見は顔を背けたが、それだけで塩見と佐藤の距離は変わらない。塩見は少し赤い顔で佐藤を見た。走ったからだろうか。それとも、
「ああ。吊り橋にいるという心の動揺を恋と勘違いすることだろう。」
佐藤は淡々と答えた。
答えた後にハッとした。
「思い出した?」
『佐藤さんって、吊り橋効果って信じます?』
あれは去年のサークルの新入生歓迎会のことだった。塩見です。よろしく、と色白で綺麗な子が佐藤の隣に座るなり言い出した。
『まあ、信じるかな。俺、高所恐怖症だし、吊り橋なんか渡ったら凄くドキドキしそうだよ。』
佐藤が答えると彼女は優しく微笑んだ。
『そうなんですね。じゃあ、宇宙なんか行ったら大変ですね。高いってもんじゃないですよ。』
『星を見るのは好きなんだけどね。だからこの天文学サークルに入ろうと思ったんだけど。』
『私は星を見るのも好きなんですけど、行ってみたいんです。』
『星に?』
『はい。火星とか。』
『火星か。赤い大地のイメージしかないなぁ。』
『それがいいんですよ。』
そう彼女は無邪気に笑った。
彼女の、塩見のバッグには白い手の不気味なキャラクターのストラップがついていた。当時流行っていたものだ。キモかわいい、らしい。
その後も佐藤と塩見は少し話したがすぐ一年生狙いの上級生が塩見を席へと誘った。
『じゃあ、佐藤さんまた今度話しましょう。今は、行かなきゃいけないみたいなんで。』
『ああ。』
しかしそれ以来二人が話すことはなかった。
塩見がサークルにぱったりと来なくなったからである。
そのうち佐藤は塩見の存在を忘れていた。大学の最初の一年間というのは人間関係の変化も激しく、たった一度話した相手のことを忘れるのも無理は無かった。
もし、塩見がサークルにだけではなく、大学にも来ていなかったとしたらもちろん彼女は留年し、佐藤と同じ年齢だが一年生、ということになる。
佐藤は塩見を見た。
「なあ、お前は・・・」
「ごめんなさい。」
塩見は頭を下げた。
「私、あなたにもう一度会いたくて、一緒に、火星に行きたくて。」
「塩見・・・」
「でも、もう時間ね。残念。あなたのせいよ。あなたと話すと楽しくて、時間がすぐ流れちゃう。」
「塩見、俺はお前ともっと話がしたい。天体の事、教えてくれよ。もっと。」
「私、良かった。あなたと・・・」
洞窟が青く光り始めた。
佐藤は眩しさで目を閉じる。
「塩見・・・」
「佐藤!おい佐藤って!」
佐藤は眩しくて目を開けた。真っ青な空が瞳にうつる。
どうやらバス停の小屋のベンチで寝てしまっていたらしい。
「いくら連絡しても出ないからわざわざお前のバス停まで来たらベンチで寝てんだもんな。ビックリだぜ。もう行っちまったよ。一番早いバスは。」
同級生の壮介が汗だくで怒る。
「悪い。」
「それよりお前大丈夫か?」
「何がだよ。」
「何がってお前、振られたんだろ?今年入った翔子ちゃんに。」
「振られたっていうより、告白も出来なかったよ。」
「女って怖いな。あんなにお前に優しくしてたのに男がいるなんて。思いっきり彼氏とのツーショットを投稿しちゃってな。」
「ああ。」
「なんだ、お前。あんまりショックそうじゃないな。驚かないのか?」
「そうだな。」
佐藤は小屋の壁の木目を指さした。
「この壁の木目が火星に通じるているくらいのことが起こらないと俺は驚かないよ。冷静で冷徹なんだ。俺は。」
「はあ?」
壮介が間抜けな顔をする。
「鉄の男と呼びな。」
完
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