聖女の絵
三十年ほど前に、この街で死んだその男のことを、私は天才であったと思う。
しかし、神がいつも天才を愛するかどうか、いいかえれば、人の才能が、はたして神の恩寵であるのか、むしろ、悪魔の呪いである場合もありうるのか、という疑問については、答えがだせないでいる。もちろん神の御業に及ぶべくもないが、人があのように壊しても許されるものであったのか。
彼はみたままに、それこそ生き写しに描いた。また、一つの病いであったかもしれないが、そうとしか描けない男だった。私は彼に会ったことはないが、なぜかそう思う。
人ははじめのうち、彼を賞賛したようである。だが、あまりにも真に迫る彼の絵は、まさに描かれた者の魂を映した。のちに述べる理由からこれは断言できる。人は自分の魂を直視できはしない。毎日わたしのところで懺悔をおこなう信心深い者にも、何らかのウソはある。そんなとき、わたしはそのウソを強く非難するべきかどうか迷う。「人を裁くな」という教えにしたがうならば、懺悔を聞く者は真実を強いてはならない。微塵のウソもなく真実のみを言うように責めるのは、むしろ、悪魔が地獄で行う所業である。悪魔は真実を知らぬ。ただ真実でないことは、己がその同類であるゆえに、そうと分かるのだ。真実は神のみがご存知である。それで充分なのかもしれない。あの男が描いたものは、触れてはならぬ神の知識と魂の秘密、つまりは人の罪そのものだったのかもしれない。
人はブラントの画業を魔術と噂した。それは無理もないところもある。不思議なガラスを組み合わせた映写機械、鉱物から抽出する秘伝の絵の具は、しばしば猛毒をふくんでいたそうである。どれも、罪ぶかい鋼の剣と同様に、大地の内臓からしぼり出したものである。一般に、人が生きる以上のものを、神がお造りになった母なる大地からしぼりとること、それは悪魔のわざとみられる。
いまとなっては知る由もないが、神の言葉を説くその兄弟に、信仰のおごりがあったのか。あるいは、旅のレンフィールド修道士の頭に、真実、神の言葉が響いたのか。とにかく、さわやかな薔薇の香りの六月であった。「肖像画を燃やすべし」と、修道士が市場の辻で説教を始めたのであった。この説教の効果は驚くほどすみやかに広がった。この街では画家はブラントひとりであったし、「お化け絵」といわれる変わった画風はほかの街の同業者にも彼に近づくことを躊躇させた。すでに述べたように、以前からブラントが魔術を使うと、街の人々は信じていた。そして、神の御業を絵の中に閉じこめ、永遠に若い肖像は人が老いてゆく摂理を乱し、しばしば絵に描かれた美しい娘に傲慢の罪をうえつけるという、その説教はたしかに力強くひびき、人に恐れを感じさせるのに十分だった。おそらく百枚をこえる傑作が市につまれ、油をかけられ、火をつけられた。まるで異端者を焚刑にするように……。
ブラントの家に火がつけられたのは八月の満月の晩だったそうだ。こんどは旅の修道士が言いだしたのではなく、いつも怒りをふくんで奢侈を憎み、知らず嫉妬の罪を犯した者たちと、彼の絵に多額の金を払い、それが灰燼に帰したことを恨む、吝嗇の罪を犯した人々であった。レンフィールドはどこかへ去った後であった。むしろ、彼こそ悪魔の化身だったのかもしれない。とにかく、彼らは街を「清めた」のであった。ブラントも二度と絵筆がとれぬよう、その眼と指を火で「清められた」のであった。彼の肉体が絶望のうちに墓地の下にねむったのは、この「清め」の後、数日のことであったという。いま、ブラントの魂が神の御もとで安らいでいるのか、地獄の業火に焼かれ、いまだ清められているのか。それを知ろうとすることは不遜であろう。
わたしは先任の神父から、この館を引継ぎ、街の小羊を導くことになった。もう十年の昔のことだ。敬虔なるダミアン神父が息をひきとるとき、わたしを枕元に呼びよせ、机の引き出しを開けるようにいった。救い主の生誕を祝う祭が始まろうとする頃だった。人が寒さの中で暖かい思いやりを示す時である。それが身内の者に対する思いやりに限られているとしても、だれも責めはしない。
指示どおり机の三つ目の引き出しを抜いてみると、その奥に小さな物入れをみつけた。古い封印は破られてはいなかった。そこに隠されていたのは、手のひらに収まるほどの小さな肖像画で、青い服に身をつつんだ結い上げた金髪も麗しき乙女が、よびとめに驚いたようにふりむいていた。
祭りのさなか、わたしは神父の最期の懺悔を聞いた。肖像は俗世にあるとき神父が愛した村の乙女であった。先立たれた妻と結ばれたのちも、その乙女を忘れることはなかったそうである。乙女は豊かな農場に後妻に入ったことを「身に余る光栄」と思わねばならず、働きづめで胸を病み、天に召された。そして、その肖像画を神父に贈ったのは、若き画家であった。神父は修道士の説教を反駁しきれず、また街の人々を押しとどめることもできず、古い友を死なせるにいたったことを、ひどく悔いておられた。そして、神父は自分がもしも天に召されるのであれば、ブラントの芸術がほんとうに冒瀆に値したのか、神に問いたいとのべた。それは最期の恐ろしい疑問であった。
神父の死は懺悔の苛烈さにも関わらず安らかであった。疑問も抱きながらも、あの様に安らかに世を去りえた心情には、わたしはいまだ至らない。わたしは乙女の肖像をどうすべきか迷った。思い切って神父の棺にいれようとも思った。死の間際にみずから施した封印を破ってまで、ひとめ見たいと願った、その罪ともいいうる真情に沿うことも考えたのである。
しかし、わたしは乙女の肖像をみるうち、手元におきたいという念が静かに起こってくるのを押さえつけることはできなかった。それが悪魔の誘惑なのか。神の深慮によるものか。どうして人の身で知ることができよう。いつか、私もこのことを後任の者に懺悔せねばならぬ時がくるだろう。
今、教会のかたすみに乙女の絵は掛かっている。
わたしが偽りの画家の名を書きいれた。貧しかった聖女の絵だと教区の人々には言ってある。私はこの絵を見るたびに、彼女の驚いた瞳に射られて不安になる。まるで、見る者の魂に巣くう、偽りと傲慢に驚いているようである。それでも、教会をたずねる者は、彼女を前にすると、胸を突かれたようにおびえつつ、知らず祈りを捧げるのである。