戸惑い
それぞれの自室でちひろも大和も眠れない夜を過ごした。世界で気になる人が同じ家にいる。自分の部屋から思い切って飛び出して相手の部屋に行って何かを言えたら。そんな思いしか思い浮かばない。
「しかし、その何かを言うのはなんて言葉をかけていい?」
メメは「私の出番か?」という顔で大きなあくびをした。
午前六時の目覚まし時計がなった。知らないうちに眠っていたみたいだ。メメはちひろの体の上に乗ってご飯の催促をしていた。
「わかったよ。ちょっと待ってて、今ご飯を取りに行くから。」ちひろはパジャマにガウンをひっかけて自室を出た。メメは一目散にキッチンに駆けていった。
キッチンからコーヒーの香ばしい匂いがして、大和がいることを知った。
「おはよう。メメのご飯?」
「おはようございます。はい、私が起きるまで絶対にあきらめないしつこさに負けました。」
「コーヒー飲む?君は紅茶党だったっけ?」
「お子様だから。」
「カフェラテも作れるよ。飲んでみる?」
「ご迷惑でなければ。」
「僕は人のために何かを作るのが好きなんだ。報酬はその人の笑顔。」大和は口を動かしながらも牛乳を温めた。「はい、どうぞ。」
「美味しい。」
「人参で作ったマフィンもあるよ。食べてみて。」
「人参の甘味が出てますね。すごく甘いわけではなくて程よい甘さが素敵。」
「うれしいな。ただの美味しいよりもちゃんと味わってくれている。作るものにとってそれは最高の祝辞だよ。」
「仕事は何時から始まるのですか?」
「今日は午後から。そうだ。そろそろ伝票がたまってきた。仕事をお願いする。」
「はい。」
「勤務時間は僕が留守の間。昼食をここで取るつもりだから君も一緒に食べてもらうよ。これは仕事のうちでもあるから。」そういって大和は優しく笑った。
「私を太らせるつもりですか?」ちひろも笑いながら答えた。
「君はもっと太っても誰も文句は言わない。ちなみに昼は煮込みうどんにしようと思ってる。大丈夫?」
「もちろん大丈夫です。でも、仕事を始める前に疲れてしまうのでは?」
「僕と同じ職業についている人の中には仕事を離れたら一切料理はしないという人もいるけれど僕は違う。時間さえあれば作っているよ。アイデアがどんどん湧いてくるんだ。」
「本当に好きなんですね。素敵です。」
メメはそこで大きく鳴いた。小皿にはきれいになめられていていかにも食べたりないから催促の一鳴きだった。
「メメには鶏むね肉のハムを上げよう。」そういうと冷蔵庫から鳥ハムを取り出して食べやすいようにハムを切った。
「私、着替えてきます。」そういうとそそくさにキッチンを後にして自室に戻った。
キッチンに戻ると誰もいなかった。窓からメメが自分の縄張りで日光浴を楽しんでいる。大和がどこにいるのかわからなかったが、ちひろはメメに倣って庭に出た。
確かに日光は暑くもなく爽やかな風が吹いている。遠くから聞こえてくる、車が走る音、子供の泣き声、陶器類が壊れる音、すべてがハーモニーになって耳に届く。
横目でメメを見るとそそくさと体をなめてきれいにしている。何もかもがうまくいき、このまま永遠に続けばいいのにとちひろは思った。
「こんな思いをつい最近にもなったことがある。私は前世猫だったのかもしれない。飼い猫で自由があってその日ぐらし。でも前世の私は愛されていたのかしら?」
「また不必要な考えを持ったな。昔のことも見えない未来のことも大事なことじゃないんだ。昔のことは変えられないけれど、今何をするかによって未来が変えられる。気が付かないだけでチャンスは与えられているんだ。そのチャンスをすべて逃してしまうつもり?自分の思ったこと、感じたことを行動にすればいい。それでだめだったら次にいけばいい。そう思わないかい?」
「私の行動に不満があるのね。」
「当り前さ。見ているとイライラしてくるよ。言葉がわからなかったらまっすぐに飛び込めばいい。」
「そういうことができたら苦労はしないわ。後でいろいろと考えてしまうから。」
「だからそういうのが不必要なんだ。彼の気持ちもわかっているんだろう?だったらなぜ進まないんだ。進まなければ何も変わらない。変わりたいんだろう?」
「怖い。それだけ。私は幸せになってはいけない気がする。」
「この機会を逃したら二度と来ない。自分を、相手を信じて前進あるのみ!」
「メメ、ありがとう。そしてこんな女でごめんね。」
メメは目をつぶりあくびを大きくすると、また眠るために頭を低くした。
ちひろはそれを見てそろそろ仕事も時間かなと思い腰を上げた。