②
・・・というのが、つい三日ほど前の昼前の出来事だったことを、その時、芦は思い出さざるを得ない状況にあった。
日常に埋没してしまえば、多少の非日常なんて簡単に現実味を失い、記憶からも遠ざかるのは当然のことで、有り得ないほどではなくとも、充分に日常から逸脱していた三日前の出来事を、芦はあの場を通り過ぎて数分であっさりと記憶の彼方に放置してしまっていたのだ。
別に意図的にそうしていたわけではない。ただ、自然と放置されてしまっただけ。
しかし取り戻す気もないその記憶は、三日経った今、視界に入り込んだ光景によって鮮やかに呼び戻され、その結果、芦は怪しげな人間のような態度で乗っていた自転車ごと、すぐ傍の脇道へ隠れ込むことになってしまった。怪しげな人間は、少なくとも芦の認識では他に・・・、というか、少し先にいるというのに。
芦はその時、コンビニでの深夜バイトを終えたばかりで、貰ってきた廃棄弁当を心と腹の頼りに、力なく自転車を漕ぎながら自宅へ向かう真っ最中だった。時刻は早朝四時半。早朝勤務の人と交代してコンビニを出た世界はまだ深夜と変わりなく、暗く、誰も通らない道路を少ない街灯だけを頼りに、自転車を漕いでいた。
その時、自転車の灯りを点けていなかったのは、深い意味があったわけではない。自動点灯になるような自転車は値段が張るので、ごく普通の自転車を買った結果、手動で灯りを点けるのが面倒だから、道が見えるくらいには街灯があるから、その程度の理由で暗い夜道を暗いままの自転車で進んでいたのだが・・・、いつも通りの何気ないその判断が、芦のその後の行動に些細な変化を与え、更にはその先の生活や諸々に些細ではない変化を与えてしまうことになる。
人も車も通りかからないと決めつけて、何の警戒もなくぼんやりと前方に向けていた目が最初に捉えたのは、一人の冴えない中年男性だった。
偶々街灯の下を横切ったその姿は、グレーのスーツに白いシャツ、小太りの身体に高くない身長、少し前傾倒で小走りをしていて、ごく普通の、何の特徴もないとか平均的かと評されても仕方がない人間である自覚を持った芦ですら、特徴のないおっさんだなと思うほど普通の中年男性だった。
・・・のだが、その普通の中年男性が草臥れていそうなスーツ姿で、まだ暗い早朝の人気がない道路を小走りで駆け抜けているのは、どう考えても普通の光景ではなかった。
これがもし飲み屋街や、そうでなくても都会の一角なら有り得る光景だったのかもしれないが、少しでも辺りが暗くなれば人通りがなくなり、車道に車が通らない、日中ですら六割程度の車道が堂々とお祈りを捧げていても車に轢かれる心配がないくらい・・・、明け透けに表現すると、閑散とした、人の少ない、寂れきった、明らかすぎるほど明らかな栄えていない地域では、考える余地なく、異質すぎるほど異質な光景で。
芦のペダルを踏む力が弱まり、やがて止まってしまったとしても、無理もないことだったのかもしれない。ましてや、弱めていく力の途中、見えた男の顔に、そのスーツ同様、草臥れて見える容貌の中に、爛々と輝く目を見つけ、おまけにそこでその顔に見覚えがあることに気づいてしまえば、弱めるどころか完全に足を止め、先の様子を窺いたくもなるというものだ。
男、冴えないその中年男性は・・・、三日前に見かけた、あの怪しげな宗教に関わっているらしき男だった。
その中年男性は明るい街灯の下で一度、姿を現した後、何事もなければ芦が通るはずだった車道を突っ切り、反対側の歩道に足を踏み入れたかと思うと、更にその先に突進していったようで、芦はその姿にペダルから足を外し、地面に両足を着いて動きを止めながら、自然と男が突き進んで行った先に何があるかを考えていた。
ほぼ毎日あるバイトの行き帰り、必ず通り過ぎるその場所を。
「・・・アイツ、何の用だよ?」
視線を宙に漂わせること、数秒。思い出したその場所は、流石寂れた我が地域だ、と芦がふとした折に感心してしまったほど、緑に溢れた林のような場所だった。
一応、歩道や車道に面しているというのにも関わらず、突如として木々に溢れ、しかもそれが爽やかな感じの緑ではなく、芦の感性で表現すれば、鬱蒼とした、昼、尚暗い、といった感じの場所で、子供が探検することはあっても、大人が足を踏み入れることはまずないだろうと思える場所だった。
実際、芦はもう何年もその場所を通りかかっているのだが、一度として足を踏み入れたことがないし、その気にもならない。大体、こんな所にこんな不気味な緑なんて何故あるのか、所有者は誰なのか、広さがどのぐらいあるのか、そういった詳細が一切不明な上に、とにかく漂う雰囲気が不吉というか不気味というか、少なくとも明るい気持ちで楽しげに足を踏み入れられる場所とは思えないのだ。
しかしその場所に、あの男は突き進んで行ったのだ。昼でも気味が悪い場所なのに、態々こんな時間帯に。
あんなに嬉々とした目で突き進んで行く理由がある場所だとは、芦には到底思えない。それにあの男が一人でいたことも、芦には気に掛かっていた。思い出されるのは、あの男の視線の先に佇んでいた、一人の女の姿。男と同じくらい外見だけなら普通な、黒一色の女。雄叫びを上げ、一心に祈りを捧げていた神という存在を信じているらしい女。
まるで誘われるように、芦は静かに緑が茂る場所から道路を挟んで反対側に回っていた。そしてそちら側で一番緑に近い横道に入り込むと、なるべく他人の視界に入らないように壁に身を寄せて、向かい側の緑の入り口へ視線を結ぶ。
微かな街灯が浮かび上がらせる、存在意義が分からない緑の群れ。芦には、その時ある種の予感があった。もしかしたらそれは、予感という曖昧なものではなく、もう少しはっきりとした形になった予測というものだったのかもしれないが・・・、とにかく、ソレがあった。
きっと、あの女もあの緑の中にいる。あのおっさんと二人で、何か、こんな時間帯でないと出来ないような怪しげなことをしているに違いない、と。
芦の中で、その時、直前まで感じていたはずの疲れや気怠さはどこかに押しやられていた。代わりに内部を占拠していたのは、多少の高揚感とはっきりとした好奇心。
平凡な日常に、変化のない時の流れに一切の不満を持たない芦ではあったが、それでも突然訪れたちょっとしたこのサプライズめいた非日常に何も感じないでいられるほど、平坦な精神の持ち主ではなかったのだ。
だからこそ、じっと芦は見つめ続けた。前傾倒の体勢を取り、自転車に上半身を預けるような姿で出来る限り身体を丸め、向かいの緑から身を隠しながら、見通すことの出来ない緑の奥、暗闇の果てを見通すように、じっと、じっと。
見通すことの出来ないそんな時間を、一体どのくらい過ごしたのだろう。時間にして、おそらく十分かそこらだったのだろうが、芦の体感としてはもっとずっと長く、一時間近く見つめ続けていたように感じられた。そしてその長い時間の果てに、見つめていた視線の先では突如、変化が訪れる。芦が根拠なく抱いていた確信が、少なくとも半分は決定づけられたのだ。
自然な暗闇より暗い、人工的で不自然な黒を纏い、お付きとしてあの男を連れて、その女は現れた。
やはり、どう考えても不自然でしかない。彼女が纏う黒以上の不自然さ。こんな時間帯にあんな場所から現れるなんて、どんな理由があれば正当化されるのか、そんなものがあるなら是非とも聞きたいと願うほど、不自然だった。おまけに現れる際の態度も不自然で、こんな時間帯のあんな場所で何があったのか、しきりと頷き、両手の拳を握り締めて、その手もまた、震えているのかと思えるほど上下に小さく振り続けているのだ。
明らかに、興奮しているようだった。ついでに言えば、斜め後ろという完全無欠の従者スタイルでスタンバイしている男もまた、女の動作に同意するかのように上半身全体の動きで頷いている。自分を見ていない女を見て、何度も、何度も。
これだけでも、下手をしたら匿名で警察に通報しても良いくらい、不審者状態だが・・・、出てきた女達の不審行動はこれだけでは済まなかったのだ。
女は緑から出た後、歩道を横断し、しかしあと少しで車道に入るというところで突如、立ち止まると、左右を執拗な仕草で見渡しつつ、握り締めていた両手を組み合わせ、お祈りポーズを作った後・・・、目を瞑って、本当にお祈りを始めてしまったのだ。隣の従者的位置にいる、あの男と共に。
・・・いや、意味分かんないし。
思わず心の中で鋭い突っ込みを繰り出してみるが、壁に貼りつくようにして隠れるだけの芦にそれを当人達に言いに行くだけの勇気はない。だからずっと、見ていた。見ていた、というか、覘いていた。二人の、芦には理解出来ない行動原理を持っているらしい人間を。
二人は誰もいない歩道と車道の境界でお祈りを捧げた後、閉じた時と同じく静かに目を開き、それから何故か突如、再び興奮したらしく、その場で激しく足踏みし、両手を上下に振り回し、挙げ句、その場に小さな円を描くように歩き回り始めたのだ。
早朝の、まだ暗い、人通りも一切ない、真っ暗闇の緑を背後にした場所で、両手を振り回してくるくる回る、新興宗教らしいものに関わっている、女。
そしてその女に、遠目からでも分かる、明らかな尊敬というか、崇拝というか、とにかくその類いの感情を第三者は確実に引くであろう熱さで捧げている、男の姿がすぐ傍にあって。
芦はその時、無意識に自転車のハンドルを爪が喰い込むほど握り締めている自分に気がつくのと同時に、強烈な責任感のようなものが自分の奥深くから突き上げてくるのを感じていた。見渡すまでもなく、今この場にいるのは自分だけ。
つまり全ては自分一人に託されているのではないだろうか、何か一つでも、打てる手を打つべきなんじゃないだろうか、という使命感にも似た責任感が。
明らかに怪しげな二人の行動をたった一人で目撃してしまったという事実が、芦に、不必要なほどの責任感を抱かせていた。事件を目撃しておいて通報しない、非道な目撃者になってしまうかもしれない、犯人を野に放ち、他の犯行を助長させてしまうのかもしれない、そういった心境に近い、使命感や危機感を伴う責任感を。
そしてその、芦の確固とした確証のないはずの責任感は、宗教的儀式なのだろうかと思うほど激しかった動きを終えた後、両手を未だ日の光を迎えていない天の暗闇に向かって突き出し、背中を仰け反らせるようにして仰向いて突如として迸らせた笑い声と、その笑い声に混ぜられた雄叫びによって頂点達した。
「神よっ! 勝った!」
神が勝ったの? 神に勝ったの? ・・・と、緊張の糸が限界まで張りつめ、そろそろ何かがぷっつり切れてしまいそうな芦の中で、向かい合うには少々辛くなってしまった光景を前に、そんな芦自身がどうかと思うような問いを発してしまった。
勿論、心の中だけで。聞こえてくる雄叫びはとても嬉しげなのだが、単語が連なっている所為でその意味がはっきりとせず、しかしだからといってはっきりさせたいかといえば、出来ればはっきりさせたくなかったりもして。
狂ったような笑い声、というのはこういうことを言うのだと、芦はその時、鳥肌と共に妙な感心を覚えていた。そして同時に、先ほどから抱いていた責任感が、最大限に膨らんでいくのも感じている。それはもう、萎みようがなかった。何故なら視界の先には、芦の目からすると常軌を逸しているとしか思えない人間達がいるのだから。
これが正真正銘のカルトってヤツなんだな・・・。
カルトの定義が今もってはっきりしないまま、芦は思う。関わっては危険なモノ、しかし関わらなければ無関係の人々が危険に晒されるかもしれないモノ。その危険を未然に防ぐ為の手を打てるのは、遭遇してしまった自分だけなのだという圧倒的な責任感と、使命感。高揚する気分。血の流れが意識出来るほど、全てが強まっている。
気がつけば、芦はあれほど強く握り締めていたハンドルから手を放し、自転車自体から降りていた。視線の先では、芦の中でカルト認定された二人組がまだ興奮して騒いでいる。今度はお互いに手を取り合っているので、あの男は相手にもされない敬愛をあの女に捧げているわけではないのだろう。それだけが、芦の中で小さな救いとなる。
そしてその救いを与えてくれた後、ようやく多少は興奮状態から抜け出せたのか、また二人揃って辺りに視線を投げかけ、周囲に誰もいないかどうかを警戒している。
あれだけ騒いでおいて今更警戒する意味があるとは思えないし、たとえ警戒してみたところで、現在進行形で様子を窺っている芦の存在に気づかないのだから、かなり無駄な警戒だろう。
しかし芦に気づかない彼女達は、当然、自分達の警戒が無駄であることには気づかず、誰の姿も見つからず、何の変化も見られなかったことに満足した様子で、一つ、お互いを見つめながら頷き合った後、明らかに名残惜しそうな仕草で背後の緑を振り返り、数秒、じっと見つめてから、深く息を吸い込んで再び緑に背を向ける。
そして中途半端な位置で止まっていた足を、前進の為に動かし出した。つまり何故か車道に向かって、ということなのだが。
なんでコイツ等はいちいち車道に出るんだろう?
三日前の姿を再び鮮明に思い出し、芦の中で小さな疑問が生まれる。あの時も、車道にいた。そして、今回も。芦に気づかない彼女達はそんな疑問に答えを提示することもなく、そこが自分の道だと言わんばかりに大きく腕を振るって車道を歩き出す。ちょうど芦の自宅方向、もしも今、芦が自転車に跨がり、自宅へ向かおうとすれば必然的にあの二人に追いついてしまうだろう方向へ。
勿論、芦にその気はない。だからこそ、自転車を降りたまま息を潜めていたのだから。
二人の後ろ姿を見送り、その姿が完全に見えなくなるまで待つと、芦は静かに自転車をその場に停め、先ほどの彼女達同様、久方ぶりの前進に向けて最初の一歩を踏み出す。脇道から歩道に出て、歩道から車道に、そして車道を横断して、反対側の歩道に。目の前には、あの緑。彼女達が去って行った方向を気にしつつ、戻って来る様子がないことを確認してから数秒、芦の動きは止まる。思考も、同じく止まる。
しかし冷静に考えれば負う必要のない責任感を負ってしまっているが故に、過ぎた数秒の後、芦は深く考える事ことなく、その足を踏み出してしまう。毎日、行きと帰りの二回は目にしながら、一度として足を踏み入れたことのなかった・・・、その、奇妙なほど濃く感じる緑の中に。
────身体が完全に緑の中に入った途端、空気の色が変わり、音が失われたのが分かった。