②
「ひぃっ!」
「うわぁっ」
「みぃ?」
突如鳴り響いた、来訪者を告げるチャイム。軽く目を見開いて小首を傾げ、不思議そうにしているみーさんの平和的反応とは違い、芦と井雲は蘇る悪夢によって、二人、首を傾げているみーさん越しに左右で固く抱き合ってしまった。
頼れる者はお互いだけ・・・、という麗しい友情によるものではなく、いざとなったらお互いを盾にしよう、という少々汚らしい本能的な反応で成された行為だったが。
チャイムは、数秒間の沈黙の末、もう一度鳴らされた。それは二度目を鳴らすのを遠慮しているのがとても良く分かる、躊躇いがちな鳴らし方で、芦と井雲はその音に凝視していたドアから視線を逸らし、いまだ抱き合っている所為で顔がやたらと近いお互いを見つめる。
交わされる視線だけの言葉は雄弁に、たった一つの確認を問いかけていた。この鳴らし方、アイツ等じゃないよな? と。
あの二人組・・・、否、その二人組のうちの一人が鳴らし続けた、悪夢のような途切れることのないチャイム音は、二人の記憶に消えることのない恐怖心を植えつけている。だから今、聞こえてきた音がそれとは違う鳴らし方なのは確認するまでもなく分かっていた。
しかしそれでも確認せずにいられなかったのは、お互いが自分に自信を持てない性格の上に小心者の性質まで持っているからで、確信しているけど確認もしたい、というより高い精神の安定性を求める感情からの要望だった。
同時に、それは視線での会話ですら言葉にしない、ある一つの問いを互いに向けていた。訪問者は誰なのか、だ。
答えなど分かるわけがない。しかし部屋の中に人が居ることがバレているのは分かっている。何故なら今日もまた、テレビが点けっぱなしなのだ。間違いなく、また音量が外に漏れているだろう。
だから居留守も出来ない。出来ない、というか、居留守をしたら居留守をしているのが明白になってしまうだけなのだ。それでは居留守の意味が全くないだろう。
応対、しなくてはいけない。いけないと、二人とも思っている。訪ねてきているのが誰なのかは分からないが、明白な居留守なんかして相手の印象を徒に悪くするのは得策ではない、という判断も出来ている。しかし身体が動かない。動けない。動きたくない。
何故なら二人とも分かっているからだ。この部屋に訪ねてくる人間なんて、定期的な芦の実家からの支援物資を届ける宅配業者か、さもければ友人である井雲だけだと。
次の支援物資が届くまで、また期間がある。井雲は既にここに居る。つまり誰だか予想もつかない。
もしもこのまま膠着状態が続くのなら、芦と井雲は男二人、延々とお互いを抱き締め合って固まり続けていただろう。しかし男二人のむさ苦しい状況に出会えなかった神々が同情でもしてくれたのか、次の瞬間、事態は決定的な変化を迎える。
もたらしてくれたのはチャイムの鳴らし方と同じくらい申し訳なさそうな、ドアの外からの弱々しい男の声だった。
「あの・・・、すみません、この間お邪魔した・・・、宇江樹、なんですけど・・・」
「あぁっ!」
「うおぉ! ・・・あっ、すみません! 今、今すぐ、開けるんで!」
聞こえてきた声に対して芦と井雲が反射的に上げてしまった叫び声は、来訪者が予想外の人物だったことと、何故か仲間が来たかのような心強い気持ちになったからだった。
あの迷惑な人間達に困らされている、しかも身内が関わってしまっているという、ある意味自分達以上に深刻な窮地に陥っている相手なので、妙な信頼感のようなものが芽生えていたのだ。
その為、叫び声を上げた直後、芦はあれだけ固く抱き合っていた井雲をあっさり放して立ち上がり、謝罪の声をかけながら言葉通りドアを開けようと大股で一歩踏み出して・・・、そこで危うく転がりそうになるほどつんのめる羽目になる。
原因はただ一つ、放したはずの井雲が両手で芦の服の裾を全力で掴んでいたからだった。
「なんだよっ」
「いやっ、なんだよじゃなくって・・・!」
「え? ・・・あっ!」
振り返って見下ろした井雲は、座った状態のまま、必死の形相で芦を見上げている。そして危ない目に遭わされた怒りを滲ませた芦に向かって、視線だけで訴えるのだ。拙いだろう、と。
視線で訴えられているのが何かの危機なのは分かるが、何の危機なのか分からず、一瞬、眉間に深すぎる皺を刻んで怪訝そうな表情を浮かべた芦だったが・・・、しかし井雲が視線で指し示した方向へ意識を向けた途端、何を訴えられているのか分かりすぎるほど分かってしまった。
むしろ何故すぐに分からなかったのか、疑問に思うほど分かってしまった。
井雲が視線で示した方向、そこには興味津々と顔と瞳一杯に書いてあるみーさんが、ドアの方向へその注意を向けて座っている。
・・・見つかるわけにはいかなかった。いかない、はずだった。たとえ精神的には同志と思える相手でも、簡単に晒すわけにはいかない存在なのだ。もし見つかって、それで何か取りかえしのつかないことが起きたら、天罰が下るかもしれないのだ。
少なくとも芦達はその可能性を否定出来ない。むしろ全力で肯定してしまっている。
「・・・例の場所に!」
「いや、んな格好つけた言い方されても・・・、ってか、拙いって!」
「分かってるよ! だから・・・」
「違うんだよ!」
「何がっ!」
「俺も声、思いっきり出しただろ! 絶対外まで聞こえてたって! それなのに風呂に立て籠もるとか、有り得ないだろ! 一体どんな不審者だって感じになるって!」
「あぁっ!」
井雲の指摘は、井雲自身と芦に多大なる混乱を巻き起こした。確かに中から二人分の声が聞こえていたのに、入ってみたら一人しかいません、となれば、もう一人がいる場所はバス以外に有り得ないだろう。
この狭い室内では他に選択肢はないのだ。バスといっても、トイレもセットなのだから、多少の間、篭もっていてもおかしくはない。おかしくはないが・・・、だからといって延々と入りっぱなしというのは不審感満載だろう。何の用でやってきたのかは分からないが、宇江樹との話がどれくらいの長さになるのか分からない以上、井雲が先日のように篭もるのは拙いのだ。
二人、中途半端な体勢のまま固まる。そんな傍目から見ると少々馬鹿っぽい体勢の二人を、みーさんが楽しそうにキラキラさせた目で見つめている。更にはドアを隔てた向こう側からは、善良且つ、謙虚でありながら、哀れな運命に翻弄されている男が静かに待ち侘びている空気が何となく漂ってきている。
いつまでもこのまま、静止画像を続けているわけにはいかなかった。あの善良な青年を見捨てるわけにはいかないし、何より彼がここに来た詳細は不明でも、あの迷惑な二人組、及び宗教団体に関する何かである可能性が高い。
それならば話を聞いておかなければ、何が起きるか分からない。自分達の為にも、是非とも中に招き入れて話を聞かなくてはいけないのだ。
芦は身体の向きを戻し、井雲に向かい合う。井雲は芦の服から手を放し、静かに立ち上がって芦と向かい合う。
そして通常の友人関係なら有り得ないほど間近に顔を近づけ、みーさんにすら聞こえないような小声で短い会談を行った。短い、短い・・・、当たり前だ、選べる選択肢なんて一つしかないのだから、長くなりようがない。
宇江樹の話は聞きたい。だから中に招くのは決定。しかしみーさんの存在はバレるわけにはいかない。でも井雲の声は聞こえているだろうから、みーさんと一緒に隠れるわけにはいかない。
となれば、選択肢はどうにか言い聞かせてみーさんにバスに隠れていてもらうしかないのだ。みーさんだけで、かくれんぼ、みたいに。
短い会談の後、芦と井雲は苦渋の決断に二人して顔を苦しげに歪めながら、みーさんを取り囲むようにしてしゃがみ込む。そして頭を撫でつつ、手を握り締めつつ、縋るような目を向けつつ、なるべく優しげな声を心がけつつ、言い聞かせたのだ。
内心は、頼む、頼むから分かってくれ! と必死の形相で叫びながら。
「みーさん・・・、あのね? 本当に悪いんだけど・・・、ちょっと、あの、お客さんが来ちゃったから、お風呂場で待っててくれるかな?」
「みぃ?」
「ごめんな? 今日は一緒に隠れられないんだけど・・・、なるべく早く終わらせるから、お願いだから少しだけ大人しくしててね」
「みぃー・・・」
「いやっ、本当に悪いんだけど! あっ、あとで何かスッゴイ美味しいもの、食べさせてあげるから!」
「そうそう、ちゃんとお金出して買った唐揚げとか」
「みぃ!」
「・・・え? それで良いの?」
独りぼっちでバスに篭もることにやはり不満を感じるのか、唇を尖らせて不満を示しつつ、見つめてくる紫の瞳に寂しさを滲ませたみーさんの様に、芦と井雲の胸は力の限り痛む。
しかし負けるわけにはいかない戦いに、切り札として出した唐揚げの威力に少々驚きつつ、これはみーさん自身の為なのだと自分達自身にも言い聞かせ、芦と井雲の二人でみーさんを移動させる。
みーさんは何か言いたげな目で二人を見上げているのだが、連れて行ったバスでもう一度、少しの間、我慢してくれるよう頼み込んだ。殆ど土下座せんばかりの大人二人の姿というのは、かなりシュールではあったが。
最終的には興味を示してくれるのかどうか分からないが、時間でも潰せればと駅で無料配布されていたのを魔が差してもらってきてしまった婚活情報誌を持たせ、何度も頭を撫でてからみーさんだけを残してそっと外に出た。
そして二秒ほど、落ち着きを取り戻す為、二人でその場に固まってから・・・、慌てて玄関まで走った。たった三歩ほどの距離しかないので、二秒ぐらいで到着。問答無用でチェーンを外し、鍵を外し、「開けます!」と悲鳴のような声を上げながらドアに体当たりせんばかりの勢いで押し開ける。
「うわぁっ!」
「あっ! すんません! すんません! すんません!」
「芦っ、この馬鹿! あのっ、マジ、すんません! 怪我、ないですか!」
当然のことだが、声をかけるのとドアを開けるのがほぼ同時なので、かけた声は無駄になった。
芦にその気はないのだが、攻撃しているのと変わりないドアの動きに、外でひたすら大人しく待っていた宇江樹は悲鳴を上げながら後ろ向きに飛び退き、迫り来る鉄の脅威から辛うじてその身を躱していた。
開ききったドアの向こうに、飛び退いた時の体勢のまま、身体を仰け反らせて顔を引き攣らせている宇江樹の姿を見つけ、芦の顔も完全に引き攣る。しかしどれだけ顔が引き攣ろうとも、芦の骨の髄まで染み込んだ小心魂が、その口を突き動かした。つまり謝罪連打。
そして芦の連打の上から被せるように、同じく小心魂を持つ井雲が、仲間を罵倒することで自分達に敵対の意志がないことを示しつつ、謝罪をしながら相手の心配もするという連携プレイを繰り広げる。
少しでも善良な精神があれば、大抵、屈するこの攻撃は、少しどころではない善良性がある宇江樹には覿面に効いた。
全く非がないはずなのに、繰り返される謝罪に謝罪をさせすぎてしまったという罪悪感を覚えたらしく、「こっちこそスミマセン!」と一体何に対する謝罪なのか、宇江樹自身全く分かっていない謝罪を口にさせてしまうほどの威力。気持ちは篭もっているが意味はない謝罪、というヤツだ。
三人揃って、端から見る者がいれば互いが主導権を得る為の戦いでも行っているのかと疑うほどの謝罪連打を繰り出し続けること、約一分半。何か切っ掛けがあったわけではなく、ただ単に三人揃ってあまりなかった体力が同じくらいのタイミングで尽きた為、そこで謝罪弾は打ち止めとなった。
所詮、意味の無い謝罪は気持ちを持続させる体力がなくなれば尽きるものなのだ。
そして力が尽きた三人は自然と休息を求め、せめて座ってほっとしたいと切実に願い、結果、今繰り広げられた時間としては短いが妙に果てしないやり取りは何だったのかと思うほどあっさりと、宇江樹を中に招き入れたのだった。