アリ男子とメガネ野郎
幼稚園に通っていた頃、夏になると母と妹の三人でよく市民プールへ出掛けた。
その日も日中たっぷりプールで遊び、いよいよ帰宅の途に着こうと駐車場へ向かっていると、突然妹がぐずり出した。
「んんっ。ママぁ、おしっこ」
母は随分妹にトイレに寄らなくて平気かと念を押していたにも関わらず、今になって尿意が誕生してしまったようだ。私はしっかり母の言うことを聞いてトイレに行ったのに、このタイミングで訴えるとは……
このおたんこなす! と叫びたいのを我慢して、母の顔色をうかがう。
すると母の眉尻が八の字に下がり、「もう、しょうがないわね」と呆れて呟くと私へと視線を合わせた。
「頼子、ここで大人しく待ってなさい」
かなり厳しい口調で命令され、うんともすうとも言わず黙って頷くと、妹を連れてトイレへと行ってしまった。
一人取り残された私は見上げると真っ青な空が広がり、白くもくもくとした入道雲が浮かんでいる。太陽は私を容赦なく照りつけ、地面からはアスファルトの熱で日焼けした足を問答無用に苛め抜く。風は南から温い空気を運び、地表にはめらめらと陽炎が立ち、耳障りなアブラゼミの合唱が途切れることなく続く。
もう暑くて思考回路がショートしそうなうえ、今まで塩素に浸かっていた下半身は重だるく何がなんだかわからなくなってくる。一人でぼっと突っ立っていると、永遠に母と妹が戻らないのではと不安になってしまう。
不安を拡大化させぬために何となく足元に目をやった。日焼けした素足の先に一本の黒い筋が見える。その黒筋はもそもそとみな同じ方向へ往来しているアリの行列だった。
こんなにはっきりしたアリの行列を見たのは初めてのことで、すぐに私の好奇心は点火する。アリたちは停車用の白いラインをまたぎ、石ころを避けて遠回りする。子供の私でも難なくやり過ごせる簡単なことも、アリたちには重労働に違いなかった。
やがて、一向はお目当ての獲物にありつく。ソーダのような甘ったるい匂いのする水たまりをアリたちは囲っている。その水源は今もなおぽたぽたと垂れている。
水源の先にはすらりとした真っ黒に日焼けした足、黒っぽいショートパンツ、ブルーのタンクトップを身に着けた男の子が、半分溶けかけた涼しげなブルーのアイスキャンディを持って立っていた。
「あっ」
どちらともなく声を上げ、向こうも私のことをじっと見つめている。
足と同じく日焼けした顔に、キリリとした眉、黒曜石な瞳、形の整った鼻、自己主張している唇と、なかなか凛々しい顔つきをしていた。
だけど、私は何と声を掛けたらよいかわからずに立ちつくしていると、向こうは「なに?」とひと言発した。
私は尽かさずアリの行列を黙って指すと、男の子はふうんと鼻を鳴らし残り少ないアイスキャンディを口に入れ顔を歪めた。
そのまま、しゃがみこんでアリの観察を続けることにした。アリたちは頭をアイス水に近付けて吸取ると、また行列の一部に加わっていく。甲斐甲斐しく働くアリたちに見入っていると、いつの間にやら男の子も私と同じようにしゃがみ込み、膝小僧を付き合せて即席観察会を始めた。
しばらくして私はアリよりも男の子が気になってしまう。額から滲み出る汗は短く刈られたもみ上げへと伝い頬をすっと通り抜け、顎先へとしたたり落ちる。目は真っ直ぐアリを凝視し、意思の強そうな輝きを放ちながらも、人を寄せつけない冷たさもあり寂しさを覚えてしまった。
突然、男の子はすくっと立ち上がり周囲を見渡し、私にアイスの棒を押しつけた。
「それ、やる」
言葉少なに言って、駆け出して行く。
「あ、待って!」
男の子にお礼を言おうと立ち上がった瞬間、目がちかちかして見ていた風景がぐにゃりと曲がる。そして足下から崩れ、私の意識は翼を生やして飛んで行ってしまった。
目を開いたらプールの底にいた。水中では息継ぎをしないと酸欠になってしまうのに、地上と同じように呼吸が楽だ。ただほんのちょっと息をもらすと、ぶくぶく泡が出る。
まるで生まれる前に戻り、お母さんのお腹の中で羊水にでも浸っているみたいに心地いい。ふわふわしている頭で周囲を見渡すと、妹がお母さんにソフトクリームをねだっている姿が見えた。二人のところに行きたいが透明な薄い幕が張り巡らされていて、どう行ったらいいいかさっぱり見当がつかない。
せめて声をかけたいが、水の中ではぶくぶくと気泡が出るだけで二人の耳には届かないのがオチだろう。
あ、そう言えば私お母さんに大人しく待っているように言われていたんだっけ。
そっか。きちんとお母さんの言い付けを守らなかったから、こんな仕打ちを受けているんだ。
とその時、景色がぐるぐる回転し始め、水の薄いブルーを撒き散らし、緑、赤、白、黒、そして青に近い水色が集まり出す。各色それぞれの物体に溶け込み、私は市民プールの駐車場に立っていた。
目の前には夏制服姿の瀬端晋司君がいた。瀬端君はクラスメイトで、野球部に所属している男子だ。
彼の登場に疑問を抱きながらしゃがみ込むと、瀬端君も私に倣ってしゃがみ込む。いつの間にか私は五歳児ではなく、十六歳になっていた。私と瀬端君は膝小僧を付き合せて、あの夏の日のようにアリの観察会を始める。
アリは山盛りの砂糖に群がり一匹ずつ礼儀正しく順番に巣穴へ運んで行く。中にはそそっかしい者もいて、運んでいるアリとこれから砂糖を取りに行くアリとぶつかりそうになり慌てて足を止める。私も時々、友達とのメールのやり取りに夢中になって廊下でぶつかりそうになり、肝を冷やすことがある。アリたちもやはりぶつかりそうになると、肝を冷やすのだろうか。思わず頬を緩めると、「どうかした?」とクールな瀬端君の声がした。私はそのままの姿勢でにっこりして首を横に振ると、静寂が流れた。
しかし、このアリの行列は一体どこからやって来ているのだろう。
行列を目で辿って行くと、瀬端君のスニーカーから上がったり下ったりしている。さらに視線を上に移すと、頬にできたニキビの先が黒く変色していた。その黒く変色された部分はにょきっとアリの頭が出てくる。やがて瀬端君の顔は黒ニキビに覆い尽くされ、皮膚を破ってアリが現われる。
そのおぞましい光景に思わず絶句してしまい吐き気すら覚え、目を逸らしてしまった。
「顔色悪いよ。どうかしたの?」
様子のおかしい私に気付き、気にして声をかけてくれたのはありがたい。でも、相変わらず口は重く上手く言葉を発することができない。
もたもたしている私に再度「大丈夫?」と催促するように尋ねてきた。しかも顔を覗き込むようにして。つい私は彼の顔を見てしまった。
すると、アリたちは瀬端君の顔全面を覆い尽くし、彼自身の皮膚はなくなり黒くてかてかしている。かろうじて目だけは瀬端君のままで、白目だけがギロリとしており、却って吐き気が強くなってしまう。
「あ、ありがとう」
ようやく出た私の声は弱々しく瀬端君の目は心配の度合いを増している。
「本当に?」
肩に手を置かれ気がそちらへ向き、彼の手の変貌ぶりに驚いた。なんとアリたちは指先までも覆い尽くし瀬端君の体全体を乗っ取っているではないか。
その気色悪さに私は、「ぎゃあ!」と大きな悲鳴を上げてしまった。
悲鳴を上げた瞬間、目覚し時計が鳴る。悲鳴と目覚ましどちらが早かったのかわからないくらい同じタイミングだった。けたたましく鳴り響く時計を慌てて止め、ハンガーに吊るしてある夏の制服に袖を通した。夏服に袖を通して二ヶ月近いというのにどこかふわふわしていて心許ない。その心許なさはまるで恋をしているみたいだ。好きな人に自分のことを知ってもらいたくて一方的に話し過ぎてしまって、しまったという感じによく似ている。
スクールバッグを持って下へ降り、洗面所で顔を洗う。洗面所には中学生の妹亜美の姿はなく安堵する。念入りに洗顔し化粧水と乳液をつけてから食卓につくと、父の姿はなく最近めっきり色気づいてきた妹がトーストをかじっている最中だった。
「おはよう、頼子」
朝の挨拶とともに母がオムレツを乗せたプレートを持って現われ、私はもそもそとおはようと返した。
「頼子のところも、今日で学校終わりよね?」
「うん。でも、ちょっと、帰り遅くなるかも……」
学校は半日で終わる。だけど、そのあと所用があり、真っ直ぐ家には帰れないかもしれない。
「真帆ちゃんと一緒?」
母は犯人を追う刑事のごとく眉をひそめる。
「まあ、そんなところ」
これ以上、口を開くと自分で自分を追い詰めてしまいそうなので、適当にお茶を濁しておく。そんな時に限り妹がトーストをかじるのを止めて、疑惑の目で私を見た。
「お姉ちゃん、彼氏とデートでしょ?」
「違います。真帆とお買い物です」
むっつりした声で言い返すとまだ妹は納得していない表情をする。
「ふうん。高校生のくせに彼氏いないんだ。かわいそう」
かわいそうな姉から視線を逸らし、グリーン・スムージーを飲み干す。
最近、妹は彼氏ができたらしく、学校に色付きリップを塗り、コロンをつけて行っている。
昔から妹は何かにつけ男の人から声をかけられることが多く、私とは月とすっぽんだ。妹はぱっちりした目鼻立ちで睫毛も長くくるんときれいにカールしている。それに比べ私はというと不恰好で重たそうな奥二重、睫毛は堅く閉じられた桜の蕾みたいに短い。私たちは姉妹だと言うと、驚かれるほど似ても似つかない。
「でも、真帆ちゃんと一緒ならお母さん安心だわ。亜美も来年受験なんだから、ちょっとはお姉ちゃんを見習って勉強しなさい」
「はぁーい」
間延びした妹の返事を最後に、私も落ちついて朝食をいただく。
母に真帆の名前は絶大だ。というのは中ニの夏休みに真帆はやる気のない私を引っ張るようにして学習塾へ通い、県内有数の進学高校へ一緒に合格できたからだ。
だから真帆は私にとっても恩人であり、安心できるお守りみたいな存在で、違うクラスでも仲良くしてもらっている大切な友達だ。
その真帆は放課後学習塾で知り合った彼氏と映画デートで、向こうも私をアリバイ工作に使っている。
朝食を食べ終えた私は自転車に乗り、学校へと向かう。学校へは自転車で十分ほどで到着する。家を出て住宅街を抜けると、田んぼが見えてくる。田んぼ以外何もないただ広いところで、遠くに鉄筋コンクリート四階の建物がよく見える。
自転車を走らせていると私の前髪を風が揺らす。と同時にさわさわと稲の海が揺れる。目の前で自転車を漕いでいる男の子の白いシャツがヨットのマストみたいに膨らんでいる。
いつもの朝の風景。大好きな夏――
あの日、アリの観察をしていた私は具合が悪くなって倒れてしまった。次に気付いたら市民プールの救護室のベッドの上で、心配そうな母の顔と眠そうにしている妹の姿があった。
母の話しによるとトイレから戻ると私の姿がなく、変わり二メートルぐらい先に人垣が出来ていたそうだ。母親の勘が働いたのかその人垣に不吉な予感がしたのだろう。妹の手を引っ張って向かうと、「松岡頼子ちゃんのお父さんかお母さんはいらっしゃいませんか」と男性の声がした。
そして、母は名乗りを上げ、私は救護室に担ぎ込まれたというわけだ。
帰りの車中で母に持ち場を離れたことで散々文句を言われ続けたが、私はぼうっとして聞き流していた。何故か手には男の子がくれたアイスの棒をしっかりと握られていたことが不思議でしょうがなかった。こんなアイスの棒切れなんて何の役にも立たないなと思いながら、見つめていると『アタリ! もう一本』と書いてあった。
当時のアタリ棒を今でも大切に持っている。いつどこで再会してもいいように肌身離さず持ち歩いている。ただ、「ありがとう」を言うために……
毎年、夏になると決まってあの日のことを思い出し、夢となって現われる。
しかし、今朝初めて夢の中で具体的に男の子が登場した。同じクラスの瀬端晋司君だ。日焼けした肌の感じといい、頭の形や顔立ちといい、あの男の子にこれ以上ないくらいにそっくりなのだ。
四月。同じクラスになって瀬端君を見たとき、ビビッときた。小耳に挟んだ噂によると、家が市民プールの近くにあり、子供の頃夏になるとよく通っていたらしい。
これはもう100パーセント間違いないだろう。あとは真実を確かめるため本人に勇気を持ってさりげなく聞くだけだ。
その決行日は今日の放課後!
勇気を伴う行動を取らなけばならない時ほど、時間の経過は早い。終業式、通知表、ホームルームと瞬く間に過ぎ去ってしまう。
振り返って瀬端君の様子を見ると、同じ野球部の人と雑談しながら帰る支度をしていた。今にもふらっと席を立って教室を出て行ってしまいそうで少し焦る。急いで接触する口実を考えるもいいアイディアが浮かばず頭が真っ白になってしまう。まるで酸欠している金魚みたいに頭の中が息苦しい。
もたもたしている私に天の助けが差し伸ばされ、「じゃあ、先に行ってるわ」と彼の机にいた男子が教室を出て行った。
千載一遇のチャンス。運よく瀬端君の前後左右に誰も人はいない。
私は鈍い音を立てて席を立つと、瀬端君の元へ向かった。狭い教室はすぐに目的地に着いてしまう。私は小さく呼吸を整えてから切り出した。
「せ、瀬端君。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
いきなり噛んでしまった私を瀬端君はギロリと睨む。その鋭い視線はクラス一影の薄い女子が何用なんだろうとでも警戒しているみたいだ。
「何の用?」
返ってきた言葉は冷たく、部活があるから忙しいとでも言わんばかりだ。だけど、私は怯むことなく続ける。
「あのね、子供の頃ってよく市民プールに行ってた?」
「うん、行ってたけど……。それがどうした?」
長年大切にしてきたアイス棒を切り札として彼の前に差し出す。
「これ、別れ際にくれたよね? ずっと、お礼が言いたかったの。ありがとうって」
ずっと言えずにいたお礼がやっと言えた。たちまち胸が安堵感でいっぱいになり、体全体がひしひしと幸福感で満たされていく。
しかし、肝心の瀬端君は腑に落ちない表情をしていた。
「つかなんっすか、これ? 話が全然見えないんですけどぉ――」
「えっ? だって、一緒にアリの行列を見たよね? 瀬端君、ソーダのアイス食べてたじゃない?」
思わず私は机に身を乗り出して話をすると、瀬端君は跳ね返すようにして立ち上がった。
見下ろしていた私の視線は見上げるようになり、意外に瀬端君の胸は広いんだなと感心してしまった。
「まあ、プールでアイスぐらい食ったことはあるよ。でも、松岡とアリの行列なんて見ていない。お前の勘違いだろ」
そう言い残して私から逃げるようにして、教室を出て行ってしまった。
私の勘違い。他のことを忘れてでも、男の子の顔立ちだけは忘れないよう心に刻んでいたはずなのに。
瀬端君でないとしたら、私にアタリ棒をくれた男の子は一体誰なんだろう。
置き去りにされたアイス棒をポケットにしまい、スクールバッグを持って教室を出た。
自分の見立てでは絶対に間違いないと思っていたのに、土壇場になって否定されてしまった。今の気持ちを表すならば、失意のどん底に突き落とされたってとこだろうか。
双六をしていてみんなはとっくに上がっているのに、自分だけ出目が揃わず、ずっとサイコロを振り続けているような感覚。永遠に上がれないもどかしさを覚えてならない。
あとで裏工作をしてくれた真帆にメールをしなくちゃな、と考えながら下駄箱に向かう。つい昨日まで、「もしビンゴだったら、頼子の彼氏になったりして」なんて明るく冗談を言ってくれたのに。
何も知らずに瀬端君を見て、胸をときめかせていた頃に戻りたい。
――ふうっ。
大きなため息がもれ、心は失恋したみたいに悲しい。下駄箱に向かう足取りはまる一日プールで遊んだ時みたいに重だるい。
しかし、重だるくても足は前へと進む。生きているのだから時間は経過していく。今のこの気持ちは次第に思い出になっていくはず。だけど、アリの行列を見たことやアタリ棒をくれたことは思い出にしたくない。
瀬端君ではなかったけれど、一生かかってでも捜し出して「ありがとう」を言わなければ私の気がすまない。
また一からやり直せばいいこととはわかっているけど、それは困難な作業であることには変わりない。いっそうのことタイムマシーンか時間を巻き戻せる機械があれば便利なのに。
下駄箱に到着して革靴に履きかえると、どこかで話し声がぼそぼそ聞こえてくる。低めの男子の声は真剣そのもので重大な機密事項か、さもなければ告白でもしているみたいだ。
「はあ? あんた、バカ?」
対する甲高い声は女子で、言葉尻に呆れが含まれていた。
「だってあの日、市民プールにいただろう?」
女子につられたのか男子の声も高くなり、「うそぉ――。信じられん」とでも言っているようだ。
「そりゃあ、市民プールぐらいは行ったことはあるわよ。でも、あんたには会ったことないし、人違いじゃないの」
二人の会話に出てくる『市民プール』という単語に耳が釘付けになってしまう。もしかして、この話している男子こそがアリ男なのではないだろうか。
「でも、アリの行列見ただろう?」
「だから、人違いだってば! しつこいんだよ、メガネ野郎!」
女子の怒鳴り声とともに、ばたんと乱暴に下駄箱を閉める音がした。そして、すぐにタッタッと靴の音がし、そっと覗いてみると長い茶色の髪を揺らして遠ざかって行く女子の姿が見えた。
男子はたった今『アリの行列』と言った。そして、その前には『市民プール』とも。この二つのキーワードに『アイスのアタリ棒』が加われば完璧なのに。
そっととなり側の下駄箱を覗いてみると、うなだれた男子が佇んでいた。
ところがその体つきは柳のように頼りなく華奢だった。腕や首筋も陶磁器のように白く、黒いセルのメガネをかけていた。
――なんか違う。
アタリ棒をくれた男の子は真っ黒に日焼けして健康優良児そのものだった。
でも……
ごくりと咽喉が震える。今ここで思いきって勇気を出さなければ、ずっと「ありがとう」を言えないままだ。そして、一生後悔してしまうかもしれない。
一つ深呼吸してから、アイスのアタリ棒をぎゅっと握りしめる。一歩一歩ゆっくりとにじり寄ると、うなだれていた頭が上がった。
「あのう、これ」
怖々とアタリ棒を差し出すと、彼の顔色が喜色ばんでいくのがわかる。
「あ、ありがとう」
やっとお礼が言えた。ずっと心にもやもやとした黒い霧が一気に晴れあがっていく気分。
だけど、彼は不機嫌そうな顔をして黙っていた。せっかく晴れあがったというのにもくもくとした灰色の雲が青い空を覆い隠していく。
「私の勘違いだったらごめんなさい。さっき、女の子と市民プールでアリの行列を見たと言ってましたよね? アリたちはあなたが食べていたアイス、えっとソーダの、に集っていました」
間違いだったらどうしようと思う半面、もしそうだったらという気持ちがぶつかり合い、きちんとした日本語を喋れない。そのぐらい私はテンパっている。
「そして、それはあなたが去り際にくれたアイスのアタリ棒です」
もうほとんど彼を見ずして話していた。瀬端君の勘違いが私を臆病にさせている。同じクラスでも恥ずかしいのに、ましてや違うクラス。私の知らぬところで尾ひれがついて風評されても困ってしまう。
私の意に反して彼はアイス棒を抜き取ると、「懐かしいなぁ」と呟いた。
「まだ持っていてくれたんだ。じつはあの日、兄貴が俺にアイスを買ってくれたんだけど、歯が痛くて食えなかったんだよ」
そう言いながら棒を鼻先へ押し付けると、「うわぁ~。微かにソーダの匂いがする」と感激した声が飛ぶ。
「でも、この棒もう無効だな」
彼の発言に思わず「へぇ?」と間抜けそのものの声で聞き返す。
「だって、びっくりソーダなんてもう売ってないだろう?」
「えっ? びっくりソーダだったの。私はてっきりガリットクンかと思ってた」
私の拍子抜けした声に、彼がふっと笑う。ああ、本日二度目の勘違い。まさかびっくりソーダだったとは。ガリットクンだろうと思っていたから、後生大事にしてきたのに。アタリを無効にしてしまい、彼に申し訳なくなってしまう。
「そうだよな。今はガリットクンの方がメジャーだけど、昔はびっくりソーダの方がメジャーだったんだぜ。よく食ってたよな~」
彼は遠い目をしてノスタルジーに浸る。その横顔が私の胸を捕らえて離さない。それにこのもみ上げの感じ、やっぱりタンクトップの男の子によく似ている。好みのタイプには程遠いけど、意外とこの人いいかもしれない。
「お、そうだ! 今からアイス食べに行かない?」
「うん。ついでにアリの観察もしたいな」
普段なら媚びを売るような態度を取らないけど、この人の前なら許せるような気がした。
「いいねえ。ところで僕の名前は金沢康平。君は?」
「松岡頼子……」
話の合った私たちは学校から道路を挟んだ向かいにある駄菓子屋さんへ歩き出す。
隣りを歩く金沢君の肩を見つめながら、独りでに頬が緩んでいくのを感じた。
あの夏の日、不機嫌で無口な少年がこんなメガネ野郎に成長しているなんて。
おかしくって仕方がない。
今年の夏は、とても楽しくなりそうです。
(了)
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今回は高校生頼子が大切にしてきた感謝の気持ちを貫き通して、ハッピーエンドを迎えました。
ここを読んでいらっしゃるということは大丈夫だとは思いますが、表現に一部気持ち悪い箇所がございました。もし読んでしまって不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、申し訳ございませんでした。慎んでお詫び申し上げます。
このお話を書こうと思ったきっかけは、道を歩いていてふと幼い頃の光景が思い浮かんだからです。
当時、自動販売機の脇に設置されていたゴミ箱はプラスチックのボックス型ではなく、スチールのカゴ型でした。確か頼子と同じようにプール(市営だったかは不明)へ行った帰り、ゴミ箱からおよそ二センチのアリがわんさか出てきました。
生まれてこの方、そんな大きいアリを見たことがなく、びびりながらも目は釘付けになりました。さらに噛まれたら痛そうだな、と。
その時の光景をベースに、「ありがとう」という気持ちを伝え損ねてしまったことと、ほんのり淡い恋心を合わせて描いてみようと思い立ちました。
さらに先日、ブログを書いている時に気付いたのですが、拙作は春始まりの話ばかり。たまには夏をベースに書いてみたくなったのです。
夏の風物詩の一部であるプール、アイスを盛りこんで。
ちなみに頼子と康平が仲良く見たアリは、ごく一般的な黒アリです。
一時期よりは朝晩とだいぶしのぎやすくなってまいりましたが、まだまだ日中は三十度を越える日もございますので、皆様お体をご自愛下さいませ。
2013.8.31
初稿:2013.8.24
秋沢文穂拝