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『檸檬』の舞台

作者: エチュード

 丸善は明治2年に創業され、京都支店は明治5年にできたそうだ。その後一度閉店した後、明治40年には三条麩屋町で再び開店した。そこでは洋書の他に、万年筆やタイプライター、ヨーロッパから輸入された高級石鹸や香水、バーバリーのコート等が売られていたという。その時代に洋書や輸入物の香水などが、置いてある店はあまりなかっただろうから、店舗と言っても特別な存在だったことが想像される。


 小説『檸檬』に出てくるのが、三条麩屋町にあった店である。『檸檬』の主人公もその丸善が好きで、彼はそこで「赤や黄のオードコロンやオードキニン、洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀や翡翠色の香水瓶、煙管、小刀、石鹸、煙草」「そんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった」

 ところが、彼の心を不吉な塊が始終圧えつけるようになった。そのせいで、以前彼を「喜ばせたどんなに美しい音楽もどんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった」その頃の彼は「みすぼらしくて美しいものに強く引きつけられ」るのだった。もうその頃の彼にとっては、丸善も重苦しい場所に過ぎなくなっていた。それで、彼は「始終街から街を浮浪し続けていた」

 そんな彼の目に留まったのが、寺町二条の角にあった果物屋だった。「決して立派な店ではなかったが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感じられる店であった」小説にその名前は出て来ないが、八百卯という名前の店だったようだ。


 この八百卯は2009年に閉店しているのだが、私はそれ以前にその果物屋の近くを通ったことがあった。夕方だったが、天気が良くないせいか薄暗かった。店を横目に見ながら歩いていると、自分が今見ている果物屋は、『檸檬』に出てくる店ではないだろうかと、ふと頭に浮かんだのだ。というのは果物屋について「寺町通はいったい賑やかな通りで飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ」という描写があったのを、うろ覚えに記憶していて、その描写どおりの光景が目の前にあったからだ。

 

 作者の梶井基次郎は、作家であり詩人となっている。他の作品においてもそうだが、この『檸檬』などは特に、詩のような雰囲気を感じさせる作品だと個人的に思っている。短編でもあるので、何度も読んでいると、そこここの文章を知らず知らずのうちに、憶えてしまっていることもある。それで、件の店の傍を通っている時に丁度、果物屋の様子を書いた部分を思い出したのだ。後になって確かめてみたが、やっぱりその店は八百卯だった。かなりの時を経ているのに、雰囲気は全く変わっていなかった。京都の町も年々変化しているが、ちょっとした街並みの隙間に、思いがけず古い時代の名残を、見つける偶然もあるのかも知れない。

 

 果物屋で檸檬を一個買った主人公は、それまでと違って幸福な気分を味わうことになる。それで、「平常避けていた丸善へやすやすと入れるように思い」「ずかずかと入って行った」のだ。すると、「幸福な感情が次第に逃げて」行き、「憂鬱が立て込めてくる」のだった。

 やがて彼は、以前あんなにも自分を引きつけた画本を次々に取り出しては、克明にめくっていく気にはなれず、元の場所に戻すこともしないで積み上げていく。さんざん積み上げた後で、彼の脳裏に浮かんだのは、持っている檸檬をその本の山の上へ「据え付け」ることだった。そして、作り上げた光景に満足した彼は、まるで爆弾でも仕掛けたかのような興奮を覚えながら、店を出て行くのである。

 

 短編小説『檸檬』は、大正14年(1925年)発行の同人誌『青空』に掲載された。三条麩屋町の店は、1940年に河原町蛸薬師へ移転したが、2005年に閉店となったようだ。私は知らなかったのだが、閉店決定後には、閉店を惜しむ多くのファンが、本の上に檸檬を置き残す様子が話題になったらしい。「檸檬」が世に出てから80年も過ぎてのことだ。

 それから10年後の2015年に、今度は河原町三条での開店となった。その時にも、テレビのニュースなどで話題になっていたので、私も足を運んでみた。檸檬のコーナーが設けられていて、『檸檬』は勿論、紡錘形のレモンも、カゴに盛られて置かれていたのを憶えている。

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