第9話 『目玉焼きと、朝の約束』
久しぶりに、目玉焼きを焼いてみた。
黄身が崩れないように――あの人が、そう言っていた気がする。
フライパンの上で、じっと黄身を見つめる。
窓の外には、やわらかな朝の光。
あの朝も、こんなふうに陽が差していたのだろうか。
ピンポーン。
不意に、チャイムの音。
この時間に、誰だろう。
「すみません……不躾ながら、隣の者です。卵を、ひとつ分けてもらえませんか?」
聞き覚えのある声だった。
扉を開けた瞬間、息をのむ。
そこに立っていたのは――会社の受付でいつも笑顔を見せてくれる、あの女性だった。
「……あ、あなたが、隣に?」
彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら、髪を耳にかけた。
「引っ越したばかりで、まだ何もなくて……ごめんなさい。」
手の中の卵を差し出すと、
彼女の指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
温かかった。
「ありがとうございます。今度、お返ししますね。朝の約束……ということで。」
彼女の言葉に、思わず笑みがこぼれた。
いつの間にか、フライパンの中の黄身が少しだけ崩れている。
でも、今朝はそれでもいい気がした。
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> 朝の光、焼けた卵、誰かの声。
そんな小さな出来事が、
忘れかけていた“人とのつながり”を思い出させてくれる。
――これは、孤独な男と、温かな日常の物語。
ひとり分の食卓から始まる、“ゆるやかな再会”の記録。




