食物連鎖はこうして起きる
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深々と降り積もる雪は、針葉樹の葉を白く染め続ける。時折、枝が重みに耐え切れず、雪を振り払うように地面に落とす。その都度”ばさ”という音が、モルタヴの森に響くのみであった。
時刻は未だ正午を過ぎていないだろう。しかし、ネフェルカーラは獣一匹見かけないこの森に、僅かばかりの焦燥感を抱いていた。
獲物がおらず、収穫の無いまま帰るのか。
――いや――
収穫ならば、あった。
どんぐりが八十個である。
まったく食べられない、という訳ではない。持ち帰り村人に渡せば、或いは感謝されるモノではあろう。しかし――
「私は肉が欲しいのだ。それに、ヒルダの身も心配だ」
だが、ヒルダの身はともかく、僅かばかり空腹になってきた。となれば食欲があらゆることに勝る魔族である。
「あの上位妖精を、煮るなり焼くなりすれば、食べられるであろうか?」
ふと、緑眼の魔術師は、脳裏に妙案が浮かんだ気がしたが、すぐに首を横に振って否定する。
流石に、人型のモノを食べるのは、最後の手段としておこう。
しかし、余りに獣に出会わないネフェルカーラは、自身の思考を否定し、妥協に至る。
もはや、最後の手段しか残されていないのだ。
「案外美味そうな顔をしていた気もするし……食料は、上位妖精でも良いかな……じゅるり」
「何言ってるのよ、ネフェルカーラ! 上位妖精を食べようなんて、気は確かなの? そんな事より、あの子、ヒルダ姉のことを知ってるんじゃない?」
雪の中、思案顔のネフェルカーラを現実に引き戻したのは、赤毛のナタリーである。
彼女には、狩りなどどうでも良かった。ただ、行方知れずとなったヒルダ姉を探したい一心なのだから、当然だ。
「おお、おお、そうであった。すまぬ、ナタリーよ。朝から干し肉とミルクしか口にしていないので、空腹に負けそうであったのだ」
「普通よ、それ、普通だからね! まだ、空腹に負けないで頂戴!」
二百年の時を生きる自称美少女は、一八五歳も下の少女に叱られて、がっくりと肩を落とし、再び雪の森を彷徨うのであった。
◆◆
現界の雪を尻目に、幻界は常に柔らかな陽光が降り注ぎ、黄金色に輝く風光明媚な空間である。
そこは、妖精や精霊のみが住まう事を許された異質の空間であり、時に妖魔や魔族といった者が干渉する事はあるが、人や獣は、決して踏み入ることが出来ぬ、桃源郷であった。
アエリノールは溢れ出る涙を拭い、ただ一人、幻界にある木の枝に座り、嘆き続けている。
モルタヴで生まれた唯一の上位妖精であるアエリノールの嘆きは、即ち森の嘆き。木霊たちは、こぞって彼女を取り囲み、心配気な視線を送り続ける。
けれど、人化出来る者さえ少ない木霊は、アエリノールの言葉の意味も、嘆きの理由もわからず、ただひたすらに、うろたえるばかりであった。
「ネフェルカーラに謝りたい。獣のニクをあげたいの。それでね、仲良くなりたいの」
この時、恐るべき事に、もはやアエリノールに魅了は掛かっていなかった。
ただ単に、アエリノールは綺麗なネフェルカーラと友達になりたい一心である。
こうなってしまえば、魅了が掛かっていてもいなくても同じ事ではあるが、大切なことなので、ここに明記しておく。
「アエリノールさま、どうなされましたのじゃ?」
木霊の長老は、流石に見かねてアエリノールに声をかける。
やはり言葉も分かり、人化もできるワシがいなければ! との使命感はかなりのものだが、アエリノールにとってはどうでも良い。
ただ、今回だけは、長い耳をぴくりと動かし、人化した長老を、嬉しそうに見やったアエリノール。
これはもう、長老の鼻が伸びた。
だが、それ見たことか、他の木霊ども、ワシの偉大さを知れ! と長老が思ったのもつかの間、アエリノールの願いは、長老の想像を絶していた。
「ねえ、熊のところに案内してっ!」
「はひえ?」
アエリノールは考えに考えて思い出したのだ。
熊は、一度だけメンヒ村の人に拝み倒されて退治した事があった、と他ならぬ木霊の長老が言っていた。そして、熊のニクを人が食べるのだ、とも。
「……いてて。熊を、どうなさるので?」
アエリノールが突然立ち上がり、拳を振り上げて言った願いに、木霊は驚いて木から落ちた。
迂闊に人化などするものではない。
人化すれば半透明の身体がモノに触れる代わりに、重力にも影響される。
「木から落ちるものなど、実と猿だけで十分じゃわい」と、痛む尻を押さえて木霊は、アエリノールの答えに耳を傾けた。
「欲しがっている人がいるから、持っていってあげるのっ!」
アエリノールの決意は固く、彼女の口元はしっかりと引き結ばれていたのである。
◆◆◆
木霊の長老に案内されるまま、モルタヴ大森林の姫君たるアエリノールは、真っ白に染まる木々の中を進む。
といっても、決して地上に足を付けることはなく、宙に浮く木霊を追う上位妖精は、木々の枝を踏み台にして、器用にその身を移して行くのであった。
木霊は、もはや人化していなかった。人化はもう懲りたので、今は、たゆたう光そのものである。
この地域の熊は、決して冬眠をしない。
なぜならば、木霊達の庇護により、森全体があらゆる生命に満ちているからである。
ひとたびモルタヴ大森林の奥に進めば、どのような季節であっても木々は実を成し、木陰に実を寄せれば樹木の暖かさに身体を休める事が出来るのだ。
だからこそ神聖であり、人間に対しては禁断の地である必要があった。
「ここですじゃ。ですが、熊も大切な命。余りむごい事をなされませぬ様に……」
「分かってるよ! 一匹だけ! それに、一番みんなに迷惑をかけてる奴!」
木霊の長老は心配げな声をアエリノールに投げかける。しかし、当の幼い上位妖精は、既に魔法を唱え、光の矢を頭上に煌かせていた。
熊が絶命するのに掛かった時間は、一秒以下である。恐らく、痛みもなく、自身に何が起こったのかも理解出来ぬままに倒れたであろう。
小川から大きな魚を加えて出てきたところで、眉間に光の矢が刺さり、そのままうつ伏せに倒れていた。
樹上から降りたアエリノールは、熊に咥えられた魚も絶命している事を確認すると、嬉しそうに頬を膨らませた。
頬を膨らませる仕草は誰が教えた訳でもないが、彼女は感情が昂ぶると頬を膨らませる癖があるのだ。怒ったら、その口元は、への字に歪む。口角が上がっている時は上機嫌の仕草だ。今は、当然ながら後者であった。
「うん! お魚もあげちゃおう!」
アエリノールは嬉しかった。
大きな熊と魚が取れたのだ。魚だけでも、人間の家族が夕食として囲んだって、きっとおかしくないご馳走のはずだ。
はやく、アエリノールはネフェルカーラの笑顔が見たかった。
あんなに綺麗な人が笑ったら、どんなに綺麗になるんだろう?
もはやアエリノールの胸は期待に膨らみ、自身がネフェルカーラに歓待される姿しか想像出来ないのであった。
◆◆◆◆
風の精霊を使役して、熊と魚を頭上に浮かべながらメンヒ村に現われたアエリノールは、当然、恐怖の象徴にしかならなかった。
木霊は当然ながら、モルタヴ大森林の中でしか活動出来ないので、アエリノールは現在一人ぼっちである。
世間はおろか、人類とまともに会話をした事さえない彼女に、いきなり届け物というのは、些か敷居が高すぎた。
初めてのお遣い、にも程がある。
こんなことをさせてはいけない、と考えないあたり、木霊も所詮植物だった。
「根があれば、どこでも生きてゆけるからの。ふぉっふぉっっふぉ」
なんて思っているのだ。
当然、アエリノールに根などない。
村を囲む柵を越えて、吹雪に変わりそうな天候の中、昼食を終えた村人が窓の外を覗いた時に見たそれは、金髪の魔族としか思えない存在であった。
「ま、ま、魔族っ! しかも、あんな大きな獣を! きっと上位の魔族だ!」
外に出て、懸命に雪かきをしていた少年が家へ駆け込み、家族に火急の事態を告げる。
普段見かける魔族とは、比べ物にならない魔力だろう。
今まで少年が見た魔族といえば、人の形すらしていない。喋る魔族を見た事はあるが、小指程度の大きさで、猿のような顔をしていた。そいつは塩を何粒か与えたら、大喜びで飛び去った。
もちろん、少年はネフェルカーラの正体などしらない。
物心がついた頃から、姿かたちの変わらない目つきの悪い美少女だなぁ、としか思っていなかった。
そんな彼の前に、灰色の貫頭衣を着た幼女が、頭上に熊と魚を浮かべてゆっくりと歩いてきたのだから、「アレが上位の魔族か!」と、勘違いしても仕方がないことだろう。
挙句に幼女は、家に飛び込んだ男を見つけ、扉を開ければ人に会えるのだ、と思ったのだから、もはや手遅れである。
「ねえ、人間! ネフェルカーラはどこ?」
熊と魚を路上に放り、木製の扉を蹴破って、破天荒な幼女が六人家族の眼前に現われたのだ。
祖父は泡を吹いて倒れ、祖母は神に祈り、少年は暖炉の火かき棒を持って構え、母は子供たち二人を抱えて震えている。だが、その母に抱えられた二人だけが、同世代と思しき金髪の闖入者に対して、興味を覚えていたのが唯一の救いであったのだろう。そのお陰で、何とか最悪の事態は避けられたのだから。