第1話 4月11日 (月) 午前 後輩パート
「じゃあ、行ってくるぞ」
父が、そう声をかけてくるのに、私はむっつりして返事もしなかった。
怒られるかなと思ったから、なるべく憂鬱そうな顔を作って下を向いていた。
父はちょっと黙って、それから椅子の背に掛けてあったスーツを着ると、会社へ出かけていった。私は、悲しいようなほっとしたような気持ちになる。憂鬱そうな顔をしていたから頭痛がしてきた。
ここ最近あんまり眠れないからだと思う。
学校を休もうかと思うけれど、父はもう会社に出かけてしまったし、大体、学校に電話してほしいなんて頼みたくない。自分で電話をするわけにもいかない。
だんだん重くなってきた胃に、美味しくもない朝食の残りを急いで詰め込むと、食器を洗って部屋に戻る。胃が痛い。吐き気がする。
部屋のクローゼットの中から、中学校の制服を取り出して着込む。
新しい制服。
クローゼットの扉を閉めて、扉の表についている姿見に映してみると、みじめったらしい顔をした、ちびの女の子が映った。
灰色と白の色だけでできた、地味で上品な制服で、相変わらず制服に着られているみたいに見える。
もちろん、この制服を着たのは今日が三回目だから、多少は仕方ないのだけれど。でも多分、原因は、制服が大きすぎるわりに、私が小さすぎるせいだと思う。私は中学生になったばかりだけれど、このあいだママの葬式で会った、小学四年生のいとこに身長で抜かれていた。いとこがとりたてて大きな子というわけじゃないのに。
溜息をつくと、姿見の中の恨みがましい顔をした女の子も溜息をつく。
リボンタイの位置をもう一度だけ確認してから、鞄を持って家を出た。
春先の朝の空気は、まだコート無しでは少し寒いけれど、そのきりきりと冷たい感覚をかみしめながら、地面を見つめて足を一歩づつ前に出して歩く。
駅のホームに着くと、椅子が埋まっていたから、ホームの端に立つ。
ふと人の気配を感じてちらりと後ろを向くと、スーツ姿のサラリーマンみたいな男の人がすぐ後ろに立っていた。タバコのにおいがした。すごく近い。
どうも電車とか駅のホームとかそういう場所は、人の距離感みたいなものが、普通と違っていて戸惑う。
電車が来て、降りる人が降りた後、皆でいっせいに乗り込む。
目の前の空いた席に座ろうとした瞬間、私のすぐ横にいておんなじ席に座ろうとしていたおばちゃんと目が合ってしまう。
私は体が止まってしまって、席は取られてしまった。
こっそり溜息を吐いて、ふとタバコのにおいがした。
さっき私の後ろにいたサラリーマンがすぐ横に立っていた。
やっぱり近い。嫌な感じがしたから、さりげなく移動して別の車両へ向かう。朝から今日一日にものすごくけちがついたような気がする。
吐き気がしてきた。
また溜息をついて電車の窓から外を見ると、知らない町の景色が過ぎていく。
周りを見回すと、目の前のおばちゃんたちは、疲れたように目を瞑っている。左隣のおじさんは新聞を読んでいて、右後ろのお兄さんはヘッドホンからカシャカシャと音をたてて窓の外を眺めている。左前のお姉さんは小説を読んでいる。学生服を着た人たちもたくさんいて、思い思いに友達と話をしている。
また吐き気を感じた。
なぜだろうと思うとタバコのにおいがした。
あのサラリーマンの男がすぐ後ろにいた。首すじに息がかかる。
髪の毛が逆立って、胸が痛くなる。周りを見回しても誰も知り合いはいない。いるわけがない。
すこしずつ体を前に寄せて逃げながら、急に子供のころ迷子になったときのことを思い出した。私がどんなに心細くて泣きそうになっていても、周りの人たちはそれぞれ自分の世界があって、それに気づきもしない。結局、ママが見つけてくれるまでだれも助けてくれなかった。
私はもうデパートの中で迷子になったりするような子供じゃないと思っていたけれど、今だって、泣きそうになることしかできない。結局のところ何も変わっていなかったわけだ。タバコがにおう。吐き気がする。どうせ吐くなら吐きかけてやろうか。
「お、ハナコちゃん、こっちこっち」
女の人の声がして、ハナコって誰? と思う間もなく腕がぐいっと引っ張られていた。
目を上げると私と同じ様な制服を着た女の人がいた。私の手をとったままぐんぐん歩いて、ふたつ車両を移動する。
次の車両の入り口のところに、この女の人と同じ制服の女の人たちが三人固まっていた。そのうちの一人が
「おはよー、で誰、その子」
と私の手を引いている女の人に声をかける。
「あのスーツ男に狙われてた子、多分、中等部の新入生……よね?」
女の人は私の顔を覗き込んで言う。
「うわー入学早々かわいそ~」
声をかけてきた人が言った。
私の手を握ったままの女の人は、私の方へ腰をかがめて言った。
「あの、スーツの男の人ね、女子学生に接近するのが好きな人で、触ったりはしないけど多分、痴漢予備軍の人。ここら辺ではわりと有名なんだよね。危ないから私達と一緒にいたほうがいいよ」
私が、その人がポンポン話すそのペースについていけなくて、ぼおっとしていたら、
「あ、チョコレート食べる?」
と言って彼女は自分の鞄の中をごそごそ漁り、手のひらいっぱいにチョコレートを乗せてくれた。
ああ、助けてくれたんだなと思って安心したら、チョコレートの銀紙がにじんで涙がこぼれた。あとからあとからどんどん流れて、自分でもびっくりするほど流れて止まらなかった。
「え、ちょっ、ちょっとタンマ」
彼女はハンカチを取り出して涙を拭いてくれた。
他の(たぶん)先輩方は、
「泣ーかした、泣ーかした、せーんせにいってやろー」
「ていうか泣かんでも」
「でも泣いてる姿も萌え」
とか囃したてていた。
別に痴漢が怖かったせいだけで泣いてるんじゃない。と言い訳したかったけれど、もちろんそんなことを説明できるわけもない。
チョコレートで手がふさがっていたので、されるがままになっていて、今度は先輩がティッシュを取り出して、私の鼻を押さえた。
このままだと『はい、チーンてして』とか言われそうだったので、慌ててチョコレートをポケットに突っ込んで、自分で鼻をかんだ。
電車が着くまでの間に名前を教えてもらった。
私を助けてくれた先輩は楢崎しのぶという名前だそうだ。少し垂れた目が大きくて、とても可愛いらしい顔で、すこしぽっちゃりしていてその分とてもグラマーで、ものすごくおっぱいが巨大だった。若干色素の薄い茶色がかった髪の毛と真っ白いお肌で、とても優しそうな印象だった。もちろん優しいから、私を助けてくれたのだろうけれど。
他の先輩方は、
鈴木さん、ボブカットできりっとした顔の、背の高い人
西島さん、メガネでポニーテールでそばかすの人
遠藤さん、ショートヘアーでソフトボール部とかにいそうなさばさばした感じの人だった。
私は、人の名前を覚えるのが苦手で、多分、全員の名前を覚えるのは無理そうだから、他の先輩方の名前は忘れてしまうとしても、とりあえず、助けてくれた楢崎しのぶ先輩だけは絶対に覚えておこうと思った。といっても皆さん高等部先輩らしいし、そうそう顔を合わせることも無いだろうとも思うけど。
『桜ヶ丘~、桜ヶ丘~』
アナウンスが聞こえて、楢崎先輩が、ここ降りるわよ、と声をかけてくれた。もちろん降りる駅くらい分かっていたけどそれでも嬉しい。
しばらく歩くと立派な正門が見えてきて、門の前にいる先生に挨拶をして、楢崎先輩のあとにくっついていたら、先輩が分かれ道のところで、
「中等部はそっちよ」
と教えてくれた。
「じゃあまたね」
と言って先輩方が去っていく。
私は頭痛も吐き気もすっかり治まっていたのに気づいた。
◆
午前中はずっと新入生実力テストみたいなものがあった。
チャイムが鳴って昼休みになる。皆が鞄からお弁当を取り出し始めた。
そうか、ここじゃ給食はでないのだったと思い出したけれど、お弁当なんか持ってきていない。
確か食堂がどこかにあったはずで、入学説明会のときに貰った資料を取り出して、地図を片手に校内をさまよった。
食堂を見つけたときには、もういっぱい人が並んでいて、列の最後尾についたら自分の番が来たときには、ヤキソバパンとかコロッケパンみたいなご飯系のパンは全部売り切れていた。仕方ないから苺のジャムパンをひとつ買って、とぼとぼと教室に戻る。
教室に入ったら皆は机を合わせて、おしゃべりしながら弁当を食べていた。ああ、出遅れたなあと思う。そこで飲み物を買ってくるのを忘れたのに気がついて、また食堂まで行って自販機でお茶を買った。
何となく教室に戻るのが嫌で、どこか座れるようなところを探して校内を歩いていると、
「おーい、ユキちゃーん」
と名前を呼ばれた。何で私の名前を知っている人がいるんだろうか。きょろきょろと辺りを見回すと、大きな木の木陰の、人目から少し隠れたいい感じのベンチに、楢崎しのぶ先輩が座っていて、笑顔でぶんぶんと手を振っていた。
先輩の顔は、悪意とか警戒心とかそんなものが全く感じられない、善意に満ちた顔で、ただ私の顔を見て、嬉しそうに手を振ってくれていた。ああ、何か世の中捨てたもんじゃないなあと思った。一瞬、涙が出そうになった。
喜んで先輩のほうへ寄っていくと、先輩は隣をすすめてくれた。
先輩は、お弁当の包みを解いていく。結構……いや、かなりというかものすごく大きなお弁当だった。
面積が普通の重箱の半分くらいあって、それを三段重ねで、一番上の段に苺とメロンと何かロウ紙で包んだものが入っていた。二段目には、唐揚と揚げたポテトと野菜サラダとスパゲッティーがぎっちり詰まっていて、下の段にはチラシ寿司が入っていた。
女の子のカワイイお弁当なんかでは決してなく、むしろ男子高校生用のがっちり系だった。ていうか男子高校生でもこんなに食べるだろうか。
「……そんなに食べるんですか」
はらり、と言葉がこぼれていた。
あ、しまったと思ったけどもう遅くって、先輩の顔がボンッと音がしそうなほど赤くなった。やっぱり肌が白いから、血が昇ると赤くなるんだなと思った。
「こ、これは違うの、私ん家はね、私以外はみんなガタイのいい男ばっかりなの、だからわたしもつい盛り付けとかで引きずられちゃって。つまり例えば昨日みたいに唐揚げとか作ったりしても量が足りなかったりしたら苦情が出るじゃない。だから鶏肉なんてどうせ安いから大量に買って揚げちゃったりして、それで余っても、唐揚なんて長いこと置いてたら硬くなっちゃうでしょ。だから、せっかくだからわたしの弁当に全部詰めちゃえとなるのよ。つまり私は家族の男どもの食生活の犠牲になっているの。うん、仕方ないのよ、不可抗力なの……ってユキちゃんお昼それだけ!?」
先輩が私の手元のジャムパンとお茶の缶を見て叫んだ。
「ええ、これしか買えなかったので」
「ぬぬぅ……その少食で小さくて愛らしいスレンダー体形を維持しているのねッ」
「いや、維持してるってわけじゃ」
「くぅ、なんという余裕発言……ねえ、ぶっちゃけわたし太ってる?」
たとえ太っていたとしても、はい、太っています、なんて言えるわけ無いじゃんと思ったが、とりあえず
「いえ、まだ出るとこが出ているというレベルでとどまっていると思います」
と答えておいた。先輩はちびの私と違って非常に女らしい体形をしている。おっぱいもすごく巨大だ。
「“まだ”ね……シビアな意見だわ、ちょっと待ってて」
先輩はそう言うと、お弁当を置いたまま、すたすた歩いてどこかへ行ってしまった。
すぐに先輩は戻ってきて、その手には割り箸が一膳あった。
「お昼がパンだけっていうのは栄養的に良くないわ。一緒に食べましょう」
「え、でも……」
「わたしだけ太るなんて許せないわ、ユキちゃんも道連れよ!」
こうして私は、先輩のお手製弁当のお相伴にあずかった。
先輩は弁当の半分を私にくれようとしたけれど、私には半分でも多すぎる。いい加減食べ過ぎたと思ったところで、先輩が重箱の一番上の段のフルーツの横にあった蝋紙を開封したら、中からなんとレアチーズケーキが出てきた。
「別腹、別腹」
とか言いながらこれも私に半分くれた。甘くてほんのり酸味があってとっても美味しかった。
先輩は、さらに私のジャムパンを半分ちぎって嬉しそうに食べていた。
私は先輩みたいに美しくてかわいらしい人が、もりもりと食べるので、イメージがちょっとなあというか見ているだけで胸がいっぱいになってくる。
先輩は最後にアメをふたつポケットから取り出して、私の手に置くと去っていった。
私は、ひとり寂しくパンを齧る予定がどこで狂ったんだろうと考えながら、苦しいお腹を抱えて教室に帰った。