第5話 4月11日 (月) 午後 後輩パートその2
「え、……だめよ! もっと自分を大切にしないと!」
私が図書文芸部に入ると言ったら、しのぶ先輩はそう言った。
「ちょっと、それどーいう意味?」
部長さんがちょっと感情を害したように口をはさむ。
「だって、だって、中等部の頃に、ほんの出来心で書いたポエムを後々まで保存されて『この身悶えするほど恥ずかしいポエムを公表されたくなかったら新入生を勧誘してきなァ!! げヘヘヘヘッ』とか言われてしまうような部活よ! それでもいいの!?」
「『げへへ』とは言っていないわ。せめて『うヘヘ』くらいの擬音で勘弁してくれないかしら」
「意味が分かりません!」
「微妙な乙女心ってやつよ。まあそれはいいとして『恥ずかしいポエムを公開されたくなかったら』なんていうふうに言われてしまうのは、しのぶちゃんの恥ずかしさの感覚に問題があるからそうなるのよ」
「問題ってなんですか!」
「つまりね、創作活動というものは、何であれそれぞれ微妙に恥ずかしいもの、とも言えるけれど、本当に恥ずかしいっていうのは、どういうことかっていうことをよく考えれば、そういう創作活動に関する恥ずかしさからは脱却できるわ」
「……というと?」
「つまりね、本当に恥ずかしいっていうのは、どういうことかっていうと、それは、ゲームショップでゲームソフトを見てたら、それがどうしても欲しくなって万引きしちゃったとか、クラスで誰かいじめられてる子がいて、そのいじめに加わるように言われて断る勇気がなくて、仕方ないから一緒になっていじめてたら、とうとうその子が自殺しちゃったとか、そういう道徳的な罪を犯してしまうことなのよ。それも取り返しのつかないタイプのものは特にね。しのぶちゃんも、もし自分がそういうことをしてしまったとしたら恥ずかしく感じるでしょう? 難しく言えば慙愧の念ってやつね」
「……まあ、そうですね」
「だから、そういう他人を傷つけるような罪でさえなければ、例えば、放課後の教室で、誰もいないのをいいことに、一生懸命、鼻に指を、それもひとさし指を突っ込んで鼻糞をほじっているその瞬間にガラッと教室の扉が開いて誰かが入ってきて、その光景を目撃されてしまったとか、あるいは下痢をどうしても我慢できなくなって公衆の面前でウンコを漏らしてしまったとか、恥ずかしく思えるような出来事のパターンは色々あるけど、そんなのは別に誰かを傷つけたり、他人の権利を侵害したりしたわけじゃないの。だから本質的には罪じゃないし、したがってそれは本当に恥ずかしいことではないのよ。
それと同じで、中二臭溢れるポエムだって、別に誰かを傷つけるわけではないわ。だからそういうものは、多少恥ずかしくは思えたとしても、本当のところは全然恥ずかしくはないものなの。だからそういうふうに恥に関する考え方を正しく変えることができれば、わたしの脅迫に屈しなくともよくなるのよ」
「……じゃあ、じゃあですよ。部長は人前でウンコができるんですね?」
「いやまあ、わたしは絶対にイヤだけど」
「今の話、意味なかったーっ!?」
……なんなんだろうか、この部活は。
『文芸部』ってもっとこう、小説とかで読んだ感じでは、優雅に紅茶でも飲みながら、小説について語り合うとか、そんなかんじだったのに、ちょっとイメージが違いすぎる。
いやでも前に読んだ『蒲団』とかいう題の小説で、なんかオジサンが女の人のふとんの匂いをクンクン嗅ぐとかいうようなのがあった。読んだときは結構ショックだったけど、それでも有名な小説らしいから、だから文芸部だったら、そういう汚い話もちょっとはしなきゃならないんだろうか。全然関係ないかもしれないけれど。
でもしのぶ先輩はちょっとイメージが崩れるからあんまりそういう話はしないでほしいなと思った。
「あの、入部届けをください」
しのぶ先輩と部長さんの話が、終わらないので声をかける。
「うーん、入ってくれるっていうのは嬉しいんだけど、まだ今日の午後に部活のオリエンテーションがあったばかりでしょ? まだもうちょっと色々な部活を見学してからでもいいんじゃない?」
部長さんがそう言ってくれたけど、
「いいんです。私、本好きだしここに入ります」
私がさらに言うと、部長さんはそこまで言うならといって入部届けの用紙をくれた。
もちろん、本が好きというのはほんとのことだけど、それだけじゃなくて、しのぶ先輩と一緒にいたいし、先輩の役に立ちたいというのが一番の理由で、でもいきなりそんなことを言うと先輩に引かれてしまうかもしれないから、それは黙っていた。
それからしばらく、しのぶ先輩と、部長さんとで本の話をしていたら、図書文芸部の部員の人達が何人かやってきて、しのぶ先輩が部員の皆さんに私のことを紹介してくれた。そのなかには朝に電車の中であった西島由貴さんもいた。
それから、図書室に置いてあるパソコンで『小説家になろっかなー』という名前の小説投稿サイトにアクセスして、そこのアカウントを作った。
なんでも、この図書文芸部の部員は、みんなそこのサイトのアカウントを持つことになっているらしい。そこで皆それぞれ小説を書いて発表するみたいだった。
しのぶ先輩は私を『お気に入りユーザー』というのに登録してくれて、私も先輩を『お気に入りユーザー』に登録した。
先輩のユーザー画面には小説が幾つかあって、ちょっとクリックしてみようとしたら、すごい勢いで止められた。
「おおお、お願いだからわたしのいないところで読んで!」
と言われてしまった。
それで、ちょっと残念だったけどプラウザを閉じて、そのあとは、しのぶ先輩お手製のクッキーを食べながら、本の話をした。
何の本が一番好きかという話になって、私は、氷室冴子さんの『なんて素敵にジャパネスク』がいちばん好きだと答えた。けっこう長い話だけど、何度読んでも読みだしたら最後まで止まれないし、山場がふたつあって、読むたびにその山場ごとに、二度泣いてしまう。
しのぶ先輩は北杜夫というひとが書いた『どくとるマンボウ航海記』という本が一番好きなんだそうで、ぜひ読んでみようと思った。あと短編ではマンスフィールドという作家さんの短編が好きらしい。両方とも読んだことがないので、また今度読んでみようと思った。
そうすると、その話を横で聞いていた部長さんが、森見登実彦さんという作家がいかにすばらしいかという話を興奮しながら始めて、その話を1時間くらい聞いていた。なんでも『四畳半神話体系』とかいう本がその作者の最高傑作らしい。部長さんはなんでも、大日本乙女會とかいう森見登実彦さんのファンクラブみたいなものの桜ヶ丘高校支部を勝手にやっているらしい。その会に入らないかって私も勧誘された。黒髪の乙女であれば入れるらしい。なんだかよく分からないけど。
それで、部長さんの話を聞いているうちに、暗くなってきて、しのぶ先輩が、もうそろそろ帰りますと言った。
しのぶ先輩が帰るので、私もいっしょに図書室を出ようとすると
「あ、ちょっと待ちなさいよ。まだ森見登実彦大先生の魅力を語りきってはいないわ」
と部長さんが言っていたけれど、しのぶ先輩が、
「でも、晩の買い物しなきゃいけないんで……」
と言うと、すると部長さんは、そう、それじゃあ仕方ないわね、ちょっと待ってて、と言って書棚の影に消えて、それから片手に一冊文庫本を持って現れた。それからカウンターの方に行って、何かのカードらしきものにボールペンで何かを書きこんでいた。
それから、本に挟まってた貸出カードらしきものにも何かを書き込んで、抜き取り、それからその本とカウンターの方で書いていたカードを私に渡してくれた。
渡してくれたカードを見ると、それは私用の図書の貸出カードだった。本のほうは『四畳半神話体系』というタイトルの本で、さっき部長さんが話していた作家さんの本だった。
「森見登実彦先生の本をユキちゃんに布教活動するわ」
部長さんはにっこりしてそう言った。
◆
部長さんが渡してくれた本とカードを通学鞄にしまって、階段から1階のエントランスに降りると、まだ雨が降っていた。
「ユキちゃんは、今日の朝わたしと同じ電車に乗ってたってことは、わたしと電車の方向は同じってことよね?」
「はい」
「じゃあ、まだ雨が降ってるし、家まで送るわ」
しのぶ先輩は、私が傘を持っていないことに気付くと、そう言ってくれた。
先輩のモスグリーンの色をした大きめの傘に入れてもらって駅まで行った。駅に着いたら、先輩は、私の制服についた水滴をハンカチで拭いてくれた。私もあわててハンカチを取り出しておんなじように先輩の制服を拭いた。
電車を待つあいだ、先輩が私に、どこの駅で降りるのか聞いてきたので答えたら、なんと先輩の降りる駅と同じだった。
でも、私が学校に登校したのが今日で入学以来3回目なのに、朝の電車で先輩を見たのは今日が初めてなんですけど、と聞いたら、先輩は、いつもは一本早い電車に乗るので、今日はたまたま電車を遅らせたせいで会えたんだろうと言っていた。
帰りの電車はけっこう空いていて、ふたり並んで座ると、先輩が通学鞄の中から水筒を取り出して、熱いほうじ茶を注いでくれた。それからまた鞄の中を漁ると、今度はキャラメルと酢昆布を取り出して、それもくれた。
雨で少し体が冷えていたから、熱いほうじ茶はとてもおいしかったし、酢昆布のすっぱいのもほうじ茶と合っていて、そのあとにキャラメルを舐めるとこれも、甘くておいしかったけど、いったい先輩はいくつお菓子を持っているんだろうかと思う。先輩と一緒にいると四六時中食べている気がする。
熱いお茶を飲んで、体が暖かくなったせいか、甘いものを食べたせいか、ここのところあまり眠れなかったはずなのに、今度はひどい眠気が襲ってきた。
先輩ともっとしゃべらなきゃと思って必死で起きていようとしたけれど、どうしても頭がぐらぐらして、まぶたが下がってきた。
「駅に着いたら起こしてあげるから寝ちゃったらいいよ」
と言ってくれたけれど、まだ先輩としゃべりたいのでふにゃふにゃ言っていたら、
「もう、無理しないの」
先輩はそう言って、私を引き寄せてもたれさせてくれた。私の頭が先輩の肩の上にのると、もうどうにも我慢できずに、あっというまに眠ってしまった。