5.一音(2)
回想
それから、
私は名前も知らない男と手を繋いで学校をでた。もう放課後とは言えないくらいの時間だったので、いつもの喧騒はなく、真っ暗な廊下を歩いている時は世界に二人っきりしかいないみたいな気がした。それならどんなに良いだろう、とも。
街灯を一つ、二つ、と見送って泣きすぎたせいであろう頭のぼんやり感と身体のけだるさは比例すると思った。
隣にいる男。背が高くて(見上げないと顔は見えない)、猫背の身体が薄い男。横目でチラリと見てなんとなく家の方に私は歩く。
もう手は繋いでいなかったので男は私について来てる、ということになる。心配してくれているのだろうと思う。
死のうとしていたんだから。
仕方がない。
ただ、お互い何も言わないから私の鼻をすする音だけが不規則に聞こえた。私が咳をするたび、男はこちらを向いた(と思う)。そうやって歩き続けた。バスで1時間以上もかかる道を。
「あの、ここで、大丈夫です。」
私は鼻声で言う。恐ろしく小さな声で。
結局、家のすぐそばまで送ってもらってしまった。
男も立ち止まって、一度、ぎゅっと手を握られた。そしてゆっくりと手は離れていった。
「またね。」
優しく笑って、ただの、その一言だけ言って男は来た道を引きかえして行った。
ゆったりとした雰囲気の中で、気がつくと男はあっという間に行ってしまった。
お礼も言えなかった。名前も、どこの誰なのかも聞けなかった。
また会えるだろうか。
私は玄関のドアを開けると同時にいつも通りの私に戻った。母がもう自分を責めてないと良いと思いながら。
「お母さん、ただいま。」
靴を脱いで母を探す。
母は泣き疲れたのか、眠っていた。
次の日。
クラスの前まで行くと、昨日の男がいた。同じ制服。けだるそうにドアから少し離れた場所にもたれかかっていた。
「おはよう。」
初めてちゃんと顔を見た気がした(昨日は横顔ばかり見ていたから)。
女の子みたいに色が白い。
「えっ、あの、えと…。昨日は…。」
「伽夜って呼んでいい?」
「え?あ、はい。」
「伽夜。…伽夜ー。…伽夜。」
男は私の名前を連呼する。私がきっと困った顔をしていたのだろう、男は
「名前を呼ぶ練習だよ。」
と、私の頭をなでまわした。
そして
まず
男の名前が一音だということ、
次に
同級生で隣のクラスなのだということを知った。
でも“めんどーなこと”があって、一年留年してしまったらしい。 つまり歳は一つ上なのだ。
「世の中上手くはいかないもんだよ。」
そう笑って話してくれた。敬語とか遠慮もいらないよ、とも。
優しい目をして。
だけど理由については話そうとはしなかったので、私もあえて尋ねたりはしなかった。
「ちょっと話そーよ。」
「だけど、もう朝礼が始まる時間…。」
私が言い終わらないうちに、一音は私の腕をひっぱり、ぐいぐいと廊下を進んでいく。
…男の人ってこんなに力が強かったっけ。
なんて、呑気なことを思いながら、付き合っていた男の人たちの顔が一人も浮かんでこない自分はどうかしてるのかな、と思った。
それでも、真面目な私は言う。
「ちょ、あの、もう朝礼だって言ってるでしょ!離して。」
「伽夜はあそこに行きたいの?本当に?」
一音は歩みをとめずに聞く。
私の足は歩みをとめないし、掴まれた腕を振りほどこうともしていなかった。これが答えだ。
そして、不真面目な私は言う。
「どこにいくの?」
「うん、伽夜はやっぱり不真面目だな。」
一音は振り返ってにっと笑ってみせた。