誰が為に狩りをする
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聖暦五十二年、初冬。
カフカス大陸は、前年から続く異常気象、寒波と旱魃によって農作物に壊滅的な被害が及んでいた。
メンヒ村は大陸の北東部、聖教国の果てにある。
――メンヒ村から僅かに北へ向かえば、そこは魔族が支配する禁忌の地。北東に向かえば、妖精が住まうと言われる広大な森が広がり、南東に進路を取れば、塩分濃度が異様に高い魔の海が広がっている――そんな場所だった。
曇天は昨夜から続き、この日は、例年ならば未だ降らないであろう雪が、早朝から深々と降り続いている。雪は、満遍なくメンヒ村の家屋、道、畑を白く染めていた。
メンヒ村の中心部には、それなりに大きな邸もある。当然、馬車道も整備されているし、石畳の街路もあった。それらは基本的に軍の往来や駐屯を考慮してのことである。
もっとも、メンヒ村から僅か北に長城があり、そこが魔族の国との国境である為に、村の中に駐屯する騎士団、或いは兵団は今の所、無い。全ては長城に駐屯しているからだった。
とはいえ領主の私兵は存在するが、それこそ村人が私兵をかねているので平和なものだった。
真実を語れば、領主が自領に荒くれ者の聖騎士を駐屯させたくないが為に、裏から手を回している、ということである。
だから、普段、村が抱える最大の悩みは、森の妖精による神隠し――位のものであろうか。
だが、今年は折からの寒波と度重なる魔族の襲撃があって、いつもより状況は悪かった。恐らく、魔族も寒波によって食料が不足しているのであろう。時折、村に低級の魔族が現われては、穀物を奪い、家畜を攫って行くのだ。
北にある聖教国と魔族の国を隔てる長城は、いわゆる上位魔族に対しては絶対の防壁となる。それに、騎士達も聖騎士と呼ばれる強力な部隊であった。しかし、下級の魔族となると、そもそも、魔力を余り有していない為、強力な対魔の魔力を帯びた長城に、意味が無くなってしまうのだ。だから、夜間に梟の如く、空から侵入し、奪い、去ってゆく。
といって、なるべく人に見つからない様に全てを行うのだから、害獣のようなものだった。その上、たまに金貨を置いて去るという、変わった魔族まで確認されていた。
そのような状況だから、この村の人々は、ときに魔族とも仲良くなってしまう。だから、魔族の方でも遠慮がちに、全てを奪うような事は決して無かった。
◆◆
村の中心部から離れると、麦畑と麦畑の間に点在する小さな家々がある。家々の煙突からは、曇天に向かって白い煙が伸びていた。
そんな小さな家の一つ――小さな――とはいっても、家族が住まうには十分な広さをもった木造の家屋に、たった一人で住まう魔術師がいた。
彼女――彼女というからには、当然女性である――は、暖炉に魔力を注ぎ火をくべて、少しばかり身震いしながら漆黒の長衣を身に纏う。
それから、急いで寝室と居間の境目にある扉を閉め切った。
酷く冷えると思えば、雪が降っているではないか。
彼女は、雨戸を開け放った瞬間に、辺りに広がる一面の白色にうんざりしていた。
「しかし今日は、雪でも狩りに行かねば食料が無いぞ」
そう思えば、気が滅入る。
これが、一人暮らしの苦痛というものであろうか。
彼女は大きく溜息を吐き出したが、それすらも白く濁るのだから、室内にいてさえ救いようもない寒さだった。
彼女は、見た目だけならば、十五、六歳の少女だった。何より翠玉の如き緑色の瞳が印象的で、美少女と言っても過言ではない。
もっとも、身長も体重も、ここ五十年程さしたる変化がないだけなので、実年齢でいえば、メンヒ村の最長老だった。しかし、本人は自身を、あくまでも「美少女」と認識しており、村人にも同様の認識を暗黙のうちに強制していた。
身長が伸びない点を、彼女は非常に気に病んでいた。毎年柱に傷をつけては、自身の身長を測っている。しかし、五十回も同じような場所に傷をつけていたせいで、今では柱も心も折れそうだった。
体重は、夏場に桶に水をはって、増える水嵩を量っていた。
「身長が伸びないのに体重が増えたら、柱で頭を叩き割ってやる!」
と、決意をしながらいつも水桶に入るのだが、彼女の体重は一切の増減がなかった。だから、彼女の頭蓋は毎年平穏で、傷一つ付く事が無かった。
何はともあれ、彼女は朝食の支度を始めた。
朝食と言っても、乾燥させた肉と、山羊のミルクを温めたものだけだ。それでも、早朝の彼女には十分な満腹感を齎すのだし、今の村の状況を考えれば贅沢な程であろう。
「うむ、やはり、あと三食分か」
美少女は、黒檀の食卓に肘をおき、物憂げな溜息をついた。
棚にしまった干し肉も、残り少なく、麦も無い。
何度溜息をついても、辺りを見回しても、食料は増えそうも無い。奇跡は起きないのだ。
やはり、面倒でも家畜くらいは飼っておけば良かった。
今更ながら、そう後悔しないでもない。
頬杖を着きながら、憮然として食事を進めていた少女の下に、密閉性が高いとは言い難い扉を大きく開けて、女性が飛び込んできた。
「ネフェルカーラ! この子が朝からっ!」
丁度、干し肉を飲み込んで、暖めた山羊のミルクで口を潤したネフェルカーラは、切れ長の瞳を扉に向けた。
彼女は長い睫毛と切れ長の目、そして高い鼻梁が合わさって、確かに美少女と言える面立ちだった。これで、唇がもう少し厚ければ、もっと柔らかい印象になっていたであろう。ネフェルカーラは残念なことに、整い過ぎた顔である為、冷たい印象を人に与えるようだった。
自称美少女の視線には、「寒いから早く扉を閉めて欲しい」との願いが篭っていたが、慌てた女性がその事に気付く事は無いようだ。
痩せぎすで、薄汚れた長衣を纏った女性が、荒い息をする三歳か四歳の幼児を抱えている。見た所、病気にかかっている事は間違い無い。
軽く溜息をついた自称美少女は、居室にある年代物の長椅子を指差した。
ネフェルカーラの性格を知っている長衣の女性は、慌てながらも幼児を椅子に横たえる。
ネフェルカーラは、無表情で無愛想で氷の様な美貌であっても、決して悪人ではない。どころか誰よりも優しく、決して誰も見捨てたりしないのだ。
「エレノア、そんなに慌てて、一体どうしたのだ?」
「熱っ! この子が朝から熱を出していてっ!」
ネフェルカーラは二百年、この地に暮らし、生きつづけている。
その間には、様々な事があった。
人間であった父は、当然ながら寿命で亡くなった。
魔族であった母も異種族との間に子を為した事により、その力の全てを失い、天寿を全うした。
魔族とは、いかなる種族とも交配が可能だが、その代償として、全ての能力が子供に引き継がれ、自身は交配した種族に準じた能力、寿命になってしまうという。
だが、それを知ったネフェルカーラは、納得していた。
そうでなければ、やたらと寿命の長い魔族ばかりが、闇雲に増えるではないか。そう思ったのである。
「ああ、神よ。つまり永遠の命と最強の魔力、そして類稀なる強さと絶世の美貌を併せ持つ私に、恋をするなというのだな……よろしい、その業、背負おうではないか!」
堂々と「神」というものに問いかける魔族も珍しかったが、ともかく、こうして、著しく異性に対してコミュニケーション能力を欠いた自称美少女は、加速度的に勘違いをこじらせてゆくことになったのだ。
ミルクを飲み干したネフェルカーラは、椅子から立ち上がり、幼児の前に移動した。
「ふむ、風邪だろう。流行り病の類ではなくて良かったな。熱を下げて、体力を回復させる」
長椅子に寝かされた幼児の額に手を翳すと、一度深く息を吸い込んでから、ネフェルカーラはゆっくりと呪文を唱えた。
あまり「治癒」の魔法が得意とは言えないが、少なくともこの村に魔術師は彼女だけだった。
何よりニ百年もこの地に住んで、なおも化け物と言わずに接してくれる村人の事が、彼女は好きだった。だから、村人が困っていれば、必ず助けるのだ。
もっとも、現在の長老たちですら、この少年のように病気になるとネフェルカーラが面倒を見続けてきたのだから、彼女が邪険にされるハズもない。ネフェルカーラがたとえ半分魔族であったとしても、村にとっては守護者であり聖女なのだから。
「どうだ? 楽になったか?」
長椅子の上で薄っすらと目を開けた幼児に、ネフェルカーラは仏頂面で問いかける。
「あ、ありがとう」
長椅子に横たわる男児は、それでも笑顔で少女の緑眼を見つめ、彼女の衣服から僅かに漂う麝香の香りに恍惚とする。
また、一人の男を虜にしてしまった。なんと私は罪深いのだろう……などと脳内麻薬を分泌させたネフェルカーラが、こじらせた勘違いを元に、鼻を鳴らして顔を背けた。
「ふん」
男児の快癒に、エレノアの頬が綻んでいる。
「ありがとう。いつも……ほんとうに、ありがとう」
そう言いつつ、川魚の干物をいくつか食卓の上に置き、去ろうとするエレノアだ。
扉に向かう途中、幾度もエレノアが礼を言うので、ネフェルカーラは、食卓の上に乗った干物に気がつきもしなかった。
しかし、ミルクの容器しか載っていない筈の食卓に、藁にくるまれた魚の干物がある事に気がついたネフェルカーラは、扉を跨いだばかりの親子に声をかけた。
「おい! このようなもの、いらんぞ!」
「ん? お礼よ」
「私は肉食だ。魚は食わん!」
「あら、森の獣だって魚は食べるわよ?」
「私を森の獣と一緒にするな!」
小屋に来た時とは違い、幼児がしっかりと雪を踏みしめて歩く姿に、ネフェルカーラは内心でホッとする。
どうせ、この干物はなけなしの食料だろう。
そんなものを貰う訳にはいかないのだ。だから、急いで彼等の後を追い、回り込んでつき返す。
別に、食料が欲しくて治療した訳ではないのだ。それが、ネフェルカーラの価値観だった。
「ほれ。私は食わんと言ったら食わんのだ」
前に回りこまれると、エレノアは流石に困惑の表情を浮かべていた。
差し出したモノを持ち帰る、というのも気分の良いものではないだろう。しかし、今は状況が状況だ。
「これだけあれば、おぬし等の家では家族五人の食事が賄えるであろう? 私は一人だ。それに今日、狩にも行くしな。
……何より、とにかく私は肉しか食わん!」
包みを右手で突き出し、顔を背けているネフェルカーラ。
照れ隠しであることが明確であるだけに、エレノアは”くすり”と笑うと、両手で拝むように包みを受け取った。
一度言い出したら止まらない頑固者。そういえば、この少女は昔からそうであった。
エレノアは、僅かばかり目を細めて昔を思い出す。
自身の身長が、目の前の少女と同じ位の年頃に、共に遊んだ日々を懐かしむ。
今では、自分の方が身長が高くなって、息子も生まれたけれど、ネフェルカーラは何一つ変わらない。妙にそれが嬉しかった。
「じゃあ、狩りから戻ったら呼んで頂戴。今日は久しぶりに、私が、お料理を作ってあげるわ」
ネフェルカーラは、昔から唯一料理だけが苦手であった。
木の実、果物は生で食べる。肉は、たまに火で炙る、それ以外の食べ方を、いつになっても覚えないのだ。麦粥さえ、未だに作るのに苦労している。
ある日エレノアは、疑問に思って聞いた事があった。
「ネフェルカーラは、料理が嫌いなの?」
「いや、嫌いという訳ではない。母上が突然亡くなってしまわれたので、教わる時間がなかったのだ」
少しだけ、物悲しそうな表情で、理由を教えてくれた。
だがその時、エレノアは一見完璧に見えるネフェルカーラが、唯一喜んでくれるであろう、自身の特技を見つけたのである。
エレノアの提案に手を打って賛意を示すネフェルカーラは、満面に笑みを浮かべて嬉しそうだ。
「おお! それはとても助かる! 大物を! とはこの天気では言えぬが、良いものが取れたら、お前たちにも分けてやろう!」
そう言うと、いそいそと小屋へと戻ってゆくネフェルカーラは、すぐにも狩りに出かけるつもりなのだろう。
雪の上につく足跡は、やはり、未だ少女と呼べる程度の大きさでしかない。それでも彼女は、類稀なる魔術の使い手なのだ。
エレノアは、息子に笑顔が戻った事が嬉しかった。手を繋ぎ、息子の温もりを確かめる。けれど、その手が年齢に相応しからぬ程に痩せ細っていて、何とも痛ましい。
この冬を乗り切れれば、とは思うのだが、乗り切る為にはどうしても妖精の森に行き、獲物を取らねばならなかった。
加えて、今年はシバール国との大きな戦もあり、村は男手が不足していた。その為、どうしても子供のいない少年少女達が狩りに出ることが多いのだ。
しかし既に、この一月で十人が行方知れずになっていた。それも、少女ばかりが。
ネフェルカーラに限って何も無いとは思うのだが、狩りに出ると聞けば、エレノアが僅かの不安を覚えるとしても、それは止むを得ないことであった。