壁を建てる
葵生りんさん主催「ELEMENT」2017年春号参加作品。
男は、来る日も来る日も、壁を建てていた。
雨の日も、風の日も。
カンカン照りの暑さにも負けず、凍てつくような寒さにも負けず。
男は、毎日毎日、壁を建てていた。
☆
かつて、彼はこの辺りの権力者だった。
大金持ちで、傲慢で。
勿論、誰も彼に逆らうものなどいなかった。逆らおうものなら、その土地から出て行かねばならなくなるからだ。
だが、ある日のこと。
彼は事業に失敗し、ほぼ無一文になった。
それは、齢60代なかばの、人生の終盤にさしかかった頃のことだった。
彼に残ったのは、一人で住むには広すぎる屋敷と、先祖の残してくれた広大な敷地だけ。
カネの切れ目が縁の切れ目とは、よく言ったものである。こうなるともう、誰も彼には見向きもしなくなった。
あれほどたくさんいた屋敷の使用人も、すべていなくなった。
若くて美人――それが自慢の妻も、ついと姿を消した。
温かい食べ物の匂いがしなくなった家に見切りをつけたのだろう――彼に尻尾を振っていた犬たちも、その首につながった鎖を自ら喰いちぎり、何処にか消えた。
飼い犬にまで愛想を尽かされた彼は、まさにひとりぼっちだった。
暮れゆく空に向かい、何やら言葉にならない言葉を吠えてみる。けれど、誰ひとりとして、そして何ひとつとして、反応はなかった。
視界から消えゆく夕陽と同様、深く沈む自分の心に動揺した、彼。だがそのとき、たったひとつだけ、彼は気づいたのだった。
「こんなに綺麗な夕焼けが、無料とは……。この世は、なんて太っ腹なんだ」
深く窪んだ彼の目から、一滴の涙が零れ落ちた。
☆☆
そんなことが起きた日の、翌日からだった。
自宅敷地の境目に、彼が壁を建て始めたのは。
温かな陽射し降り注ぐ、穏やかな春の朝。
今の彼にとってどうしようもなく広い応接間は、電気も点けられずに、がらんどうと化していた。
大きなテーブルにへばり付くようにして、石のように固まった彼が鎮座する。その目前に置かれていたのは、窓からの斜光に照らされた銀のアルマイト容器がひとつだった。
入っているのは、たったひと切れの固くなりかけたパン。
口をごにょごにょと動かして何やら呟いたあと、容器に手を伸ばし、ゆっくりとパンを口へと運ぶ。どんより眼で正面を見据えながら、まるで何かの儀式のように、虚ろに顎を上下に動かした。
パンに味は無いようだ――それを、彼の表情が物語っている。
淀んだ眼球だけを動かし、外の景色を何気なく見遣る。
不意に目力を蘇らせ、眩しげに目をしかめた。
「ああ……。そうだ、そうだった。こんな俺にも、やるべきことはあったのだ」
パンを喉の奥に無理矢理押しやり、たった数分の朝食を終えた彼は、先程までとは見違えるほどの機敏な足どりで、日ごと緑濃くなる庭へと向かった。
あれほど賑やかに高級車の並んでいた玄関先の駐車場には、一台の車も停まっていない。
首を失くしたのだろうか――そう思ってしまうほどに首を動かさずに、真っ直ぐ前を見つめたまま、そこを通り抜ける、彼。
そんな彼の前に現れたのは、見慣れているはずの、けれど初めて見るかのような新鮮な気持ちのする、広大な庭だった。
世話する人もいなくなり、後は枯れるのを待つばかりとなった樹々や花々。
その他に庭に残されていたのは、使用人愛用の手押し車ひとつと、花壇などを囲うようにして置かれていた大量の赤茶けたブロックレンガだった。
一度大きく頷いた彼は、手当たり次第にレンガを地面から抜き取って、手押し車に積めるだけ積んだ。
その後、手押し車をゆらゆらと重そうに押しながら歩くこと、20分。
ようやく彼は、自分の家の敷地の北側の境界あたりにたどり着いた。
「そうだ、俺にもやることはあったのだ」
手押し車の荷台から薄汚れたレンガをひとつ取り、広い敷地の境界線と思しき場所に、ことりと置いた。それは、大海に浮かぶ小さな孤島の如く小さな点模様が、彼の広大な敷地の中に出現した瞬間だった。
――点の集まりは、線。
次々と境界線上に置かれていく、レンガたち。
一列に整然と敷き並べられたそれは、小さな小さな万里の長城のように見えた。
「俺にも、やることはあるんだよ。この通り」
一日の作業を終えた彼はそう言って、満足げに頷いた。
☆☆☆
あれから、何年が経ったのだろう――。
そんな事すら分からなくなってしまうくらい、時間が無造作に通り過ぎて行った。
積み始めから一年後くらいになって、ようやくブロック一個分の高さの線が、敷地をぐるっと輪のように取り巻いた。
その後引き続き、二段目、三段目と赤茶色のレンガをとにかく積み上げた。
彼の中には、その記憶しかない。
そしてやって来た、今日という日。
現在は、八段目の作業中だった。大人の股下くらいの高さになったそれは、ようやく「壁」といっていいくらいの代物となっている。
肌を刺すような攻撃的な夏の陽射しが、朝から彼を襲っていた。
健康的に焼けた肌はそれをモノともしなかったが、それでも栄養不足の体には、少々こたえる。
だが黙々と、レンガを積み上げ、淡々と時間をやり過ごしていた。
そんな繰り返しの日常に、突如舞い降りた出来事。
汗まみれのシャツ一枚で作業する男の前に、大人と子どもの狭間に住むかの如き、あどけなさの残る10代半ばくらいの少女が現れたのだ。
ピンクのリボンのついた、麦わら帽。涼し気な白のワンピースに身を包んで茶色い壁の向こう側に立つ彼女の姿は、透き通るような白い肌と相まって、まるで人の形をした天からの賜りもののように思えた。
――どうせそのうち飽きて、何処かへ行ってしまうだろう。
無視して作業を続ける、彼。
しかし、いつまでもこちらを見続ける彼女に根負けし、作業の手を止める。
そして、無造作に伸びた白髪の切れ目から彼女を見下ろすと「何か用かね?」と、声を掛けた。
すると彼女は瞳を輝かせ、待ってましたとばかりに口を開いた。
「おじさん、ここで何をしているの?」
「何をしているのかって? ……見てのとおり、壁を建てているのさ」
「ふうん……。何のために?」
男は、一瞬、答えに窮した。
だが、それをおくびにも出さず、視線を彼女から外して、作業を再開する。
「そんなもの、誰もここに入れさせないために決まってる」
「ふうん……。何のために?」
「何のため――だって?」
男の息が、荒くなったが、作業は止めなかった。ガチャガチャと音を立てながら、ムキになってレンガを積み上げていく。
「そりゃあ……この家を守るためさ」
「家? 家って、向こうにある大きな建物のこと?」
「いや、それだけじゃない。“家族”や“財産”だって家なんだよ」
「ふうん……」
――俺には、そんな守るべき家族も財産も、とうに無いけどな。
声が震えそうになるのを何とか堪えて答えた彼は、彼女と目を合わせないようにして、黙々と作業を続けた。
けれど少女は、攻撃を緩めない。
瞳の奥にある真実を探るかのような、そんな視線を男に向けたのだ。
「でもそれって――おじさんの大切な時間を失くしてない?」
「大切な時間?」
手が止まりそうになるのを、男は必死に堪える。
――惰性で生きているこの俺に、そんなものが存在するわけなかろう?
だが彼の口から飛び出したのは、そんな思いとは裏腹の言葉。
「失くしてなんかいないさ。だって、壁を建てることが楽しいからね」
「ふうん、楽しいんだ。でもね……私には、そうは見えない」
どきりとして、男がレンガを地面に落とす。
震える手でそれを拾い上げた彼は、薔薇の棘の如く彼の胸の中の何かを突き刺している彼女の視線に、ようやく気付いた。
男が何かを言おうと口を開きかけたその瞬間に、彼女が言った。
「おじさんは、自分の気持ちを見せたくないんだね。だから、壁を作っているのよ。でもね――」
台詞の途中で、少女が一息を入れる。
それをまじまじと見つめる彼は、口を開けたまま、喉をごくりと鳴らす。
「壁を建てれば建てるほど、おじさんの気持ちは見えるようになってる。私には、そんな気がするわ」
「建てれば建てるほど……見える?」
わっはっは!
彼の中で何かが弾けた――。
永年の胸のつかえが取れたかのような、そんな笑いだった。
恐らくは、数十年ぶりに彼が心から笑えた瞬間だ。
「君は、不思議な子だね。天使なのかい? それとも……悪魔なのかい?」
「さあ……どうなのかしら。それは、おじさんの気持ち次第ね。私が天使か悪魔か……それは、おじさん自身が決めることだわ」
「ふむ……そうか、なるほどな!」
女の子はちょっとだけ首を傾け、ありったけの寛容さで微笑みかけた。
その笑顔に魅せられた男が、もう一度大きな声で、がははと笑った。
「人生は、一晩の宴のようなものだ。楽しまなくちゃ損だぞ、お嬢ちゃん」
「私には、そんな難しいことはわからないわ。じゃあ、私は帰るね。ばいばい、おじさん」
「……ああ、ばいばい」
やっぱり、君は――。
スカートの裾をさらさらと揺らしながら視界から消えゆく少女の後姿を、男はいつまでもいつまでも、飽きることなく見続けていた。
―了―
お読みいただき、ありがとうございました。
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