⑥
・・・鳴り響く、チャイム音。
しかも一度ではない。何度も、何度も・・・、一定のリズムで、誰かが返事をするまで止むことは無い、その音。
一瞬にして、辺りを沈黙が支配した。より正確に評すると、止むことの無いチャイム音以外は、全ての音が消え失せた、ということだが。
芦と井雲は静止画像のように固まり、顔色が一気に失われ、目の焦点がぼやけていく。みーさんはたった今まであれだけ楽しそうにしていたのが嘘のように小さな身体を震わせて怯えつつ、大きな瞳一杯に涙を浮かべ始めていた。
そしてただ一人、状況が分かっていない宇江樹は突然の周りの変化に驚き、声が出せずに固まっていて、その間も、チャイムは鳴り続けている。一定のリズムを持って、延々と。
事情が分かっていない宇江樹ですら流石に異常を感じるほどの回数にチャイム音が達し始めた頃、意を決した宇江樹が芦達に声をかけようとして・・・、それより一瞬先に、みーさんの瞳から表面張力に耐えかねて、大粒の涙が零れ落ちた。
音すら聞こえそうなほどの粒の大きさに、衝撃で芦達が我に返る。ムンクの叫びのような顔になり、無意味にバタバタ両手を振り回して・・・、何故か咄嗟に、救いを求めるように宇江樹を見つめてしまった。見つめられても事情が分かっていない宇江樹がどうにか出来るわけもないのだが。
「えっとぉ・・・、あの、どうしたんですか? ってか、このチャイム、誰が・・・」
「誰って・・・」
「チャイム押しているのは違うと思うけど、たぶん、傍に親父さん、いると思う」
「・・・あぁ、そういうことですか」
どうにも出来る訳がないのだが、それでも向けられた二対の瞳に気圧されて絞り出した宇江樹の問いに、芦と井雲が苦しげに返した答え。それだけで宇江樹は状況を察した。そして察した途端、瞳に虚ろな色を浮かべながら溜息を零す。
しかし芦達と違い、ある種の覚悟が決まっている宇江樹の復活は早かった。零した溜息が床の上を転がり壁にぶつかるより先に、瞳から浮かんでいた虚ろな色を払拭し、芦達に真っ直ぐ視線を向けたのだ。
「僕が出ましょうか?」
決意に溢れた、男らしい問いかけだった。自分がみーさんを守るという宇江樹の誓いは、みーさんにとんでもないご利益を与えられ、激しく動揺する羽目になっても尚、揺らぐことがないらしい。
危惧していた事態が訪れようとしている今まさに、受けた動揺も何もかも投げ出してただ自分が掲げた誓いの通りに動こうとする、宇江樹の覚悟の問いがそこにはあった。
芦と井雲が宇江樹のその覚悟に感動したのは、言うまでもなかった。同時に、固まり続けていた二人が動き出す切っ掛けにもなる。二人は小さく震えたまま涙目で三人を見上げているみーさんを見下ろしてから、ようやく意思を固めることが出来た。
みーさんは守らなくてはいけない。それは宇江樹だけの役目ではないのだと。
「じゃあ、みーさんはとりあえずまた、風呂場に隠れて・・・」
「俺が一緒の方がいいよな?」
「でも中に複数人がいるのはバレてるだろうから・・・」
「そりゃ、バレてるだろうけど、人数までは分からないだろ。みーさんだけまた風呂場に隠すわけにはいかないし」
「だな。じゃあ・・・」
「あ、待って下さい。あの、井雲さんじゃなくて芦さんが一緒に隠れた方がいいんじゃないかなって思うんですけど」
「え? なんで?」
固まった意思の元に、当然の流れとしてみーさんをバスに隠そうとしたのだが、やはり当然の流れとして共に隠れようとした井雲の行動を、何故か宇江樹が止めた。
そして口にされた申し出に不思議そうに首を傾げる二人に対して、宇江樹は難しげな顔で一度告げた事実を再び告げるのだ。あの計画を記載した紙には、芦の名前もあったのだと。
「みーさん関係のことで何で芦さんが目をつけられているのか・・・、大体、何でまたここに来たのかも分からないですけど、芦さんがいると、あの人達またなかなか帰らないんじゃないかなって思うんです」
「あー・・・、それはあるかもな。またしつこい勧誘が始まる可能性もあるし」
「つーか、なんで俺なんだよ・・・」
宇江樹と井雲の発言はかなり有り得そうな可能性を孕んでいて、芦は訪れるかもしれないその可能性に、情けない声を上げる。自分が電波と見なしている相手に狙われている可能性があるのだから、そんな声ぐらい出て当然ではあるが。
そして芦の情けない顔を見つつ、宇江樹は決断する。先ほどは提案だったそれを、今度は断定として。
「やっぱり、僕、出ます。それで芦さんは今、不在なんで帰って下さいって追い返しますよ」
「じゃあ、俺が援護射撃として出てって下さい合唱する役?」
「僕だけこの部屋にいるのは、やっぱり声が複数しているだろうから変でしょうし・・・、まぁ、いつの間に僕が芦さんのお部屋にお邪魔するくらい親しくなったんだって疑問が残りそうですけど・・・」
「それは平気じゃね? 親父さんが迷惑かけているっぽい情報をキャッチしたから、お詫びに来てたんだって言えばいいんだし」
「そっか、まんま、事実ですもんね」
「じゃあ・・・、俺、みーさんと風呂場に隠れとけばいいかな?」
「そうして下さい。僕、頑張ります!」
「すまんっ、頼んだ!」
チャイム音が鳴り続ける中、話し合いは纏まった。芦は震え続けるみーさんを連れて、バスに篭もる。そしてぴったりとドアを閉めて、涙ぐんだままのみーさんの肩を抱くようにして、小声で励ますのだ。「大丈夫、きっとアイツ等、追い返してくれるから」と。
涙が溜まった紫の瞳を真っ直ぐ芦に向けたみーさんは、その瞳だけで問いかけてくる。本当に大丈夫かと。返された問いに、芦は精一杯の誠実さを込めた目で頷き返して・・・、その間に、外からは宇江樹と井雲が覚悟を決めて玄関に向かう足音が聞こえてきた。そして、鍵を開ける音。
「すみません・・・、今、この部屋の人、ちょっと出てるんですけど」
外から聞こえてくる声は、まずは井雲の声だった。直前に鍵を開ける音は聞こえたが、チェーンを外す音は聞こえない。つまりあの細い隙間越しに、井雲が外に誰がいるのか気づいていない振りをしつつ、部屋の主が不在だと告げたのだ。
おそらく芦とみーさんがバスに篭もっている間に、まず最初のジャブ的な応答は芦と付き合いが長く、我が物顔でこの部屋に滞在していても宇江樹よりずっと自然な井雲が行うと決まったのだろう。
もしそれでジャブが決まり、ご不在ならば結構です、もしくは最低でも、ご不在ならば出直します、と言ってくれればそれだけで今回の戦いはとりあえず勝利となったのだ。
・・・が、相手が相手なので、そんなに簡単な勝利を与えてくれる気はなかったらしい。外の様子を固唾を呑んで伺っている芦の耳に、次の瞬間、全く諦める気がない女の声が聞こえてきたのだ。
「芦様はご不在なのですか? 可笑しいですわね、ワタクシには・・・、芦様のお心が確かに感じられたのですけど?」
・・・それは一体どんなものなのですか? と鳥肌を立てながら思わず芦は内心で激しい突っ込みを入れていた。みーさんも何か気味の悪さを感じたのか、芦の服の裾を両手で力一杯握り締めている。
端から見ていると、寒さに凍えながら寄り添っている親子のようにも見える芦とみーさんが澄ませた耳には、続けて意外そうな気持ちを滲ませた女の声と、同じく驚いているらしい男の声が聞こえてきた。
「あら? 貴方・・・、蒼空さん、どうしてこちらに?」
「蒼空? オマエ、こちらのお宅の中に入れてもらえるような仲だったのか?」
「丁度宜しいですわ、蒼空さん。ワタクシ達、芦様にお話がありますので、中でお待ちしようと思うのです。蒼空さん、チェーンを外していただけます?」
「おぉっ、そうだ蒼空、お狐様の仰る通りになさい」
「ひっ、他人様の部屋に家主の許可無く、勝手に他人を入れられるわけないだろ! 何、普通のことみたいに言ってんだよ! って言うか、僕は親父達が芦さんにご迷惑をかけてるから、お詫びに来てたんだよ!」
「まぁ、ワタクシ達の為に、先に動いて下さっていたのですね。流石、副代表たる只藤さんの息子さんですわ。ワタクシ、貴方の息子さんである蒼空さんには、多大な才能を感じておりましたのよ」
「お狐様! そんなっ・・・、勿体ないお言葉を・・・!」
「何を仰っているの? ふふ・・・、でも、父親たる貴方がそこまで喜ぶだなんて、息子としても鼻が高いことでしょう。さぁ、蒼空さん、ワタクシ達の未来を閉ざすこの鎖を、今こそ解き放つのです!」
「放つわけなでしょっ! ってか、僕の台詞を都合良く解釈しないで下さい! 芦さんは親父や東狐さんが押しかけてきて、本当に迷惑してるんですよ! 何しに来たのか知らないけど、諦めて帰って下さい!」
「あの、芦の友人として、俺からもお願いなんですけど・・・、頼むから帰って下さい」
「芦様のご友人様ですのね。でしたらもう、ワタクシ達の同志同然ですわ。心に宿る埋け火の存在に、もう貴方は気づき始めているはず・・・」
「・・・あの、いいから早く帰ってください」
予測はしていたことだが、話は結構なレベルで噛み合っていなかった。東狐達側に噛み合わせる気が皆無だとしか思えないぐらいのレベルで、噛み合っていない。
風呂場に篭もっている芦達にも、宇江樹達の必死な抵抗は声以上に空気として伝わってきているのだが、しかし同じくらい、東狐達の相変わらず独自の世界観を持った強烈な意思も伝わってきて、みーさんの身体の震えはバスに篭もる前より強まり、芦もまた、その震えが伝染し始めている。
つまりはバスに立て籠もっていても尚、怖いのだ。自分達の在り方を盲信している東狐達が。
しかしそのままひたすら恐怖を押し殺し、震え続けるだけだと思われた芦は、外で続く会話によって、徐々にその方向性が変わっていかざるを得ないことを察した。理由は一つ。続けられる宇江樹と東狐の会話によって、何となくではあるが、察せられてしまう事実があったからだ。
東狐の傍らにいるだろう宇江樹の実父や、東狐本人が気づいているのかどうかは分からないが、少なくとも自分と同じ程度の理解力がある井雲は察しただろうと、それすら察してしまい・・・、何だか遣り切れないような、居たたまれないような気分になる。
別に会話の内容が突如変化したわけではない。相変わらず東狐は自己中心的な解釈を掲げていて、チェーンを外すのが当然だと主張しているし、宇江樹の方はそんな勝手な要望を受け入れるわけにはいかないと突っぱねている。このやり取りは最初からずっと変わっていないのだ。
・・・が、しかし、同じような会話が重なっていくからこそ、その重なり方の変化が分かってしまう。変化しているのは、片側だけ。宇江樹の方だけだったのだが。
「だっ、だから、いくら東狐さんの頼みでもっ、駄目なものは駄目なんですよ!」
「何故なのです? 何故、ワタクシを受け入れて下さらないのです?」
「いやっ、そうじゃなくって! いやいやっ、そうじゃないって言うかっ!」
芦の目頭は、自然と熱くなっていく。あまりに熱くなりすぎて、目を開け続けているのが辛くなり、思わず固く瞑ってその目頭を強く抑えてしまうほど、熱かった。それだけではなく、ともすれば口から嗚咽が零れそうになるほど、聞こえてくるやり取りは・・・、否、聞こえてくる宇江樹の声は、哀れだったのだ。
真面目な奴ほど、誠実な奴ほど、優しい奴ほど、何故か女の趣味が悪い。
これは芦の偏見に近いのだが、同時に、芦の中の真理でもあり、今まさに実証されたと断言出来るほど、確実となった。
恐怖に引き攣った目でしか見たことがないし、長めの前髪が多少顔を見え辛くさせていたが、少なくともどんな欠点があっても受け入れられるほどの美人だったわけではない。物凄い不美人というわけではないが、本当に、ごく普通程度の容姿だったはず。
そしてその普通の容姿に似合わぬほどの、電波。公共の電波を荒らす可能性があるほどの、強力な電波。おまけに謎の能力があるとしか思えない出現の仕方をする、ホラーの域に達している女。
極めつけは、おそらく宇江樹本人と同じく真面目だったであろう父親を訳の分からん道へ引き摺り込んだ、憎き相手・・・と言ってもよいと思う相手なのに。その、はずなのに。
世の中で一番、自分にも他人にも説明出来ないモノって、『恋』ってヤツなんだな。
内容は決して色気のあるモノではないし、内と外で距離が近づいているわけでもないだろうに、迫ってくる相手に異様に動揺をして口調が完全に焦ってる宇江樹の様子は、意中の相手に上手く接することが出来ずに右往左往する経験不足の男、そのものだった。
どうしてそんな女に、オマエは迷惑を被っているんだろうと全力で突っ込みを入れたくて仕方がなくなるが、しかしそれもまた、出来る訳もなく。
芦の様子の変化に不思議そうに小首を傾げるみーさんが、問いかけるように掴んでいた芦の服を引っ張るが、見下ろした先にある円らな瞳に哀れな男の事情を正確に語るのは忍びなく。
「男って・・・、馬鹿だね」
「みぃ?」
まだ続くドアの向こうの、色んな意味で哀れな押し問答を聞きながしながら、みーさんには全く理解出来ないだろうそんな呟きを零すだけに留めることしか、その時の芦に出来なかった。