③
思わず再び足を止めるほど、それはあからさまな違いとなって芦の世界を取り囲んだ。
歩道から、ほんの少し入り込んだだけ。しかも端から見るとやたらと鬱そうとしているように見えたが、中に入ってみればそれほどでもなく、足下はついたった今までアスファルトが広がっていたことを忘れたかのように、ぬかるんだ土を苔の緑が覆っているが、周りの木々は外から見た印象ほど密集してはおらず、たとえ腕を振り回したところで木にぶつかるような場所は限られているようだった。つまり、そのぐらいの密集度。
ただ、それぞれの木はかなりの樹齢らしく、どれも胴回りが太く、中には成人男性である芦が抱きついても両手が回らないほどの木も少なくない。更にはその大木の根がところどころ地面から大きく張り出し、見ようによっては自然を真似たオブジェ的要素を兼ね備えたベンチともとれるほどで。
気を抜くと転ぶ可能性が高い、森だか林だか、もしくはただ単に緑が残ってしまっているだけの場所なのか分からないそこは、緑の気配が濃すぎる所為か、それとも辺りが未だ暗闇を滲ませている所為か、どのくらいの広さがあるのかはっきりしない。
左右に何処までも広がり、奥行きも何処までも続いているようにも感じるが、何処までも続く場所なんてあるわけがないので、これは完全に芦の心が見せている光景なのだろう。ただ、それならば本当のところはどうなのかと聞かれれば、見通せない芦には分からない。
しかし分からないまま、芦は先が見えない奥に誘われるように、止まっていた足を再び動かし始める。芦本人の、意識の外で。
歩きにくく進みやすい緑は、黒を混ぜて何処までも芦を取り囲む。芦は何処までも、何処までも取り込まれ続ける。しかし緑に取り込まれながらも、芦は少しずつ、我に返っていく。どうして自分がこんな、今まで一度として入ったことのない、それどころか入ろうという気になったことすらない場所に入ってきてしまったのかと。
アイツ等がこの場所で何をしていたのか、それを確かめることが、唯一の目撃者たる自分の使命、責任なのではないか、という根拠のない感情。それが、理由。
芦の中の冷静さを保っている部分が、何て馬鹿なことを思っているのかと呆れ返っているのが分かってはいたが、進む足を止めることは出来ない。おそらく、あの二人組の興奮が、バイト明けで眠気も空腹もピークに達し、正常な判断力が少々鈍っている芦の精神に、異常なテンションをもたらしたのだろう。
同時に、冷静さも八割方、踏み散らしてしまったのだ。テンションというのは、水が高いところから低いところに流れるように、高い者から低い者に移ってしまうものなのだから。非常に、残念な事に。
その残念なテンションに染められた芦は、転ばないように足下を見つめつつ、あまりにも太い木の枝に顔を突き刺されないように両手を心持ち前に突き出しながら、慎重に前に進み続ける。
端から見ていると、まだ夜と評しても許されるほど暗い、人気のない緑の中を、少々中腰気味に両手を前に突き出し、その突き出した両手をふらふらと、力なく、無目的としか思えない仕草で僅かに揺らしながら、頼りない足取りで前を進んでいるのだから・・・、出来損ないの幽霊か、全く出来ていない幽霊役にしか見えない。もしくは、頭の可笑しい異常者か。
しかし自分が一歩間違えれば馬鹿、もう一歩間違えれば異常者に見える行動を取っている自覚のない芦は、その慎重さのおかげで転ぶこともなく、枝で顔を突き刺すこともなく、無事、緑の間を擦り抜け、そして・・・、
「か、み・・・、さま?」
奇妙に、開けた場所だった。
芦が慎重に歩いた先に、その場所は広がっていたのだ。突如として木々の密集度が下がったそこは、まるで・・・、否、確実に意図的に、その場だけ木々を薙ぎ、空間を確保した場所だった。勿論、意図的なものを感じさせる以上、目的となるものがある。そしてそれは、芦に思わず、信じてもいない単語をもたらすようなモノで。
ぽっかりと開いたその空間の、一番奥。それより先にはまた木々が茂るその限界に、理由はあった。大した大きさではないその理由は、けれど深い緑の木々しかないその場所にあって、怖ろしいほど目立つ。何故ならそれは、木々を刈るよりもっと明確な人間の意志が形になっているものだったからだ。
ソレの正確な名称は、芦には分からない。興味がなかったので、今までの人生でそんなものの正式な名前なんて気にしたこともなかったのだ。しかし名前が分からずとも、それがどういうものなのかは漠然とではあるが、分かった。
一メートル四方ぐらいの、小さな家に似た造りの木造物。それが木で造った四本の棒を脚にし、地面から一メートルと少しぐらいの高さに佇んでいる。芦が見つめる正面、家でいうなら扉にあたる部分には、横に小さな縄だか紐だか分からない、元は白かったのだろう物が渡され、その紐から縦に、捻られたような形の同じ物が下がり、その一番下にはやっぱり古びた、小さな鈴がぶら下がっている。
年月の所為でくすんでしまったと思われる、黒い鈴。なんとなく、そこにぶら下がるに相応しい鈴は金のような気がした芦の中で、それは小さな違和感として引っ掛かってしまう、鈴。
・・・そう、その小さな家のようにも見える物は、芦の目には、人生の中で数回だけ足を向けたことがある、神社をとても簡単に、そして小さく拵えた物に映ったのだ。その為、鈴のイメージも金。昔、受験の時、神様の存在など欠片も信じていないにもかかわらず、所謂神頼みとやらをしに行った際、派手に鳴らした鈴のイメージだったのだ。
でもその時に行った神社や、他に見たことのある神社、果ては芦の中に築かれた神社の一般的なイメージと似てはいるが、目の前に佇むものは似ているだけで、どこかが決定的に違う気もしていた。
絶対的な大きさの違い、あまりにも簡素に作られてる印象の違い、そういったものも勿論あるのだが、それ以上に、何か、もっと別の要因がある気がして。
無意識に、止まっていた足が動き出す。気になる引っ掛かりの答えを、求めるように。そうしてゆっくりと近づく足は、あと二歩程度でそれに手が届く、というところで再び自然と止まる。
おそらく、頭の中にある神社のイメージが、それと似た造りに見えるものに近づきすぎることを遠慮させたのだろう。神を信じなくとも、信仰を持たずとも、そういった意味合いがあるものに対する敬意のようなものは、自然と抱いてしまうものだから。
少しだけ保ったままの距離で、けれど先ほどまでは確実に近づいた距離で、芦はじっとそれを見つめる。近づけばその造りの簡素さが、そして思った以上の古さが良く分かった。
子供が精一杯の丁寧さで木を繋ぎ、建てたかのようなそれは、何となく、夏休みの自由工作を思い出させて、しかし作られてからの歳月の長さが、辛うじて幼稚さを薄めているような、そんな印象を受けるのだ。
逆にいえば、造りの甘さ故の幼稚さすら薄めてしまうほどの古さを感じるのだから、相当な年月を重ねたものなのかもしれない。・・・が、何故か年月を感じさせる要素が見当たらない。
べつに木が変色しているわけでもなければ、造りの甘い部分がぼろぼろになっているわけでもない。確かに木の色合いは多少の年月を感じさせる濃い茶色になっているが、それだってそこまでの年月を感じさせる色ではないと思うのに、芦の目には、具に見ても理由が分からないほどの年月を感じさせるのだ。
ちぐはぐな印象を受ける、不思議な建造物。否、建造物というほどの壮大さはないので、創作物ぐらいの表現で適当かもしれない、それ。何より、どうしてこんな場所にこんな物があるのか、そもそもこの、いくら田舎っぽいとはいえ、本当に田舎と呼べる地域でもない場所に広がる、不可解なほどの緑の場所が一体何なのか、疑問はいくらでも沸いてくる。
そして中でも一番の疑問は、芦がこの場所に足を踏み入れた理由である、あの二人組がこの場所にどんな理由があってやってきて、更に何故あそこまでトチ狂った反応をしていたのかだ。
分からないことだらけではある。もしかしたら誰もが由来を忘れてしまったもので、この辺りが利用価値のない土地で放っておかれた為に、これもまた放っておかれているだけなのかもしれなくて、それなら別に大した理由ではないということにもなるのだが・・・、あの二人組の反応が釈然としないことに変わりはない。
あの二人の目的は、これなのだ。目の前にある物の意味も理由も分からないし、あの二人の理由なんてもっと分からないが、目的がこれであることだけは間違いない。他に何もない緑の中、目的があるとすればこれだけなのだと、芦の中では絶対的な確信があった。
一歩も動かないまま、芦は目の前のそれを見つめ続けた。敬意のようなものは抱いていたが、近寄りがたかったというよりは、近づいても何かが分かるとは思えなかったし、頭の片隅に、あの贔屓目に見てもおかしいとしか思えない馬鹿笑いをしていた女と、その女をかなり頭の螺子が外れた眼差しで見つめていた男の姿が過ぎって、近づいた途端に何かの仕掛けが作動したらどうしよう、みたいな心配も抱いてしまい、どうにも近づく気になれないでいた。
そうかといって、何の成果も得ないままこの場を引き返す気にもならず、つまりは前にも後ろにも進めない状態のまま、ただ視線だけを観察しても何も分かりそうもないものに向け続けて・・・、ふいに、芦の中で見つめ続けるものに対する一つのイメージが固まった。それは漠然としていたイメージに対する適当な名前が芦の中で浮かんだというだけではあるのだが。
────『お堂』だ。
最初に抱いた神社というイメージ。しかし何となくそれとは多少ずれている印象を拭えなかったのだが、新たに浮かんだお堂というイメージは、芦の中で目の前の物に対するイメージにこれ以上ないほど合っていた。
神社だと清潔感や、人の手が掛かっているイメージがついているのだが、人の訪れが絶えた、緑の奥の由来すら誰も知らない、何の手も掛けられていない朽ちたお堂、というイメージだと、目の前にあるものにピッタリだと感じたのだ。・・・多少、サイズが小さすぎる気もするし、造りもやっぱり簡素すぎるとは思うのだが。
何か、一つの答えが出てしまったかのような気分になってしまった。自分の中で名称が決まっただけなのに、それでも見つめ続けた物の正体がはっきりしたかのような気分になってしまった芦は、奇妙な安堵の果てに、固まっていた身体で小さく身動ぎする。
その途端、右手の付近から少しだけ耳障りな音が聞こえてきた。聞こえた音に誘われるように視線を向けると、そこには持っている認識すら失われていたコンビニのビニール袋が存在していて、角張った形を形成している存在に、すっかり放っておいたままの空腹の存在を思い出してしまう。
味気ないビニール袋の中身は、芦が毎日有り難く頂いて帰る、廃棄弁当が三つほど入っていた。賞味期限は、今日の午後。つまりまだ期限はきていないのだが、期限がくる数時間前に廃棄として棚から下ろす決まりなのだ。
そのまだ期限がきてない弁当達の中から、毎日大体三つか四つほど持って帰るのが芦の日課となっていて、ついでに言えば、現在の主な食料ともなっている。・・・とても残念なことに、本当にごく稀に、廃棄弁当がほぼないという、芦にとっては悪夢の日がなこともないのだが。
持って帰った弁当は、まず一つが少々早い朝食として芦の胃袋に収まり、それから一眠りした後、賞味期限ギリギリか少し過ぎた辺りで昼食として二つ目が芦の腹に収まる。
そして最後の一つは、賞味期限が八時間ほど切れた頃、夕飯として芦の腹の中に収まり、膨らませた腹を抱えて芦は再びバイトに向かい、そのバイト明けにまた一日分の廃棄弁当を持ち帰る、という繰り返し。ちなみに何故四つ持ち帰る日があるかと言えば、井雲が来る予定がある際の親切心だったり、好みの弁当が捨てられるのが惜しくなったりした場合があるからだ。
弁当三つ収まったビニール袋、別に自転車の籠に入れたままでも良かったはずなのに、元がただで貰ってきた物でも、万が一、何かあって、なくなったりしてしまうのが惜しいのか、無意識に持ってきていたらしく、自分の意識すらしていなかった行動に、芦は苦笑を浮かべ、それをきっかけに立ち尽くしている間に身体に入っていた力が多少なりとも抜けるのを感じた。
どれだけ意地汚いんだという、自分に対するちょっとした情けなさを笑いつつも、日常の象徴たるそれを意識した途端、道を踏み外したその日常へ意識が戻ろうとするのが分かった。
こんな、芦の本来の日常からすればどうでも良いことに時間を費やし、日常から外れる必要なんてなかったのだと。感じていた責任感も、本当は根拠のないものだったのだと。まるで自分の中の誰かが芦に言い聞かせているかのようなそれに、日常を意識し始めた芦自身が、深く、深く頷かずにはいられなかった。一体、自分はまだ薄暗いこんな早朝に何をしているのだろう、と。
あの頭のおかしそうな奴等が何をしていたとしても、自分が不利益を被ることはないだろう、そんな計算がようやく出来るようになった頃、芦の中を占めていた諸々の感情は急速に薄れ、代わりに日常への帰還を望む気持ちが高まっていく。
家で一息つくこと、持っている弁当の一つを食べること、それからシャワーを浴びてリラックスすること、その弛緩した身体をベッドに横たえて幸せな眠りにつくこと。そんな、変わり映えのしないが、特別な不満もない日常への帰還。
高まる気持ちのままに、芦の身体は早速方向転換を図ろうとしていた。勿論、帰宅に向けての、日常に向けての転換だ。しかし実際に行動に移る直前、芦は想像もしていなかったものを視界に納める羽目になる。・・・というより、今の今まで視界に収まっている自覚が何故なかったのか不思議に思うほど、訳が分からないものを自覚する羽目になる、というべきか。
あの、鈴がぶら下がっていた場所から、もう少し視線を下げた位置に、それは存在していた。鈴の位置から、芦がいる手前に向けて階段状になって段々と位置が下がっているのだが、全部で五つほど段がある中、三つ目の段から、最後の五段目、もしくは一段目に位置する場所へかけてだらりと全身を掛けている、鈴と同じ、黒く、長い、それ。
────蛇、だった。