第11話 『インスタントコーヒーと、静かな雨の日』
ぽつ、ぽつ――。
窓の外で、雨が降り始めた。
休みの朝。出かける予定もなく、部屋には静かな湯気が立っている。
ケトルの音が鳴り、マグカップにお湯を注ぐ。
インスタントコーヒーが、ゆっくりと香りを広げていった。
その香りは、どこか懐かしい。
昔、彼女がよく淹れてくれた味に少し似ている気がした。
ピンポーン。
「……また、雨の日ですね。」
有森ゆかりが傘を畳み、少し濡れた髪を気にしながら入ってきた。
手には、小さな紙袋。中には焼き菓子。
「お昼前にちょっと寄ってみようかなって。迷惑でした?」
「いや、コーヒーがちょうどできたところです。」
ふたりはテーブルを挟んで、カップを手に取る。
雨の音が、会話の隙間をやさしく埋めていく。
「いい香り……懐かしい味ですね。」
ゆかりがそう言うと、誠は少しだけ笑った。
「……妻が、よくこの銘柄を淹れてくれたんです。」
短く、それだけを口にした。
ゆかりは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに静かにうなずいた。
「……そうなんですね。あの、優しい香りだなって思いました。」
言葉はそれきりだった。
でも、沈黙は重くなかった。
窓を叩く雨音と、温かなコーヒーの香りが、
ふたりの間にゆるやかな橋をかけていく。
「……この雨、止むかな。」
「止むころには、コーヒー、もう一杯いけそうですね。」
ふたりの笑い声が、雨の音に溶けていった。
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> 雨の音、コーヒーの香り、そして、誰かの記憶。
忘れたくても、忘れられないものがある。
――でも、それを語れる“誰か”がいるだけで、
少しだけ今日がやさしくなる。




