『豊饒の海』について、私は肯定的な評価を下すことはできません。
お返事、ありがとうございます。
『豊饒の海』について、私は肯定的な評価を下すことはできません。それは、一生懸命書かれた小説であることは認めざるを得ませんが、私の好むところではない、それに尽きます。おっしゃるとおり、私は三島由紀夫の文学を嫌悪し、拒否します。これもまたおっしゃるとおり、私は微妙な意味で否定するのです。
それは、あなたと同じように、私個人の関心というものがあり、その関心を三島由紀夫の文学は否定していると思うからです。あなたのアフォリズムに則るなら、いや、私はあなたのアフォリズムを否定します。人生とは、傷をさすることではない。人生は、傷を直すことです。傷を克服することです。これではアフォリズムというよりもテーゼですね。
この命題からは、ある種の力が導き出されます。必要とされます。つまり古い言葉でいう、愛が求められます。きょうびそれを愛と呼んでも、私にはピンときませんので、適切な呼び名をさがしています。それは、目標へむかう力です。三島由紀夫の文学には、愛が、その力が欠落している。愛という言葉は使われている……しかしその言葉の指し示している力はない。
仮に愛を、結合力と呼びます。私は私の求めるものを歯の浮く観念のままにしておきたくないのです。また、私を司祭か何かのようにあなたに見なされたくない。お便りを拝見する限り、それは杞憂に違いありませんが。
私は、文学は結合力そのものの証明だと、証明したいのです。あなたは文学の根底に何があるのかと質問しましたが、私にはそれは結合力であるという確信があります。
あなたにこの結合力がわからないということはありえないと思いますが、あなたにとってのこの力とは、興味ぶかいものではないのではないか。三島由紀夫にとっても、私はそう言える。
あなたによれば、私は文学に騙されているということですが、お察しのとおり、私は文学に関心を奪われています。私はあなた以外に文学の話をしない。あなたも、「それを言葉に成そうとしている」からです。言葉に成そうとしない人にとって、文学は私にとっての三島由紀夫です。妙な言い回しですが、要は、そこに肝心なものがない何かです。それ以上ではない。傷つけるだけのもの。
傷は、直されるべきです。私は直すために言葉に成す。あなたはさすりながら言葉に成す。そこが違うところです。
私は、三島由紀夫とともに歩むことはしない。そこに結合力がないからです。
私の神経にさわるのは、結合力がないのに、別の力があるからです。それを抹香くさく、禍々しい力などということは決してしません。デモーニッシュとも呼びません。私の関心としては、三島由紀夫の文学に何か力がある、それで十分です。
おわかりかと思います。私には、三島由紀夫のパーソナルな事柄は、ほとんどどうでもいいのです。三島由紀夫の文学を拒否します。拒否とは、力と対決することです。力を力で、否定することです。私個人の意志の力では、力が足りないから、私はある種の書物を読むのです。三島の作品を含めた書物を。
三島由紀夫をパーソナルな面から否定したり、真っ向から対峙せずに無化しようとすることに、私は関心をもちません。私は私の力で三島由紀夫の文学という否定の力を否定し、結合力を証明します。
いいかげん、ひとつことを長々と書いてしまいました。三島由紀夫について、まだやりとりしてもかまいませんが、このあたりで、私たちの興味が共通する文学、例えば、ムージルの文学について何かお話しでもいたしませんか。
『特性のない男』の一節について、思うところがあるのです。この手紙を書いているうちに思い出しました。
それとも、他に語る物事があれば、それを。