2.猫の旅立ち、記憶
二匹の旅立ち。
記憶。
夏樹君はぽつりぽつりと話し始めた。
僕は、この時代―猫時代とでもいうべきでしょうか―ナツという名前でした。僕はオトと同じ廃墟の中で住んでいました。
というのも、僕もオトも子猫の時に人間に捨てられ、野良猫としてしか生きられなかったからです。
野良猫というのは、飼い猫と違って、食事も満足にはとれないことはしょっちゅうでしたし、その日その日をただ懸命に生きていました。
僕とオトはずっと一緒だったんです。
ずっとずっと一緒だったんです。
人間でいうところの恋仲とでもいいましょうか、なんというかそう、とても親密な関係でした。
どこに行くにも一緒で、共に食事をし、寄り添って一日を終える、といったような。
そうしてつつましくも平和に暮らしていました。
もちろん、不自由はたくさんありましたし野犬に追いかけられたりなんてこともたまにあったんですけれどね。
夏樹君は懐かしそうにほほ笑んだ。
そしてややうつむいて話し続ける。
しかし、僕とオトが大人といっていい年齢になった頃、住んでいた廃墟が取り壊されることになって
僕とオトは住む場所を新たに探すことにしたんです。それも新しい住居は街の外という条件付きで。
何も街を出る必要はなかったのですが、オトが外の世界を見てみたいと言い出したので僕ももちろん賛成しました。
猫のくせに、と言われてしまうかもしれませんが、街の外にでたことがなかった僕たちにとっては
ちょっとした冒険となったのです。
そういう具合だったので、僕は正直不安だったのですけれど
オトはいつも楽しそうでした。
尻尾を揺らして、今日はどんな道を通って行くの?と
コロコロ笑っていました。
そうして優しい声で僕を呼びました。
「ナツ、ナツ。」
そうやってオトに名前を呼ばれるのが僕は好きで
僕もオトの名前を何度も呼びました。
「オト、オト。」
愛おしいという気持ちが少しでも伝わるように。
そういう夏樹君の横顔はとても切なげで優しかった。
私は思わず夏樹君に触れそうになっていた。
が、しかし手はきちんと膝の上に置いておいた。
夏樹君は続ける。
僕たちはいくつかの街を通り過ぎて、ようやく新たに住む場所を決めました。
そこは海があるわけでも山があるわけでもなく
ましてや猫が住みやすいというわけでも
かといって人間が多いというわけでもありませんでした。
そう、いわゆる“普通”の場所でした。
なんの変哲もない、ただの街。
その街を最初に気に入ったのはオトで、オトは
「なんでもないこの街が好き。」
と、だけ言いました。
僕はオトが気に入ったのならそれで良いと思ったので
「そうだね。」
と頷きました。
住処は空き家にしました。
ぼろぼろな、やっと人が一人住めるくらいの空き家です。
良いところといえば、日あたりがよく、桜の木が一本生えていてきれいに咲いていたというところですかね。
僕もオトもしばらく桜が揺れているのを見つめていました。
あの時、二匹で見た桜色を僕は今でもはっきり覚えているんですよ。
「素敵な記憶ですね。」
私は言った。正直な感想だった。
嘘だとしても、冗談だとしても。
いや、なぜだか嘘だと思う気にはなれなかった。
夏樹君の表情が、雰囲気が私の疑心を溶かしていたから。
「そうですね。僕は幸せ者でした。」
夏樹君は膝の上に広げた掌を見つめ、それからこの狭い店の天井を見上げた。
相変わらず背筋が伸びていて腰から上が一直線で、その様子を私はしばらく見つめていた。
猫だったくせに、猫背じゃないんだ、なんてことを思いつつ。
そうして、あることに気がつく。
「あ、すみません。座布団もださずに。」
私はいつも直に床に座るがお客様(一応)である夏樹君に
座布団の一枚もださないのは失礼だと思ったのだ。
「大丈夫ですよ。...相変わらずですね、伽夜さんのそういうところ。」
天井を見つめていた夏樹君は視線を私に向け、ようやく笑った。
寂しげでもなく、きちんと。
「えっと...そうなん、ですか。」私は曖昧な返事しかできなくて。
「本当に覚えてないんですよね。すみません、つい。」
夏樹君はすみません、ともう一度謝った。
私はなぜだか、胸が痛んだ。謝るのは私の方だという気がした。
もう夏樹君を変質者だと思えるわけもなく、親友をふった元恋人でもなく、
昔からよく知っていた友人のような、とにかくきちんと向き合うべき相手としていた。
私も単純でお人好しなところがあるようだ。
単純でお人好しな私は尋ねる。
「私は、その、猫だった時の夏樹君とはどういう関係だったんですか。」
きっとこの時の私はもう大真面目な顔をしていただろう。
「関係、といわれると説明が難しいのですけど。...僕たちは伽夜さんのことが大好きでした。取り合ったりもしたくらいに。」
「えっ!?」
「本当です。僕はオトと同じくらい、オトは僕と同じくらい、伽夜さんが大好きだったのですから。」
なぜだろう、心が温かくなるのを私は感じた。
恋とかそういう類いのものではなく、だけど説明しがたい何か温もりを感じた。
「そろそろ伽夜さんとの出会いを話しましょうか。」