あなたの三島由紀夫に対する嫌悪は、何か筋金入りのものを感じて、うかつに手をだせば火傷をしそうな気がします。
お手紙、拝見しました。
あなたの三島由紀夫に対する嫌悪は、何か筋金入りのものを感じて、うかつに手をだせば火傷をしそうな気がします(つたない文学的表現をおゆるしください、以下つづく)。
ひとつ、このことについて聴くなら、いったい、三島の何があなたの神経にさわるのか、あるいは看過できない何ものがあるのか、そういった点です。
ご存じのとおり、私は三島由紀夫の崇拝者というわけではありません。世の中に、三島を崇拝したり、その行動や文学をしきりに称揚する人びとがいることは知っています。また、過剰に三島を忌避し、憎悪する人びとがいることも。私は、どちらにも組することができません。私は三島に非常な興味をもちますが、それは私個人の興味であり、その小さな私よりも大きなものに接続することはしていません。
私があなたの三島由紀夫に対する姿勢に誠実をみるのは、思い違いかもしれませんが、私の向き合い方と同じものを感じるからです。あなたはあなた個人として、三島由紀夫に向き合っているのではありませんか。そうでないなら、あなたのその、根底からの嫌悪が生まれてくるはずはないのです。
『豊饒の海』を読み終えた、それによって、三島に対する印象は変わることがなかった、かえってそれをより悪化させた、とおっしゃいましたね。それは具体的にどのような心境なのでしょう、あるいは理屈なのでしょう。私には何かそのことがわかる気がします、ですがあなたの言葉でそれを理解したい。
『豊饒の海』という作品を、私はまっとうに評価することはできません。正当に、ではなく、まっとうに、です。ここで、文学的アフォリズムをおゆるしください。人間の一生とは、若いときにつけた傷を、生涯さすっていくことである。その傷が、私にとって、『豊饒の海』をはじめとした三島由紀夫の文学なのです。
傷つけられたといって、非難し、憎むことは当然かもしれません。大げさにいえば、三島由紀夫を読んだことが、生涯の汚点だと。しかし傷つけられるとはどこか甘やかなことではありませんか。その甘やかさが、私を今のように生かしていることも確かなのです。私は、生を憎みません。
輪廻転生の物語である、『豊饒の海』は、若者の物語です。私はさいきん読み返して、それが同時に老人の物語であることにもやっと気がつき、苦々しさを覚えました。ですがそれはいまさらの不快感です。あなたの感じたいやらしさとは、もっと何か微妙なものでしょう。
私のこのじめじめとした追及は、私が崇拝しているものにケチをつけられた怨嗟から生じているのではないことは、先ほど書きました。三島由紀夫がいかに否定されようと、私の傷が癒えることも、拡がることもないのですから。また、傷の形状や傷の具合をさぐることもしません。さっきの出来の悪いアフォリズムに則れば、傷は、詮索するものではなく、さすりつづけるものです。ちなみに、私は人前でさすりません。ある種の本を読んでいるときさするのです。
あなたは、嫌いだからこそ、けっこう三島由紀夫を読んでいますね。嫌悪から読む。それは、文学の詐術にとりこまれているともいえます。それが私には面白い。あなたは三島に騙されていない。ですが文学に騙されている。これは、レトリックです。「何かを否定するために読んでも、読むことで文学は力を増す」。これは、あなたが以前書いたことでしたね。
わかった気がします。私たちは、文学自体に、屈折した思いを抱いている。傷とか、癒やしとか、そうではなくて、文学に身をさらすとはどういうことか、体験したあとで、懸命に、それを言葉に成そうとしている。
三島由紀夫に対する、根底からの嫌悪、と書きました。その奥に、文学に対する、根底からの、何があるのか、それを私は聴きたい。私は三島を含めた、私の読んだ、体験した文学をとおして、それを拒否しないまま、文学をさぐりたい。
あなたには、私とは違う考えがあると思うのですが。