1.出会い、始まり
透明な液体に広がる茶褐色を見つめながら、私はそこに座っていた。小さな鞄には財布とハンカチ、それと飴玉二つしか入っていない。
どうやってここまで来たかもあまり覚えていない。気づいたら、ここにいたのだ。説明のしようがない。
「なんで?」
よくそうやって聞かれた。
そう聞かれたって、わかりはしないのに。求めてる答えなんか私の口からでるはずもないのに。
どうしようもなかったといえば、それまでの話。だけれど、いつだって本当はこんな結果にならなかったんじゃないかって考えている。
歩けなかった道への戻りかたを考えている。
そこまで思考回路を廻らしてやめにした。
私は丸められた伝票を取り席を立った。ドリンクバーひとつ。
これだけの注文で何時間もいられるのだから(混んでいれば別だけれど)ファミリーレストランというものはなんて親切なんだろう。
レジでお金を支払う。バイトの子もなかなか愛想が良い。
でも相変わらず外は雨だった。
傘を手に取り歩き出す。小雨が顔にはりつくようで、少し目があけにくい。こうなると、私はあきらめてしまいそうになる。家までは歩いて20分ほどなのに、だ。
「大丈夫、きっと帰れる。」
いつだったろうか、そう言ってくれた人がいたのは。
目に浮かんだそれを認めたくなかった。悲しくはないはずだ。そう決めたのだ。
ファミリーレストランでついた煙草の匂いが鼻についた。
これだから嫌なのだ。雨の夜は一人ぽっちで、何かに追いかけられているような気持ちになる。
家に着くと、足もとにオトがすり寄ってくる。オトは私と生活している猫である。でも、別に飼っているわけではない。オトは所有されるような猫ではない。
「ニャーニャー」
甘えた声でまとわりつく。これはおそらくお腹が空いたサインだ。
ドライフードをオト専用の小皿にいれてやる。使い勝手の悪い、安っぽい小皿。でも、オトはとても使い勝手が良いという風にずっとそれで餌を食べる。
むしろ、それでなければ餌を食べないのだ。どんなに空腹であったとしても。その証拠に以前、母が家に来た時、オトを不憫に思っていわゆる良いとされる餌皿を買ってきた。
しかし、オトは母がいる間、餌を食べなかった。母に愛想よくしても餌には触れなかった。母はとても残念がっていたし、なんとかして餌を食べさせようとしてネコ缶なんかを買ってきたが、それでも食べようとはしなかった。
私は母が帰ったあとに、いつもの小皿にドライフードを入れた。オトは何事もなかったように食べた。その時のオトを私は美しいと思った。
オトをなでながら、お風呂にお湯をために行く。
洗い流してしまおう。全部、全部を。その必要がある。ファミリーレストランの煙草の匂いも、雨も、オトの柔らかく温かな感触さえも。
湯船につかると、オトも入ってきた。といっても、オトはお風呂のフタの上にのっかているだけで濡れようとはしない。だから、この時だけは私はオトをなでたりはしない。
お互い別々のことを考えて、過ごす。頭を洗っても体を流しても、それは変わらない。ちょっと水はねをよけるくらいで。
お風呂からあがると、留守電が入っていることに気がついた。
赤く点滅しているものに触れる。
二件入っている。
「もしもし?ちゃんと電話くらいでなさいよ。明後日はそっちに行こうと思ってるから。家にいなさいね。あと、オトちゃんにお土産持って行くから、楽しみにしててねー。」
母はいつも突然だ。お土産というのを聞いてオトのほうを振り返ると、聞こえていないとでもいうように丸くなっていた。
「伽夜ちゃんー、もうほんとに意味わかんないんだけどー。夏樹と別れるかもしれない―。」
環は私の高校からの数少ない友達だ。ぱっとしないが、とても親切で誠実らしい夏樹君と付き合っているのによくこういう電話をしてくる。
とりあえず電話をしてきたあとは一時間くらいたてば仲直りをしているので心配することはないだろう。
それにしても、喧嘩する度、別れるという電話をよこす環の気がしれない。怖いもの知らずなのだ、環は。
嫌われることも、他人の目も、孤独も・・・昔からそうだった。
恋愛に関してもあまり固執しないたちで夏樹君は今年に入ってもう3人目の彼氏になる。私はまだ会ったことがないので、今週末は食事をすることになっている。
興味がなくても、しゃんとしなくてはいけない。少しでも環の良い友達に見えるように。
「ね?」とオトに言うと、オトはもう寝ていた。
誰かが泣いている。小さく丸くなって、泣いている。
もう誰も信じられないと言って、この世には絶望しかみえないと言って泣いている。
私はどうしていいかわからなくなって、でも、そんなことはないと言いたくて、近づいてみる。
そして、その人に触れた瞬間、目の前で地面は崩れてその人は消えてしまう。
最後に、ぐちゃぐちゃになった顔で振り向いて。
布団をはねのけて起きると、3時をまわったところだった。まだ外は暗い。
汗でびっちょり服が濡れている。
私はまだ許されていないのだ、と思い知る。私の答えが間違っていたから、怒っているのだ、きっと。
何年たっても、何回もこの夢を見る。一音はまだ孤独なのだろうか。あの時とかわらないまま、寂しがっているのだろうか。
グラスに水を注いで飲み干す。
うずくまって、やり過ごす。こうなったらもう寝付くことはできないと、知っている。
これが一番良い、朝を待つ方法なのだ。
午前8時。
そろそろ仕事に行く時間だ。
仕事といっても、商店街にあるさびれた古本屋の店番だ。
私の祖父が営んでいるが、実際は私が店を営んでいるという状態である。あんなに元気だった祖父はもう老いてしまった。
店を開け、まずは鉢植えに水をやる。
そして店の前をはいて、窓を磨く。
本棚の整理はそれからだ。
古本ばかりだから、何十年も読まれたことがないような本がたくさんある。だから、丁寧に扱わなくてはいけないし、ページが抜けそうになっているものは直したりしなくてはいけない。一つ一つチェックして、それから本棚に戻す。その作業を繰り返す。私は本が好きだから、飽きはしない。むしろ、読んだこともない本がたくさんあるからわくわくする。
焦る必要もなく、ゆったりと流れる時間。今日もここは埃っぽく、じめじめとしていて、インクの匂いで溢れている。
お客は来ても、ほとんど買っていくことはない。立ち読みをして、帰って行く。暇つぶしにでもなっているなら、それで良いかなとも思うが、売上が増えないというのは悩みの種でもある。
まぁ、売上ばかりを気にしたくはないが、この店を潰すわけには行かない。
それだけは約束なのだ、祖父との。
大好きな祖父。
老いには誰も勝つことはできない。私の知っている祖父も、私を知っている祖父ももういない。どうして、大好きなものはみないなくなってしまうのだろう。「ずっとそばにいる」と一音も言ったのに。約束なんて、守らなければ、ただの戯言でしかない。今となっては数え切れない約束が嘘に変わってしまった。それでも、どこかで待ち続けている私がいる。
「何に?現実をみないと。」
そう笑われてしまうだろうか。まだ「伽夜」と呼ぶ声が耳に残っている。
また呼ばれることがあるのなら、私は何でもさしだそう。
私は一人現実に戻れていない。
「…あの」か細い声が聞こえた。
一瞬錯覚をしたが、もちろん、そんなはずがない。
「…あの?」
私はまだ夢うつつだったらしい。一音ではない、若い男性が立っていた。
「あ、はい、すみません。何かお探しですか?」
「えーと、伽夜さんですよね?」
誰なのだろう、この人は。
知り合いにいただろうか。私は頼りない頭を懸命に使ったが、やはり思い出せなかった。
「…はい。…あの、すみません、どなたでしょうか。」
「突然すみません。夏樹です。環の彼氏といえばわかっていただけますか?」
柔らかく微笑みながら、少し恥じらいながら、彼は言った。
「……あれ?約束は今週末じゃ?私もしかして間違えていました?」
「違うんです。約束は今週末ですよ。ただ、環からこのお店の話を聞いて。僕、趣味で絵を描くんですけど、その資料になるような画集は置いてないかなと思いまして。」
「そうなんですか。確か、画集はその奥の棚…あ、こちらです。」
私は夏樹君を案内した。ここのスペースに来る人はほとんどいないし、私自身三度目だった。
「もしかしたら、保存状態が悪いかもしれません。それに、そういうものならこんな店じゃなく、大きなお店にいったほうが、良いんじゃないんですか?」
言い終わった後に少し言い訳がましいというか、嫌な態度をとってしまったかなと後悔した。最初からしくじってしまったかもしれない、環の友達として。
「そうかもしれません。でも、僕はこういうお店が好きなんですよ。広くて、大きいってなんだか苦手で。」
そう言いながら、私の言葉を気にもとめずに、彼の細く大きな手は、実に丁寧に―私が感心してしまうほど―画集を扱った。一枚一枚きちんと味わうように。古ぼけて色褪せた本に敬意を払うように。
「私、レジの方にいますので、何かあったら声をかけてください。」
どうしたらいいかわからず私は逃げ込んでしまった。まったくの他人であるお客様ならともかく、中途半端な知り合いであるお客様はどうも相手をしにくい。もともと人見知りが激しいのだ。こんな性格でよく店員なんかやっていられると自分でも思ってしまう。
一息ついて、夏樹君という人物を観察してみる。背は少し高め、細身、なんだか頼りなさそうな背中。確かにぱっとする感じではない。ただ、背筋がきちんと伸びているところが良いなと思った。ふと、彼はどんな絵を描くのだろうかと気になった。繊細な絵なのか、それとも実は豪快な絵なのか…。
絵を考えるうちに、環の姿が頭に浮かんだ。ふわふわと髪を揺らして、あの細い腕に抱きつく、可愛らしい友。私には知る由もない世界をもち、きっと私が生きることのできない場所で、愛したり愛されたりしているのだろう。
環は幸せだろうか。
本当に幸せだと良い。
「心ここにあらずって顔をしてますよ。」
本日、二度目の失敗だ。神経をとがらせておけばよかった。なぜ気づかなかったんだろう。
「あぁ、すみません。今日はなんだか、ぼーっとしてるみたいで。」
「良いんですよ、誰だってそういう日はあります。本、また見に来ても良いですか?」
「もちろん。では、週末にお会いしましょう。」
夏樹君は爽やかに笑い、愛想良く帰って行った。不思議な人だった。いつの間にか来て、いつの間にか帰ってしまったような…まるでオトそっくりだ。
そして、ふと、夏樹君が読んだ本が気になった。しかし、あんなに丁寧に本を扱っていたのだから、どの本を読んだかなんてわからないかもしれない。
そう思いつつ私は、奥の棚に向かった。
驚いたことに、見事に1cm幅だけ本が飛び出ていた。あんなに几帳面な感じだったのに、なぜ、全てしまわなかったのか。意外と面倒くさがりなのだろうか。こんな風に、きちっとでていれば、誰だってどの本を読んでいたかはわかるが・・・。まぁ、何にせよ、1cm幅というのはある意味、夏樹君らしい気もする。
私は本をそっと取り出す。夏樹君の素振りを思い出しながら、丁寧に。今まで扱ってきたどの本よりも大切に、敬意をはらって。
「うーん。」
厚い割に、そんなに重くはない。本はだいぶ古い。分厚い表紙の角はところどころ破けているし、色も褪せてしまっている。埃もすごいが、夏樹君が持ったと思われるところだけは埃が落ちていた。これははやく手入れをしないと、本がかわいそうだし、夏樹君にも申し訳ない。夏樹君は本の手入れもいきとどいていない本屋をどう思っただろうか。これは、どうやら三度目の失敗をしていたらしい。自分の間抜けさに嫌気がさしながらも、本を読み始める。題名は・・・ない?もう一度、表紙を見てみる。本の右端によく見ると、小さな文字が書いてあるが読むことは難しい。だから、夏樹君はわざわざ本を少し出しておいたのか、なんて一人納得しながらもページをめくる。
そこには、可愛らしい猫が二匹描かれていた。
画集というよりは、絵本にでてきそうなタッチである。私は絵には疎いので、有名な作品なのかも全然無名な絵なのかさえわからなかった。ただ、その描かれている猫たちがとても幸せそうなことだけはわかった。体を寄り添わせ、互いに想い合っているような瞳をしている。羨ましいくらいだった。この絵の中の猫になってしまいたいくらいに。しかし、次のページをめくると、猫は一匹になっていた。寝ころんでいたり、月を見上げていたり、さまざまな様子が描かれているけれど、決して最初のような二匹が描かれたものはなかった。白い猫は孤独そうだった。瞳が悲しそうだった。この猫の前に絵描きがいようと、描かれていないだけで周りに他の猫がいようと、この白い猫は一人ぽっちになってしまったのだ。
目にまたあれが浮かぶ。たかが、猫の話なのに。
しかも、自分が勝手に考えた話なのに。何を重ねているのだろう。
認めはしない。
深呼吸をして、本棚に本を戻した。
手入れは後にしよう。
今は紅茶でもいれて、甘いお菓子なんかを食べる時間なはずなのだ。
冷蔵庫に入れておいたロールケーキを切り分けて、口に入れる。そして、また夏樹君のことを考がえた。
週末に会う時に、聞いてみよう。
猫が好きなんですか?それとも絵描きが好きなんですか?
今日は母親が来る日だ。といっても、片付けをしたりするわけではないが、母の好きなプリンでも買っておこうと思い、私は今出かけている。
平日の電車というのは通勤、通学の時間を除けばそんなに混んでいない。それがとても嬉しい。人混みというのはどうも苦手である。色んな匂いがするし、押されたり、ぶつかりそうになったり、それに不安になる。だから、私は都会には住めない。これが一人暮らしをするようになった理由の一つである。母はいつもこっちに戻ってきなさいと言うが、今のところそれはできそうもない、し、お店のこともあるので母も半分は口癖になってしまったものを、なんとなく口にしているだけのように思える。
プリンを買って駅に向かうと、陸橋の上に環がいた。
「環?」
「あれ?伽夜ちゃん!すごいねー道端でばったりなんて!驚きだよね!」
環が大袈裟なリアクションをするので、私も驚いて笑ってしまう。
「そうだね。そういえば、夏樹君とは仲直りしたの?」
「あー、それがね、聞いてよ。夏樹ったら、もう付き合えないとか言い出してさ。意味わかんないじゃん!だって急にだよ?」
「何か理由があるんじゃないの?環は何か覚え・・というか、その様子だと理由はさっぱり?」
「さっぱりだよ!だって、私はすごく好きで、夏樹も好きって言ってくれてたのに。」
「そうなの・・・。」
「私のこと、好きじゃなかったのかなー。」
「そんなことはないんじゃない?嘘をつくような人ではない気がするよ、夏樹君は。」
「え?伽夜ちゃん夏樹に会ったの?」
「あ、この間、私のお店に来たから。ほとんど話してないけれどね。」
「そうなんだぁー。うーん。わからないよー、男心なんて。」
半分泣きそうになりながら環が言う。環がこうなることは今まで見たことがないので、本当に夏樹君のことが好きだったんだと思う。
「私にもよくわからないわ。だけど、そのお店に来た時には、また週末にって言ってたから・・・その時は食事に行く気はあったっていうことじゃない。」
「だけど、その約束も今は叶わないでしょー。もー、やだー。」
「悲しくても、しょうがないよ。自分の気持ちだけじゃどうにもならないことはあるでしょう?」
「・・うん。あ、私これから行かなきゃいけないところがあったんだ!」
「そう。じゃあ、また連絡して。愚痴でも何でも聞くから。」
「ありがとう。」
無理に笑う必要なんてないのにと思いながら、私は環と別れた。付き合いは、長いのだから、それが嘘か本物かなんて見分けがつく。環を家によんだ時は、彼女の好きなハンバーグでも作ってあげよう。特大サイズの。
それにしても、夏樹君は何を考えているのだろう。私の中では好印象だったのに、友達を傷つけたという点ではちょっと残念だなと思う。結局、環は幸せではなくなってしまったのか・・・。それに、質問もできなくなってしまった。
猫が好きなんですか?それとも絵描きが好きなんですか?
私は来た時とは反対の方向に進む電車に乗る。
来た時よりは、少し電車が混んでいた。もう少しで学生たちが電車に乗る時間だ。
家の前まで来ると、そこにオトがいた。しかし、家には入らないようだ。そうか、母がもう来ているのだ。
「大丈夫、私が来たからオトも安心してお入り。」
そう、オトに一声かける。オトはわかったといわんばかりの早足で家の中に入っていった。
「ただいま。」
「ちょっとー、遅かったんじゃないのー?」
母はすでにくつろいでいた。もしかして、ここは母の部屋なのかっていうほどに。
「ちゃんと今日来るって連絡しておいたでしょう?」
「ごめん、でもほら、プリン買ってきたから。」
私は片手をあげる。
「あら。伽夜ちゃんったら気が利くー。」
母は素直だ。
はやくもプリンを食べながら、部屋をきょろきょろ見回してる。
「あんたね、もう少し女の子らしい部屋にできないの?シンプルにもほどがあるって。彼氏できないわよー?」
「大きなお世話。ごちゃごちゃしていると、落ち着かないし、嫌なの。」
確かに。私の部屋は色はモノトーンでまとまっているし、可愛らしいもの、ぬいぐるみとか、ハートとかレースとかそんなものは一つもない。
これはきっと一音のせいだと思う。せいというか、影響。ずっと一緒にいすぎた代償。私は一音の部屋のような環境でしか生きられなくなってしまった。それと、ものを所有し過ぎるのは良くないということに気づいたということもある。持ったら、持ったぶんだけ、感情にまきこまれてしまう。それは、とてもわずらわしい。
「ねー、オトちゃんは?お土産買ってきたんだって。」
「私にはないのに?」
「もー、子供じゃないんだから、そんなこと言わないの。」
「はいはい。私より先に部屋に入ったから、どこかそのへんにいると思うよ。」
「じゃあ、探すかな。」
重い腰をあげて、やはりネコ缶を片手にオトを探し始める。こういう時のオトは絶対に母に見つからない。だいたい母があきらめたときに、しょうがないなっとでてくるのだ。
「いないわよー?」
「いるって。」
台所で夕飯の支度をしながら、少し大きめの声で返事をする。今日は肉じゃがと大根のお味噌汁とホウレンソウのおひたしだ。母は和食が好きなのである。
「もう、無理。探すの疲れた。」
「にゃー。」
「あ!オトちゃん!やっぱり私のこと見放さないでいてくれるのねー!」
オトは優しい。ネコ缶を食べる様子はなかったが、母には愛想良くしている。オトも大変だなと、少し同情した。
母はすぐ見放す、見放さないの話をする。それは、母と父が離婚したせいだと思うが、子供心にその言葉にいちいち揺れてしまう時期があった。
父はなぜいなくなってしまったのか、母もいなくなってしまうのだろうか。
思えば、あの頃から、私は人に嫌われるということが怖かった。自信なんてものは、持ち合わせていなかった。
良い子にしていたって嫌われないわけじゃないのだ。
母のすすり泣き、暗い部屋、低い天井。
一音はそんな私を引き上げてくれた。大きな手を差し伸べてくれた。怖がる必要なんかないと教えてくれた。もともと、人は一人なんだからと。
だからこそ、俺は伽夜を一人にはしないよと笑ってくれた。そんな一音がすべてだった。笑ってしまうくらいに。悲しいほどに。どうしようもないほどに。
愛ってものを、肌で感じたのも初めてだった。こんなに温かい人がいるのだと驚いた。いかに自分が冷たいのかも同時に思い知った。
「伽夜ー、オトちゃん全然食べないわ。一回病院に連れていったほうがいいのかしらね。」
「大丈夫だよ、オトは野良なんだから。ちゃんと生きていけるんだから。」
夕飯を済まして、母はすぐ帰ってしまった。
「顔見たら、安心したわ。ちゃんとご飯食べなさいよ。」
なんて言い残して。私は洗いものと向き合う。
冷たい水がお湯に変わるまでは少しつらい。
今日はなんだか、疲れた。母が嫌いなわけじゃない、気疲れしたわけじゃない。そういうわけじゃないのに。今は母のせいにするしかなかった。
「ニャー。」
オトがすり寄る。
「お腹空いたよね。ちょっと待っててね。」
いつもの小皿にドライフードを入れる。からからと音がした。
オトをなでながら、その温かさを指先から、手のひらから感じる。
「オト、オトはもう会えなくなった大好きな人に会えるとしたら、会いたい?」
オトは私の顔を見たが、うなずきも、首を振りもしなかった。
「ごめん、変なこと言ったね。」
もう寝てしまおう。
私はまたあの場所にいる。
誰かが泣いている。小さく丸くなって、泣いている。
もう誰も信じられないと言って、この世には絶望しかみえないと言って泣いている。
私はどうしていいかわからなくなって、でも、そんなことはないと言いたくて、近づいてみる。
そして、その人に触れた瞬間、目の前で地面は崩れてその人は消えてしまう。
最後に、ぐちゃぐちゃになった顔で振り向いて。
また、私はあの人を守れなかった。殺してしまった。そう思ったときには夢から覚めていた。
オトがお腹の上に乗っていた。これじゃあ、落ち着くことができない。
どうしよう。どうしよう。息は荒くなり、体が熱っぽい。
オトが今度は目を覚ます。
私の胸の上を通り、顔を近づける。そして、ざらついた舌で頬をなめてきた。
オトは優しい。
「なんで、おまえには、全部がわかってしまうんだろうね。」
目にはあれが浮かんできた。今は認めるしかない。涙ってものに。
「これはね、オトのためにでたものだから。一音は関係ないから。わかってる?ねぇ、オト・・・。」
オトは涙の数だけ顔をなめてくれた。言葉を交わすことはできなかったが、オトは私の気持ちをちゃんとわかっているようだった。
「猫のくせに・・・。今度はオトがいなくなるのが怖くなるよ?」
その日、オトは朝まで横に寝ていた。いつになく、そばにいてくれた。
今日は、お店は休んだ。というより、休まざるを得なかった。本当は今日、環と夏樹君と食事をする予定だったのでお店に休むという張り紙をしてしまっていたのだ。
なんとなく、体もだるいし、無理にあける必要もないかとも思った。最近、空は、曖昧な色にばっかり染まっている。
あの夜から、オトが家に来なくなった。
泣きじゃくる私に愛想が尽きてしまったのだろうか。でも、私はあのままだったら、オトを所有してしまうところだったから、ちょうどよかったのかもしれない。
ふと、本のことを思い出した。夏樹君が読んでいた本だ。
なんだかんんだで、手入れをするのを忘れていた。夏樹君はもう来ないが、本を大切にしたいという気持ちには変わりはない。
それに、いつの間にか私はあの本の猫を気に入っていた。
お店に向かう。昨日降った雨で、地面にはちらほら水たまりができている。
水はねを気にしながら、歩き続ける。
驚いた。
店の前には夏樹君が立っていた。
お店の扉には休みの張り紙もあるというのに。どうしたのだろうか。環とよりを戻したのだろうか。
「あっ。」
夏樹君が私に気づいた。
「こんにちは。どうしたんですか?今日はお店は休みですけど。」
「待ってました、伽夜さんを。」
「私を?」
まったくもって意味がわからない。
「はい。ちゃんと、約束しましたよ、週末にって。」
「でも、環とは別れたんですよね?それなら、約束はないはずじゃ・・・。」
凛とした表情で夏樹君はなおも続ける。
「あの日の約束は伽夜さんとしたんです。環は関係ありません。」
「私は、環の友達だということがわかっていますか?環は本当にあなたのことを、好きでしたよ。それを、急に理由も言わずに別れてだなんて。もう少し、別の方法があったんじゃないんですか?」
私はつい感情的になってしまった。環の半泣きの顔を思い出したら、言わずにはいられなかった。
「すみません。環には悪いと思っています。でも、僕に他に好きな人がいたとしたら、それはどうしようもないですよね。僕にはあれが一番いいと思いました。環にとって、僕はもう過去の人間になりましたから。」
「そんなことわからないじゃないですか。今もまだあなたのことを想っているかもしれない。勝手すぎますよ。」
「わかります。僕も、こんなことを言うと、軽い男と思われてしまうかもしれませんが、環をちゃんと愛していましたから。」
本当にまったくもって理解しがたい。
「そうですか。もう、あなたに言うことはないです。とにかく、帰ってください。」
「それは困ります。あなたに伝えることがあってきたのですから。」
「私に?」
付き合ってくれなんて言われたら、本気でこの男を殴ろうと思った。
「僕は猫なんです。」
もう、何を言い出すんだろう、この人は。いい加減にしてほしい。
「意味がわかりません。忙しいんで、失礼しま・・」
背中を向けたときには、腕をがっしりとつかまれていた。
「ちょっとっ・・・」
「逃げられては困るんです。僕にとっても。あなたにとっても。」
「だから、意味がわからないって言っているでしょう?警察呼びますよ。」
振り返ると、夏樹君の顔はこの間見た環のような表情をしていた。
「伽夜さん、オトを知っていますよね?」
「なんであなたが、オトを知っているの?」
オトは野良ネコである。それは確かで、オトという名前も私が、なんとなく、勝手につけただけで、それは環にも話していない。むしろ、環はオトの存在さえも知らないはずである。
「オトは僕の恋人です。」
「はぁ?」
もうこれは、完全にお手上げである。今の今まで、軽蔑していた男の顔から、それが冗談ではなく本気であるということがわかってしまったからだ。ただの変態だったら、それまでの話だが。にしても、オトが夏樹君の彼女なら、やはり夏樹君は猫だったのだろうか。
「混乱させてすみません。でも、本当なんです。信じてください。」
この人は、簡単に信じろだなんて言う。その重みをわかっているのだろうか。
しかし、この状況を切り抜けるには、とりあえず、信じるしかない。
「わかりました。信じます。で、私は何をどうすればいいんですか?」
「ここでは、ちょっと・・・・。本屋の中に入ってもいいですか?」
私、ここで死ぬかもしれないな、と思いながら、本やのカギをあけた。明日の新聞記事の隅っこには載るだろうか。
「変なことはしないから、安心してください。」
私の心を見透かしたように、夏樹君は優しく、なだめるように言った。さっきまで、ひどい顔をしていたくせに。
扉をあけると、夏樹君は一目散に奥のほうへ向かっていった。
「これです。まずは、この本について説明しなければいけません。」
「その本・・・。」
夏樹君が初めて、このお店に来た時に手に取っていた本だ。猫が描かれていた、あの本。私が、手入れしようとしていた、あの本。
夏樹君は前と同じように、丁寧に、敬意をはらって本をひらいた。
「この二匹。これは、僕と、オトなんです。」
あの寄り添った二匹が猫が夏樹君とオト?
確かに、茶色い、まだら模様がオトに似ていると言えば似ているが・・・。そんな模様の猫はたくさんいるだろう。それに、白い猫はどうみても、夏樹君には似ても似つかない。
「今なら冗談の範囲で笑えます。」
「まだ信じてもらえてないんですね・・・。当然と言えば、当然ですけど。」
夏樹君は本を手に取ったまま、少し悲しげにうつむいた。長い睫毛が顔に少し影を作る。
「だって、夏樹君は私の目が確かならどう見ても人間にしか見えないですし。オトに似た猫なんか、一日中、街をふらつけば、何匹か見ますよ。」
「何も覚えていないんですね。伽夜さん。」
「私は、私の記憶しか持っていません。」
「そうですね。今の伽夜さんにあるのは人である記憶だけかもしれません。私が話しているのは伽夜さんが生まれる前の話ですから。」
「私が生まれる前?じゃあ、前世が猫だったとでも言うんですか?」
「違います。伽夜さんは前世も人間でした。」
「夏樹君になぜそんなことがわかるの?占いも趣味でやっているとか?」
「いえ、違います。ちなみに絵を描くのが趣味というのも嘘です。本を探すのには、そういうほうが都合が良かったので言っただけで。すみません。」
どんな絵を描くのか知りたかったのに、答えどころか質問自体がなくなってしまった。
「嘘だったんですか・・・。あの、本をずっと探していたんですか?」
「はい。ずっと、ずっと探していました。物心ついた時から。」
物心ついた時っていうのは、何歳の話なのか。私は驚いた。私はこの人の話を信じてしまっている。
「えと、とりあえずきちんと説明してください。そうでなきゃ、私はあなたをひっぱたきますよ。」
「わかりました。意外と伽夜さんは怖い人らしい。」
夏樹君は笑いながら、話し始めた。
オトと夏樹君と私の話を...。
いつほど昔の話なのかは夏樹君も覚えていないらしい。
ただ、ずっとずっと昔の話であるという。
今続編を書いている最中です。時間はかかるかもしれませんが、気長に待っていただけるとありがたいです。