頼れる人は・・
「もしもし。夜分遅くにごめんなさい。どうしても話しておかなくてはいけないことができて。これから家に行ってもいいですか?」
「うん、大丈夫だよ。大きな問題でなければいいけれど。」
「5分で行きます。」ちひろはそう言って電話を切るとコートをひっかけてサンダルのまま大和の家へと向かった。
大和はスウェットにジーンズとラフな格好をしていた。部屋の照明は落としてあり、レコードプレーヤーで曲を聴いていたのかレコードがそのままになっている。
「何か飲む?」大和の問いかけにちひろは首を横に振った。「とにかく腰かけて。今日はメメと一緒ではないんだね。」
「すぐにお暇するつもりだったから。」
「そうか。じゃあ、話をしておかなくてはいけないこととは何だね?」
「今日、大家から手紙が来ました。家賃値上がりの知らせです。今でもきついのにこれ以上上げられたら・・」
「いくら?」
「4万5千。値上がりして5万になるそうです。」
「君は今住んでいるところは気に入っている?」
「駅から近いし、あなたの家にもすぐに行けるし。ほかの場所に移るにしても先立つものがなければ引っ越しもできない。」
「僕のところに来ないか?客用の部屋を使えばいい。家賃はいらない。当然ライフラインの支払いも不要になる。君は働いた分だけ自分の好きなことに使える。例えば今ではあまり見られなくなった病気の治療代とか。」
「ご迷惑では・・」
「全く問題がないね。共有部分は台所ぐらいかな?トイレやバスルームも客用の部屋の隣に備えてある。だから僕たちは家の中でも会わないと思えば会うことはないと思う。どう? 君次第だよ。」
「返事はいつまでが良いですか?」
「僕はいつでも構わない。君のほうが大家とのかみ合いで早いほうが良いのでは?」
「お願いします。急にこんな話を持ち出した上にグッドな提案までもらってしまって。ありがとう。」
「話なんて言うから僕が出している事務をやめたいと言い出されるのかと思った。内心ひやひやしたよ。人間はひとりで生きているつもりでも本当はひとりでは生きてない。どこかで誰かとつながっている。それが形になって見えるか見えないかだけなんだ。でも人はその人のことなど対して見ていない。だからこそ、こみにゅケーションという言葉を使って情報をキャッチしてそれを何とかしようと試みる。君は僕じゃないし、僕は君じゃない。だからこそ何かあったらすぐにでも教えてほしい。人のために役に立つことは自分に返ってくる。と僕は思っている。」
「そうですね。明日さっそく大家に連絡を入れて退去します。」
「そうだ。君に鍵を渡していなかったね。鍵があればいつでも引っ越しはできるから。ただし、あまり頑張りすぎてへばらないこと。どうも君は休憩という文字が嫌いらしいから。」そういうと大和は笑った。「メメのトイレのことは僕にはよくわからない。君専用のトイレなり浴室にトイレの場所を置いてもらえればいいから。」
「ありがとうございます。メメのことまで気にかけてくれて。」ちひろはそういって軽くお辞儀した。
「あ、そうそう。客人用の部屋は鍵がかかるようになっている。いわゆる内鍵というやつだ。したがって君が在室しているときは内鍵をかけるといい。それと僕の職業柄、人を呼んだりすることはない。だから締め切っていれば外の騒音からも遮断されてまるで図書館にいるみたいになるよ。神経を病んでいる人は案外と音に敏感だったり、匂いに敏感だったりするからね。匂いといえば、休みの時に料理を作ったりする。意欲が出てくるんだ。これも一種の職業病かな。だから時々君が良ければだけれど味見をお願いしようと思っている。」
「何を作るんですか?」
「いろいろとだよ。和洋菓子、パスタ作りを原料を変えて小麦粉アレルギーに売って変わるもの。ベジタリアン用にどうやったらおなか持ちのできる肉もどきを作る。」
「すごいんですね。本当に料理が好きなんだ。」
「この話はいくらでもできるけれど、今はその時間じゃない。あまり長居をするとメメが心配するよ。退去手続きがうまくいきますように。」
「ありがとうございます。手紙が来て一人でパニックになってメメの後押しがなかったらあなたに相談することさえも思いつかなかった。」
「へえ、メメはちひろさん思いなんですね。猫でも人でお誰かを思う気持ちは変わりないか。ちひろさんと話をしていると勉強になることが多いですよ。」
「私なんか・・」
「否定はよくない。あなたが生まれたのは意味がある。人や動物に影響を与え、与えられうだうだしているなと思いながら前に進んでいるんです。僕もそうだから人のことは言えないけれど、すべての出会いに感謝してすべての言動を後からゆっくりと考える。言葉は多面性だ。言った人と聞いた人では今までの経験や環境から違った意味合いになってくる。誰もが一面性しか持っていなければどこでも誰でも交わらない。もしかしたら反対のことを言ってたのかな?違った環境で見ると意味が違うものになってくるだろうなとね。あなたも僕もこの件で一歩前進しました。どこがどうとはっきりと言えないけれどこれだけは確かです。さ、もうそろそろおかえりなさい。帰り道気を付けて。」
ちひろは大和にお辞儀をしてからしぶしぶとその場から離れた。
「明日から、素晴らしい快晴が待っている。」ふと頭の中に浮かんだ言葉だった。