馬車の中
前が見えないほどの暗闇の中、俺は息を切らしながらも走っていた。たくさんの汗を吸ったシャツが身体全体に重くのしかかる。だがそんなことが気にならないくらいに精神的に辛かった。
あの薄汚い恰好をした男はなぜこちらに攻撃を仕掛けてきたのか。殺人鬼の類か? それともこの異常な状況の黒幕? そんなこと考えていると無意識に動いていた足が止まる。
足の感覚が麻痺しているのかまったく足に力が入らない。身体から力が抜けていくように膝をついて前のめりに倒れる。
体力の限界だ。そう悟ったとき、眠気が襲い、瞼が重く感じる。青々と茂った草むらの上でも安らかな睡眠ができるくらいの眠気だ。
眠い、眠りたい。だがこのまま寝てしまえば後から追ってくるあの男に殺されてしまう可能性もある。
だから眠れない。ここで起きて逃げなければ……逃げる? どこへ逃げるのだ? どこまで逃げればいいのだ? 一つの疑問について頭の中で自問を続ける。その答えはないのけれど。
眠気をかき消すために色々と思考を巡らせる。この状況の解決策を考え、身体には力を入れようと踏ん張ってみる。しかし考えてもいい案は思いつかないし、身体も動かない。
後方からガサゴソと草むらが揺れる音が聞こえる。うつ伏せで倒れている自分の視点からでは見えないが風が吹いて揺れた音ではなく、誰かがここまで来たのであろうと予想できる。
その正体はたぶん先ほどの攻撃を仕掛けてきた男だろう。殺されるなぁ、と半分寝ぼけながらも頭を働かせる。
こんな暗闇の中だから見つからないかもしれない。そう思って安心させるが半開きの目に光が差し込む。それが松明の火の光だってことに気づくのに数秒かかった。
ああ、見つかった。右手にタガーを持った男の足音がこちらに近づいてくるたびに大きく聞こえる。
もう、いいや。上手く回らない頭の中で諦めの言葉をつぶやき、俺は目を閉じて眠ってしまうのであった。
――――――――
「それで気がついたらここにいたんですよ、こんな格好でね」
「…………」
右斜め奥で体育座りをしながら顔をうずめている少女に、これまでの自分の体験談を話してみたもののなにも反応してくれない。
まあ首に鉄の分厚い首輪らしきものを嵌められていれば誰でも気が滅入りそうだが、少しくらい反応してくれてもいいのではないのだろうか。
そしてまた静まり返る。
一週間ほど前、俺は草むらの上で眠ってしまった後、目が覚めたら馬車の中で拘束されていたのだ。
眠っている間に身に着けているものはすべて剥がされ、今は白いシャツ一枚にトランクスの恰好だ。こ○亀の両○さんを彷彿とさせられる。後ろ手に手錠らしきもので拘束され、手錠から伸びる縄は近くの箱に繋げられている。
一日目はこの状況を把握できずに混乱していたが、一週間も経てばいろいろと分かってくる。
まず俺を襲ってきた薄汚いタガーの男は盗賊らしい。その盗賊が寝ている俺を担いで拠点にしていた所まで戻り、この馬車で奴隷として拘束しているのだと盗賊の下っ端が説明してくれた。
「昼飯のパンだぞー」
噂をすれば何とやらでその下っ端さんが二つのパン持って来てくれる。下っ端さんは二十代前半の青年であったが身なりはタガーの男とほとんど変わらない。
身なりは不潔だが混乱していた俺にこの状況を説明して落ち着かせてくれたり、一日二回と少ないが食べ物のパンを持ってきてくれる優しい男だ。盗賊の下っ端だけど。
「あざーす、あむ」
そう言って差し出されたパンを口だけで器用に食べる。これも一週間もすれば容易い。
そして下っ端さんは馬車の奥で鎖に繋がれている少女にもパンを渡し、馬車の外へ出ていく。
また馬車の中では俺と少女だけとなった。一週間もこの会話のない状況が続いているので非常に気まずい。
少し色あせた金髪に大きめの白いシャツを着ており、手枷足枷はされていないが首には大きな鉄の首輪が嵌められている。首輪から伸びる鎖は馬車の壁に埋まっていた。自分より年下らしく少しやつれているが可愛らしい顔立ちをしていた。
少女がここにいる理由は、ドラゴンに襲撃され、潰れてしまった村落に訪れたらいたので攫ってきたとのこと。結構お喋りな下っ端さんが説明してくれた。
そんな話を聞いて普通の人なら嘲笑うか、それとも失笑して信じないのだが、俺は一週間前に実物のドラゴンを見ていたので信じるしかなかった。
あの首が長く、赤く染まったドラゴンは今でも鮮明に思い出せる。それほど自分には衝撃的な存在だったようだ。
一週間の間にいろんなことを下っ端さんに聞いた。この世界のことや捕らわれている自分たち立場、盗賊たちのことなど下っ端さんも俺の質問に対して首を傾げながらも懇切丁寧に教えてもらえたのだ。
どうやら下っ端さんの話を聞く限り、というかドラゴンを見た時点で気づくべきだったがこの世界は自分がいた世界とは違うようだ。今はまったくと言っていいほど実感が湧かないが魔物や魔法やらが存在するのだと。
それと俺のこの後の処遇に対してはまだ決めていないらしく、とりあえず奴隷として一緒に旅をさせてもらっている状態らしい。
こちらもあまり実感が湧かないがこの恰好からして納得せざるを得ない。この格好には不満はあるが、一応こちらが助けてもらった形で今も魔物から守られている身なので文句は言えない。
文句が言えないというか、下っ端さん以外の盗賊たちが怖くて何も言えないのだが……。
最初は今後どうなるのだろうかと不安だらけで取り乱していたけれど、下っ端さんのおかげでだいぶ冷静に物事を判断できるようになった。といっても今は奴隷の身で何もすることがないのだけれども。
まあ奴隷にもいろいろあるらしく働き盛りの若い奴隷は待遇がいいとか下っ端さんは言っていたし、それが嫌なら森を抜けた先にある村まで逃がしてくれるらしい。
その証拠に自分の手を拘束しているこの手錠は壊れているらしく簡単に外せてしまう。少女のほうも首に嵌められている首輪をどうにかすれば一緒に逃がしてもらえるらしい。……ここまでしてくれる下っ端さんが本当に盗賊なのか疑わしくなってくる。
あと疑問に思ったことはなぜ日本語が通じているのか、下っ端さんに質問してみだが難しい顔して首を傾げているだけだった。これに関しては本当に謎だ。
とりあえず馬車の中の同居人である少女は何も喋らないし、特に今の時点で何もすることがないのでその場で横たわり、のんきに昼寝をするのであった。