10
――なんで、どうして……なんで佐田さんが……!?
いや、まだ、決まったわけじゃない!
僕は傍まで駆け、佐田さんの名前を呼んだ。だが、まるで反応はなかった。携帯電話を投げ捨て、両手で肩を揺さぶってみた。だけど反応はない。それどころか揺れに耐え切れず、佐田さんの頭は傾き、ちょうど僕の胸にとんと倒れた。
「…………。そんな……」
震える手と腕で、佐田さんの頭を抱きしめていた。何をするんだよ郷原くん、とでも言ってくれるんじゃないか、と思って。だけど、そんなことはなかった。佐田さんは冷たく、それは寒さで冷えただけのものではない。
「誰が、誰だよ。なんでこんなこと……ふざけんなよ……!」
畜生。畜生畜生! なんのために!
「ふざけんなっ!」
影も形もわからない犯人に向かって、僕は叫んだ。意味ない。意味なんてないけどさ。
「どうして佐田さんがこんな目に……」
ぎしっ、と床の軋む音がした。きっと桾さんのものだ。傍へ近付いて来る。
「ねえ、桾さん、ふざけてる。いったい誰が――」
首筋に、何か、冷たい、しかも、薄く鋭いものが、あてられた。
「桾――」
「待ってたよ、郷原くん。君がここに来ることを」
電話で聞いた声だった。振り向けなかった。顔を見てやりたかったけど、首筋にあてられている何かが、抑止力となって僕にそれをさせなかった。
「桾さんは……」
せめて問うた。
「桾なら寝たよ」
ああ、そうか、畜生。まるで気がつかなかった。僕ら以外の人間がいることにさえ気がつかなかった。不覚どころじゃない。僕はどんなつもりでここへ来たんだよ。桾さんが攫われているからだろう。なのに、なんで警戒を緩めた!
「さてと、何から話したものかな? うーん、そうだな。初めてワタシが生き物を殺したときの話からしようか?」
言いながら、器用に僕の両腕を片手で掴み、後ろ手に捕らえた。これで僕は身動きが取れない。
佐田さんの頭は僕に倒れ掛かり続けた。
「そのためだけに僕を呼んだのか? そんなことより、どうして桾さんを攫ったり、佐田さんを――」
「まあ聞けよ。おいおい答えるからさ。それに、君だって問題あるんだからさ」
――問題? 電話でも、そんなことを言っていた。
「なんのことだよ」
「だからおいおいだって。でもまあ、いいか。初めにそっちから入っても。
問題ってのはさ、君が鈍感すぎることなんだよ」
「…………」
それは、佐田さんにも言われた。だけど、それがなんだと言うんだ? どう関係するんだ。
「君は気付くべきだったんだよ。桾にも佐田さんにも好意を持たれていることを」
「はっ?」
「はっ、じゃないよ。だから今こんなことになっているのさ。それから、君が思うよりもずっと桾は繊細で傲慢であることにも気付いておくべきだったね」
桾さんが、傲慢? なんだよそれ。
「いい加減にしろよ。なんで桾さんが傲慢なんだよ! 桾さんはそんな人じゃない!」
「間違っちゃ困るね。郷原くんは君と接している桾しかほとんど見たことないでしょう? あとは佐田さんと接しているときぐらい? それでもさ、違和感には気付くべきだったよ。君以外の人と話すとき、桾はいつもどうしたらいいのか辛そうにしていたことを」
君以外の人間と、桾はまともに話そうとしていないことを――
「特に桾は君以外の男子とは話したことがない。それはまあ、桾の過度な純真さの表れでもあるのかな。あと、桾は佐田さんと話すときが一番苦痛だった」
「それ、どういうことだよ?」
「だってさ、佐田さんは君のことが好きなんだぜ。つまり恋敵。憎くて憎くて仕方ないに決まっているじゃないか。それに二年生になって桾だけが離れることになった。不安は募る一方さ。追い討ちを掛けるように、君と佐田さんはよく二人で話している。放課後や帰宅途中、朝の教室で」
「…………」
こいつが誰なのか全くわからないけど、どうやら、僕らにとても近しい人らしい。会話振りからすると、クラスメイト? でも、なんで佐田さんと話していたことを知っているんだ? 誰も、近くに知り合いなんていなかったはずだ……。
だが、誰?
「で、本題へ移ろうか。ワタシの話に」
僕は口を挟まず話しを聞く態度を示した。
「小学校低学年のときのことなんだけどさ、野良犬を殺したことがあるんだよ。自己防衛っていうのかな。襲い掛かってきたから持ってた傘で返り討ちにした。やりすぎて殺しちゃったけどさ」
ああ、楽しかったな――
「…………」
背筋が、凍る。脊髄が、逆撫でられる。背後から爬虫類に抱きつかれたような悪寒。
「次は高学年のときかな。下校中、見知らぬ小父さんに声掛けられてさ。まあ、人攫いだったんだよね。不審者のポスターを見たことあったから咄嗟に逃げたけど、追いつかれて、だから殺した」
貼ったまま残っている、不審者のポスター。剥し忘れた事件。
「で、次は中学三年生のとき。これも下校中だけど、同級生の男子にからまれて、護身のためにね」
家出少年。
「私が殺したものは、基本的に誰にも見付からない。なぜかしらね? 食べたわけじゃないからね」
この状況で、本当に冗談でも言ったつもりなのか、声の主はきゃはっと笑声を漏らす。
「野良犬が死んでたって誰も気にしない。人攫いは無法なる藪の中。男子中学生は増水した河川の下流――海かな。それが末路」
言い終えると、僕の体を左前へ向けて押した。押された僕は体を反転しながら倒れ込むことになった。佐田さんの体は僕の隣に投げ出された。
「がっ……!」
背中を打った。咳が込み上げる。
倒れた僕は、すぐさま乗り掛かられて身動き出来なくなった。
右側から携帯電話の灯りが僕を照らしている。その灯りの範囲に、顔が現れた。
「君らはどうかな?」
桾さんが邪険に笑んでいた。