白い結婚をした気弱で後ろ向きな「私」は、夫を捨てて好きに生きることにした。
雲間から覗く満月を窓辺で見上げながら、クリスはため息を漏らす。
クリスは訳あって、双子の姉の代わりに名門公爵家に嫁いだ。そして気づけば、邸に来て三週間目の夜を迎えていた。
新婚夫婦にとって夜の営みは大切な儀式だ。しかし、クリスには全く関係のない話であった。
何故なら、クリスと夫であるローレンスは愛のない政略結婚をしたからだ。
ローレンスは、そもそも最初から妻を娶りたいと思っていない。出来ることなら、一生独身でいたかったと言っているくらいなのだから。
とはいえ、仮にも名家の当主が独身なのは何かと都合が悪い。だから、お飾りの妻が欲しかったのだろう。
ローレンスはこう宣言していた。クリスを愛することは絶対にないと。跡継ぎに関しても、弟の子供が爵位を継ぐから問題ないそうだ。
つまり、表向きは夫婦だが実際には他人同士ということなのである。
現に、ローレンスはあまり家に帰って来ないし、顔を合わせてもほとんど会話を交わすことはない。
なので、クリスは彼の人となりをよく知らないのだ。
(まあ、別にいいけどね)
そう、夫についてはどうでもいい。それどころか、寧ろ興味がない。
ただ、クリスとしては少し困ったことがある。それは、「できる限り、地味な格好をしろ」と強要されていることと、邸に軟禁状態になっていることである。
(……仕方ないか)
ここで逆らうと、追い出されかねない。それに、もし追い出されたら実家である伯爵家の面目も丸潰れだ。
だから、言われた通りに大人しく邸で待機しているのだ。
クリスは、美しく聡明な双子の姉──エルミーナと比較されて育った。幼い頃からずっとだ。
お陰で、両親からは最低限の教養以外は要らないと言われ高等部に進学させてもらえず、服だってろくに買い与えてもらえなかった。
エルミーナと同じようにドレスを着たいと懇願しても、「お前は駄目だ」と言われ枕を濡らした夜もあった。
挙句の果てには、「一族の恥」と罵られる始末だ。兄弟たちもそんな両親に同調し、あからさまにクリスのことを見下していた。
そのせいか、クリスはいつの間にか自分のことをひどく卑下するようになってしまったのだ。
その結果が今の状態──政略結婚の身代わり花嫁である。
当初、ローレンスは「誰でも良いから、女を嫁がせてほしい」と手紙を寄越してきたらしい。
クリスには、双子の姉の他に兄と妹がいる。しかし、妹はまだ八歳なのでとてもじゃないが嫁げるような年齢ではない。
相手は仮にも名門公爵家の当主。本来ならば、教養のある優秀なエルミーナが嫁ぐのが妥当なのだ。
しかし、彼は女性に対する扱いがぞんざいで社交界での評判がすこぶる悪いため、エルミーナも「そんな殿方と結婚するなんて、絶対に嫌ですわ!」と言って猛抗議をしたのである。
愛娘であるエルミーナが「結婚したくない」と言えば、両親はそれを受け入れざるを得ない。
とはいえ、事業がうまくいかず傾きかけた伯爵家を立て直すには公爵家からの経済的支援が必要だ。
つまり、他に身代わりに最適な人間がいない以上、クリスが犠牲になるしかなかったのだ。
自己肯定感が低いとはいえ、クリスにも周りの令嬢たちと同じようにドレスを着たり化粧をしたりといった華やかな生活に憧れがなかったわけではない。
だから、嫁ぎ先では綺羅びやかなドレスを着ることが許されるかもしれないという淡い期待が心のどこかにあったのだ。しかし、その夢は無惨にも打ち砕かれてしまった。
(ローレンス様は、きっと私がエルミーナの身代わりだと気づいているんだ……)
もしそうなら、ここまで冷遇を受けているのにも合点がいく。
ここに嫁ぐ以前、クリスはローレンスに姉の身代わりだということを悟られないように徹底的に貴族としての教養を叩き込まれた。
短期間で行われたためほぼ突貫工事のようなものだったが、クリスは元々物覚えが良かったため、すんなりとそれらを身につけることができた。
両親からも「記憶力が良いのがお前の唯一の取り柄だ」と言われたくらいだ。
実際、クリスの立ち振る舞いは完璧だったし、感づかれる可能性は低いはずなのだが……。
(今後、もっとひどい仕打ちを受けることになるかもしれない……)
クリスは日々、頭を悩ませていた。
そんなクリスの唯一の心の拠り所は、読書であった。
最近よく読んでいるのは、婚約者に裏切られたある貴族令嬢が一念発起して仕立て屋を経営し、どん底から這い上がっていくサクセスストーリーを描いた小説だ。
「裁縫、か……」
本を読みながら、クリスはぽつりと呟いた。
そういえば、クリスは昔から縫い物が好きだった。刺繍をしたりレース編みをしたりするのが得意だったし、学院で手先が器用だねと褒められたこともある。
不意に、クリスの頭にある考えがよぎった。
(服を買い与えてもらえないなら、自分で服を仕立てればいいのかも)
自分で縫ったものなら、どんな出来であろうとも愛着があるはずだ。
そう思い立ったクリスは、早速、使用人の部屋に忍び込んで布地を探し始めた。
使用人が使うものなだけあってどれも地味だったり古臭いデザインのものばかりだ。それでも諦めきれず、あちこち探した結果ようやく上質そうなコットン生地を見つけた。
(これだけあれば、足りるかな?)
試作でシンプルなブラウスを作るだけだから、恐らく問題ないだろう。
そう思ったクリスは、裁縫道具を持って急いで自室に戻った。
そして、裁断をするためにハサミを手に取り、いざ服を作ろうとしたのだが──。
(……うーん、どうすれば綺麗に見えるのかな)
いざ始めてみると、これが意外と難しい。特に肩口がどうやったら美しく見えるのか分からず試行錯誤を繰り返した。
そうやって何度も失敗した末、ようやく満足の行くものが出来上がった頃にはすでに真夜中になっていた。
だが、これで一応形になった。クリスはその晩、ベッドの中でそれを眺めながらどうやってコーディネートしようかと思いを馳せることにした。
翌朝。朝食を済ませたクリスは、昨日作った服を着て街に繰り出すことにした。
こっそり邸から抜け出すと、小一時間ほどで何とか王都に到着した。クリスは、早速気になったブティックに入る。
(わあ、可愛い……!)
思わず、感嘆の声を上げそうになる。
店の中にはたくさんの美しいドレスがあった。まるで花畑にいるような気分になるほど鮮やかで、色とりどりなドレスにクリスは目を輝かせる。
本当は、気に入ったドレスを買って帰りたい。けれど、クリスは現金を持ち合わせていないし、そもそも持ち歩くことすら許可されていない。
一般的な貴族の夫人は、もし出先で気に入った商品を見つけたら執事や侍女を通して購入するのだろう。
けれど、もしクリスが同じことをすれば店で服を買ったことがローレンスにばれてしまう。
(……残念だけど、諦めよう)
しかし、折角来たのだから少しくらい楽しんでもいいだろう。
「ねえ、そこのあなた」
「は、はい!」
突然声をかけられ、クリスは素っ頓狂な声を出してしまう。振り返ると、そこには妖艶な雰囲気を纏った美しい女性がいた。
年齢は、クリスより少し年上──十八歳ぐらいだろうか。
「あなたが着ているブラウス、とても素敵ね」
「え? あ、ありがとうございます……」
褒められるとは思っていなかったため、つい顔が綻ぶ。
「どこのお店で買ったものなの? よかったら、教えてくださらない?」
「え、えーと……」
まさか、自分で縫って作りましたとは言えずクリスは返答に詰まってしまう。
「ごめんなさい。言いたくなかったかしら」
「い、いえ……! そういうわけでは……」
身なりから察するに、恐らくこの人はどこかのご令嬢に違いない。
後ろには侍女とおぼしき女性も控えているし、間違いないだろう。クリスは冷や汗をかいた。そしてあれこれ悩んだ末、結局本当のことを言うことにした。
「じ、実は……私が作ったんです」
「あら、そうだったのね! 凄いわ!」
「……え?」
意外な反応にクリスは目を見開いた。すると、女性はいきなり提案をしてきた。
「もしよかったら、今度私にもお洋服を仕立ててくれないかしら? もちろん、お代はきちんと支払うから」
それを聞いてクリスは目を剥いた。
「わ、私がですか!? でも、私なんかに貴族の方がお召しになるようなものが作れるかどうか分かりませんし……」
「大丈夫よ。私は、そんなことは気にしないから。そうだ、よかったら名前を教えてくださらない?」
女性は、興味津々といった様子で尋ねてきた。
クリスは戸惑いながらも、答えない訳にはいかないと観念して小さな声で名前を告げた。
「……クリスです」
「へえ、クリスって言うのね。私はアデラよ。実は隣国から観光に来ていて、暫く滞在する予定なの」
どうやら、彼女は旅行中らしい。
「今、泊まっているのは王都の有名なホテルでね……」
そう言って、アデラは自身が泊まっている宿の名と住所が書かれたメモ書きをクリスに手渡した。
「そのホテルに行けば、アデラ様にお会いできる……ということでしょうか?」
クリスが尋ねると、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。
「ええ。夕方以降なら大体そこにいるから、着いたらホテリエに伝えて。きっと、部屋まで案内してもらえると思うわ」
「は、はい」
クリスがそう返すと、アデラは「それじゃあ、楽しみに待っているわ」と言い残して侍女とともにご機嫌な様子で去って行ったのである。
一方、残されたクリスはまだ驚きで胸が高鳴っていた。
まさか、あんな風に頼まれるとは思ってもみなかったので嬉しさと困惑が入り混じっている。
(……こんなに嬉しい気持ちになったのはいつ以来だろう)
その日──ほんの少しだけれど、クリスは自信が持てたような気がした。
***
数日後。
ローレンスは仕事が立て込んでいるらしく暫く王城に泊まり込むとのことだったので、クリスは例のごとく邸を抜け出し、先日アデラに貰った紙に書かれた住所を頼りにその高級ホテルに向かった。
ホテルに到着すると、クリスは入口付近に立っていたホテルマンに声を掛けてアデラに会いたい旨を伝えた。すると、彼はすぐに支配人を呼びに行った。
暫くして、先程のホテルマンが支配人を連れて戻ってきた。そして、「どうぞこちらへ」と言ってクリスをアデラが泊まっている部屋へと案内してくれたのである。
「失礼します」
恐る恐る扉を開けると、部屋の中央にある椅子に座って本を読んでいたアデラが顔を上げた。
クリスの姿を目にするなり彼女はすぐに立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「クリス! 来てくれたのね! 嬉しいわ!」
「こ、こんにちは。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
クリスがぺこりとお辞儀をすると、アデラがくすっと笑う気配が伝わってきた。
「それじゃあ、早速で悪いのだけれど……まず、採寸をお願いできるかしら?」
「はい」
そう返事をして、クリスは彼女の後ろに立つとメジャーを手に取った。
次の瞬間。アデラは躊躇うことなく服を脱ぎ、下着だけになった。
(わっ……!)
クリスは、慌てて視線を逸らそうとしたものの目が離せなくなってしまった。
というのも、思わず感嘆の声を上げそうになるほど彼女の体が美しかったからだ。
女性らしい豊かな膨らみに、くびれた腰。そのどれもこれもが自分のものと違っていて、まるで美術館に並ぶ彫刻のように美しく整っている。
均整の取れた体つきに、クリスは思わず見惚れてしまう。
(……いけない。早く測らないと)
クリスは、気を取り直して採寸を始めた。
採寸が終わると、今度はドレスのデザインについて話し合うことになった。
「そうね……色は青系が好みなのだけれど、デザインは貴女に任せようと思っているわ」
「私がデザインしてもよろしいんですか……?」
「もちろんよ。貴女のセンスで作って欲しいの」
クリスは感動に打ち震えた。こんなにも、自分に期待を寄せてくれる人がいるなんて。
(絶対、素敵なものに仕上げないと……!)
クリスは決意を固め、ドレスのデザインを考えることにしたのだ。
(今日はすごく楽しかったな……)
アデラと別れたクリスは、意気揚々と帰路についた。
こうして、クリスのドレス作りがスタートした。
ドレス作りを進めつつ、ローレンスがいない時を見計らってアデラが滞在しているホテルに打ち合わせに行く──という生活を暫く続けているうちに、あっという間に数週間が経過していた。
そして、ついにドレスが完成した。
途中で思わぬアクシデントがあったりと色々あったものの、結果的にとても良い仕上がりになった。
「お待たせいたしました。こちらが、出来上がったドレスでございます」
クリスは、アデラに完成したドレスを手渡した。
「まあ……! 素晴らしいわ!」
ドレスを受け取ったアデラが歓声を上げた。
クリスが仕立てたのは、淡いブルーのドレスだ。胸元にボリュームのあるリボンがついているためか、清楚な中に可愛らしさもあるデザインになっている。
ウエスト部分は絞りつつ、スカートにたっぷりと布を使っている。ふんわりとしたシルエットに仕上がるように、工夫をしたのだ。
「素敵だわ! この短期間でこんなに凄いドレスが作れるなんて、まるで魔法みたい!」
「恐れ入ります」
クリスは恐縮して頭を下げた。
「もしよかったら、私専属の裁縫師にならない?」
突然の申し出に、クリスは大きく目を見開いた。
「え……?」
もったいないぐらいの言葉を掛けられ、言葉を失う。
「もし、あなたさえよければの話だけれど……」
「でも……」
クリスは言葉に詰まる。冗談で言ったわけではなさそうだし、恐らくアデラは本気なのだろう。
しかし、自分はローレンスと政略結婚をしているうえ、この国から一歩も出られない。
本当は彼女の下で働きたいが、それは叶わない願いだ。
「身に余る光栄ですが、私は……」
「そ、そうよね……ごめんなさい、突然変なこと言って」
アデラは残念そうな顔をした。
「いえ……でも、私なんかよりもっと才能のある方がたくさんいらっしゃいますから」
そう返し、クリスは苦笑した。
「今日は本当にありがとう。もしよかったら、また遊びに来てちょうだい」
「はい。こちらこそ、ありがとうございました」
クリスは深々とお辞儀をすると、帰路についたのだった。
邸に到着し、いつものように庭園を通って裏口へ向かおうとしたところで、クリスは足を止めた。
(……あれ?)
ふと、話し声が聞こえてきたような気がしたのだ。
不思議に思って声が聞こえてきた方向に視線を移すと、そこにはローレンスと見知らぬ女性がいた。
女性はフード付きのローブを着ているため、顔は見えない。
(ローレンス様……? 一緒にいる女性は、一体誰だろう……?)
二人は親しげに話しており、クリスの存在には気づいてないようだ。
暫く様子を窺っていると、やがて女性はフードを脱いで素顔を晒した。その瞬間クリスは、はっと息を呑む。
(あの女性って……もしかして……)
間違いない。彼女は、この国の王妃であるアイリーンだ。
(どうして、王妃様がこんなところに……?)
クリスが呆然と立ち尽くしている間にも、二人の会話は続いていた。
「久々に、会えて嬉しいわ」
「僕もですよ」
そう言って二人は抱擁を交わしたかと思えば、そのまま唇を重ねた。
「……!?」
クリスは思わず目を疑った。
(そんな……ということは、王妃様は不貞を……? しかも、相手はローレンス様だったなんて……)
その瞬間、クリスは全てを悟った。
ローレンスが白い結婚を望んでいたのは、王妃アイリーンとの関係を隠すためだったのだ。
確かに、妃と関係を持っているとなれば大スキャンダルになる。
だから、ローレンスはあえて日頃から女性に対して冷たく振る舞い、「あの公爵は女性不信だ」という噂が流れるように仕向けたのだ。
噂が広まれば、自分に疑いの目を向ける者はいなくなる。王妃との密会もやりやすくなるだろうし、一石二鳥というわけだ。
嫁いできたクリスに対してわざとらしいくらい冷たく当たっていたのも、きっと噂に真実味をもたせるためだろう。
クリスは音を立てないように細心の注意を払いながら、その場を離れたのだった。
***
一週間後。
クリスは迷っていた。何故なら、今日は王都に滞在していたアデラが自分の国に帰ってしまう日だからだ。
アデラは「もし、気が変わったらぎりぎりでもいいから来てちょうだい」と言ってくれたのだが、クリスはどうするべきか決めかねていた。
(本当に、このままでいいのかな……)
そう自問自答した。クリスは、今まで汚い大人たちに散々利用されてきた。
クリスが内気で口答えができないのをいいことに、みんなやりたい放題だったのだ。
そんな中、アデラのような素晴らしい人物と出会えたことは奇跡に近い。
このまま何も行動しなければ、自分は一生後悔することになるのではないか。クリスは悩んだ。
(私は──)
クリスの中で、様々な思いが入り乱れる。
だが、気づけば──トランクに荷物を詰め、邸から飛び出していた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を切らせながら、必死に走る。もう二度と、彼女に会えないかもしれない。そう思ったら、居ても立っても居られなかった。
駅に着くと、すでに汽車の出発時刻が迫っており、乗客の姿もちらほらと見えた。
その中にアデラの姿を捉えたクリスは、慌てて声を上げた。
「アデラ様!」
「え……? クリス!?」
アデラは面食らったのか、大きな目をぱちくりと瞬かせている。
「あの……」
いざとなると、なかなか言い出せない。
クリスはごくりと唾を飲み込むと、意を決して告げた。
「私……アデラ様に付いていきたいです!」
アデラは驚いた様子だったが、すぐにクリスのもとに駆け寄り優しく抱きしめてくれた。
「嬉しいわ。もちろん大歓迎よ!」
「アデラ様……!」
クリスは涙を浮かべると、アデラを抱きしめ返した。
こうして、クリスは生まれて初めて『自分の意思』で道を選んだのである。
***
汽車に乗ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。
クリスは隣に座っているアデラにある事を切り出そうとしていたのだが、なかなか言い出せずにいた。
そうやって暫く悩んだ末、クリスは意を決して口を開いた。
「あの、アデラ様。お話しておきたいことがあるのですが……」
「どうしたの? 改まって」
不思議そうな表情で見つめてくる彼女に、クリスは躊躇いがちに言葉を続けた。
「……実は私、男なんです」
──そう、何を隠そうクリスの性別は男性なのだ。
だが、幼い頃から可愛いものや綺麗なものが好きで、周りの令嬢たちと一緒に人形遊びをしたり女性物の服にばかり関心を向けていた。自分のことを『僕』と呼ぶのが嫌で、ずっと『私』と呼んでいた。
それ故、両親から気味悪がられ虐げられていたのである。
容姿に関しても、十六歳になった今でも双子の姉であるエルミーナと瓜二つで、一見すると女性にしか見えない。そのうえ、声まで中性的だから、まず初対面の人間には男だと見抜かれたことがなかった。
だからこそ、両親はここぞとばかりにクリスを政略結婚の駒にしたのだろう。『白い結婚』なら夜の営みをする必要もないし、余程のことがない限り相手に悟られないからだ。
とはいえ、いくらクリスが女性にしか見えないと言っても、国には男児として出生を届け出ているはずだ。それがどういうわけか、ローレンスとの婚姻が認められてしまった。
これについては恐らくだが、両親が一枚噛んでいるのだろうとクリスは睨んでいた。きっと、あの二人が何か工作をしたに違いない。
そんなことを考えつつも、クリスはアデラの返答を待つ。
「あら、そうなの」
彼女は、拍子抜けするほどあっさりとそう返した。
「え!? そ、それだけですか!? 私、一大決心をして打ち明けたんですよ!」
「何? もっと驚いてほしかったの? でも、そっか……それなら、私と結婚できるわね。この際だから、私と結婚しない?」
アデラの突拍子もない提案に、クリスは目を見開いた。
「えぇ!?」
「クリスは気にしているかもしれないけれど……男だろうが女だろうが、そんなことはどうだっていいのよ」
そう言うと、アデラはクリスを見据えながら言葉を続ける。
「ドレス作りに妥協せず真剣に取り組む姿勢や、最後までやり遂げる精神力──私はね……あなたのその真っ直ぐな心に惹かれたの」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、クリスの目からぽろりと一筋の涙が零れ落ちた。
今までずっと、クリスは誰かから必要とされたかった。愛されたかった。
でも、そんな願いは一生叶わないと思って諦めていた。だから、こんな風に言ってもらえるなんて夢にも思わなかったのだ。
──クリスにとって、これ以上ないくらい幸せな瞬間だった。
「ああ、でも安心して。さっきの話は冗談よ。つまり、結婚したいくらいあなたのことを買っているって意味だから」
そう言って、アデラは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
クリスはその一言にほっとしたような、残念だったような、複雑な気持ちになった。
そして、気づいたのだ。クリス自身もまた、アデラに対して特別な感情──それも、恋にも似た感情を抱いているということに。
幼い頃から、クリスは自身の性別に違和感を覚えていた。だから、『心の性別』に合わせるなら、男性を好きになるべきなのかもしれないけれど──。
やがて、汽車はゆっくりと速度を落とし始めた。
そろそろ、到着時間のようだ。
「さあ、降りる準備をしましょう」
アデラがそう促した直後、汽笛が鳴った。いよいよ、新しい人生の始まりだ。
十年後。
アデラ専属の裁縫師となったクリスは、修行期間を経てやがて自分の店を構えた。
クリスが経営する仕立て屋は、注文が殺到するほどの大盛況だ。
というのも、クリスがデザインしたドレスはどれも素晴らしく、貴族の間で大人気となっているからである。
クリスは毎日せっせと仕事に励んでおり、店を手伝ってくれているアデラや従業員達とともに充実した日々を送っていた。
ローレンスやクリスの家族がその後どうなったのかというと──。
風の便りによると、クリスが失踪して間もなくしてローレンスの立場は危うくなり、今ではすっかり没落してしまったらしい。
そればかりか、王妃との関係が明るみに出て牢屋に入っているという噂まである。真偽の程は不明だが、もし本当なら自業自得以外の何物でもないだろう。
そして、クリスの実家である伯爵家は、ローレンスからの経済的な支援を受けられなくなり一家全員で路頭に迷うことになったのだとか。
傍から見たら、クリスは家族を見捨てた裏切り者だ。けれど、全く後悔はしていない。
(だって……もしあのとき行動を起こさなければ、きっと等身大の『私』を受け入れてくれる大切な人たちに出会えなかっただろうから──)
そう思いつつ、クリスは開店準備をしているアデラ達のほうを見やる。
視線に気づいたのか、アデラが振り向いた。クリスは思わず頬を緩ませる。そして、小声で呟いた。
「……アデラ様、ありがとう。大好きです」
「え? 何か言った?」
「いえ、何でもありません!」
首を傾げるアデラに、クリスは慌てて誤魔化す。
すると、彼女は「変な子ね」と言いながらも、優しく微笑んでくれた。