⑥
本当に、本当に『それでいいのか、神様』と芦は疑問に思ったのだが、残念なことに、それで良かったらしい。
何故ならお留守の神様は輪中稲荷神社だけではなく、近所中の神社仏閣のうち、行ける範囲で行った場所、全てがその状態だったのだ。誰も、いない。いや、どなたもいらっしゃらない、と言うべきか。
大小問わず、とにかく近くにあり、人気の無い道だけで行けそうな神社や寺を再びネットで検索し、恐る恐る全て回ってみたのだが、みーさんの反応からして、本来ならそこにいるはずの神様がちゃんといてくれる場所は、一つとしてなかったのだ。無駄足、無駄骨、まさにその状態。
しかもその挙げ句、偶々その場に居合わせた名もなき人々の願い事を、その場所に奉られているわけでもないみーさんが気前よく叶えまくってしまって・・・、皆、大変喜んでいた。大変、大変喜んでいた。何も知らないからか、それとも小心者ではないからなのか、本当に喜んでいた。
芦の切なる願いは、神様不在で叶わないというのに。
「でも、他人のお願い事って今まで気にしたことなかったけど・・・」
「みぃ?」
「皆、随分勝手なお願い事、しているんだなぁ・・・。まぁ、お願い事って、そういうモンなんだろうけど」
お昼休憩を挟みながらも散々神社仏閣を巡り、何も得られぬまま最後に辿り着いた自宅に一番近い、小さな、小さな、坊主すら何故かいないお寺の片隅、妙に座り易そうな形の石に腰掛けながら、芦が唯一得たのはそんな感想だった。
普段なら誰が何を祈っていようとそうそうに分かったりはしないのだが、みーさんが片っ端から願い事を叶えてしまう為、他人の願い事が今日一日でやたらと分かってしまったのだ。
・・・人というのは、必死で願っていることが突如叶うと、一人でもその場で色々と叫んでしまうものらしく、芦の心の平和を打ち砕く勢いで願い事の内容が分かってしまう、という流れが幾度も繰り返されていた。
そうして普段なら知ることのない他人の願い事を幾つも知ってしまうと、周囲に警戒しながら歩き回った疲れや自分の願い事が叶わなかったという事実とは別に、妙な気疲れをしてしまうというか、がっかりしてしまうというか、とにかく脱力状態に陥ってしまうのだ。
困った時の神頼み、芦自身も本音のところでは同じように身勝手な願い事をしにきたわけだが・・・、いい加減にしろよ人間、という気分になってしまうわけで。
沸き上がる脱力感と、目の当たりにした人間の正直すぎるほど正直な、身勝手な本質に、芦は零れる溜息を抑えられないまま思う。幾つ回っても見つけられなかった神様達、その、不在について。
神様達・・・、もしかして人間の身勝手なお願い叶えるのにうんざりして、家出しちゃったんじゃねーの?
自分がもし神様の立場だったら絶対家出だな・・・と、この数時間の経験を思い出し、もう一つ、溜息をつく。
そして二つ目の溜息を零しながら、幾つ目かの神様を訪ねた頃から浮かんでいた可能性についても、改めて思考を巡らせる。ネットの情報や敷地内に建てられた板に書かれた由来と、齎されるご利益に対する疑問。
どれもこれも人間にとって都合の良いご利益をもたらす内容だったが、果たしてそれは本当に本当なのだろうか、という根本的な疑問だった。
由来にしたって、神様が直に語ったわけではないと思うし、つまりは人間が勝手な由来を思い描き、それを元に勝手なご利益を掲げて、更にはその勝手な言い分に乗っかって色々な人間が願い事を叶えろと押しかけて来て、仕方なくそれを叶え続けているうちに嫌気が差し、勝手に建てられた住処から出て行ってしまったのではないか、というのが今の芦の予想だった。
半ば以上、確信になっているのだが。
「みぃ?」
「ん? どった? みーさん」
「みぃー」
「あぁ・・・、またお願い事の人が来たねぇ・・・、みーさん、叶えちゃ駄目だからねー」
「みぃ?」
「いやいやいやっ、止めようねー、みーさん、お願いだから止めようねー、みーさんが叶えなきゃいけないほどの深刻なお願い、絶対しないと思うからねー」
「みぃ・・・」
ぼんやりと前方を見ていると、今まで誰も居なかった敷地内に一人の中年男がふらふらと歩いて来るのが見えた。
あの宇江樹の父親ほどではないが、平凡レベル中という感じの、特出した部分を見受けられない草臥れたその中年男は、ふらふらとしているのに迷いのない足取りで寺に向かって歩いていく。間違いなく、芦には何という名称か分からないあの大きめの鈴を鳴らし、願い事をするのだろう。
ちなみにこの寺の神様がもたらしてくれるご利益は出世らしい。由来も見たはずだが、既に芦の中で人間が記載している神様に纏わる諸々は信頼するに値しなくなっていたので、目にして数秒で忘れてしまっている。
そしてとりあえずは覚えているご利益が実現しないように、芦は歩いている男に注目して目を輝かせているみーさんをやんわり、且つ、切実に止めた。この制止が数秒遅かったあまりに、取りかえしのつかない事態に何度もなっている為、その声も口調のわりには必死だ。
尤も、取りかえしがつかないのはあくまで芦にとってだけで、理由を知らない人達にとってみれば望むべき事態ではあるのだろうが。
芦に止められ、少しだけ不満そうな声を漏らすみーさんは、おそらくフードの影の中で、声と同じように不満そうに唇を尖らせているのだろう。
小さな子供が大人に手伝いを断られて浮かべる不満の顔と同じそれに、可哀想な気持ちはあるが、芦はみーさんのお手伝いを許すわけにはいかなかった。
その為、足をぷらぷら揺らして不満を示すみーさんを、肩や頭を撫でて宥めつつどうにか莫大なご利益をもたらさないよう阻止して。
こんな訳も分からずほいほいお願い叶えちゃうみーさん、下手な人間なんかに見つかるわけにはいかないよなぁ・・・。
特にあの電波達には絶対渡せないよな、何かとんでもない事件とか起こしそうだし・・・、等と芦は今まで幾度も抱いた決意を新たにする。
自分達だけではなく、他の神様への願い事も簡単に叶えてしまうみーさんを見れば、訳も分からず悪事に手を染めさせられる哀れな姿を連想してしまい、撫でる手にも力が篭もる。
何よりたとえば芦の想像通り、勝手な理由や言い分で奉られ、ご利益を望まれていて、それが嫌で他の神様達が家出中だったのだとしても、自分達が奉られているテリトリーで勝手気ままな振る舞いをしてしまい、みーさんが子供とはいえ叱られないかどうかも心配なら、そのみーさんを連れ回している我が身も天罰が下らないかどうかがかなり心配だったのだ。
・・・そう、実は神社仏閣巡りの途中から、天罰、という単語が今まで以上に芦の脳裏を何度も過ぎっていたのだ。今も目の前に、漠然とした姿で映り込んでいる。ついでに必死で手を合わせてお願いしてる中年男の姿も映っている。
出世したいならこの時間を使ってもっと必死に働けよ、と出世にひと欠片の興味も無い、向上心や野心も全くない芦は思うのだが。
「どうしたもんかなぁ・・・」
「みぃ? みぃー・・・、みぃみぃ・・・」
「あー・・・、もしかして飽きちゃった?」
「みぃ・・・」
「まぁ、そりゃ、ぼうっと座ってるだけじゃ飽きちゃうよなぁ? ・・・仕方ないし、もう帰ろっか? 他の神様、見つからないもんな。家に帰って、井雲と他の方法、考えよう」
「みぃー」
ぼんやりとしているうちに、中年男は願い事を終え、芦達の視界から去って行く。それを機に、願い事を叶えることすら出来ずにただ石に座っているのに飽きてしまったらしいみーさんの訴えを受け、芦は重い腰を上げた。
まだ他にも行っていない小さな神社仏閣が幾つか残っていたが、これ以上時間をかけると、そろそろ学生の帰宅時間に重なってしまい、人通りが少ない道を選んでも目撃される可能性が高くなるし、何より残っている場所を全て回ったとしても他の神様に会える気が全くしないので、帰宅の途につくことにしたのだ。
芦は腰以上に重い溜息を幾つか地面に転がしながら、みーさんの手を引いて再び歩き出す。勿論、寺を後にする方向でだ。芦と再び歩き出せたことに、座って周りを眺めているだけの状態に飽き飽きしていたらしいみーさんは喜び、楽しげに、弾むような足取りで歩いている。
反対に、腰も溜息も重かった芦の足取りは、当然ながら重い。しかも携帯電話で帰宅ルートを検索している為、歩行速度自体が遅い。
「この時間帯なら・・・、少し遠回りでも、河原沿いを回っての方が人が少ないみたいだなぁ・・・、でも散歩している奴とか、いないのか?」
「みぃー!」
「ん? どった? ・・・あぁ、河原沿い、歩いてみたいの?」
「みぃっ!」
「そっかぁ・・・、まぁ、散歩コースとして最適だもんなぁ。・・・他の奴が散歩してなければ良いんだけど」
検索したルートは、夕飯の準備を始める主婦達がいそうな場所を避けた、河原沿いを行くコースだった。
芦のイメージ的に、常時暇そうな人間が散歩していそうなその場所に多少の躊躇を覚えたのだが、嬉しげな声を上げるみーさんがそのコースに興味を持ってしまったのが分かり、ネットの検索結果に従う決断をする。
・・・この数時間に、後ろ向きではなく得られたモノがあるとするなら、みーさんの鳴き声だけでその意図を察知する能力が高まったことと、そのみーさんを連れて外を歩くことに対するある程度の度胸だけだろう。
これが本当に前向きに得られたモノなのかどうかは、まだ検討の余地があるのかもしれないが。
検索を終え、ルートを頭に叩き込んだ芦は携帯電話をポケットに仕舞い、寺の敷地を出て河原を目指して人気の無い道をみーさんと共に歩く。
流石に夕方近くなった為、歩き始めた頃とは違い、人気の無い道を選んでいても時折、人の姿を見つけるようになっていたが、芦にはこの数時間で得られた多少の度胸があったので、動揺は最小限に留められ、通りがかった人の視線からみーさんを自分の身体で隠しつつ、歩き続ける。
勿論、見ず知らずの人間と擦れ違う一瞬、多少の距離は開けていても、やはり身体に走る緊張までは打ち消せない。
しかしあまりにも人に会わなさすぎた頃に感じた『ここは廃墟か!』という自分が住む地域に対する虚しさからは多少、脱却出来たので、それはそれで芦に安堵をもたらしていたのだが・・・、安堵を感じてしまうぐらい廃墟感があった事実に同時に落ち込むという、乙女心より尚、揺れ動く心を抱えて歩くこと、十数分。
到着した河原は、予想より人気が無い、けれど全くないわけではない、ある意味丁度良い状態だった。
もう間もなく水面を橙色に染めるだろうその場所は、芦達が降りた辺りは人気がないが、河を挟んだ対岸にはバトミントンやキャッチポールをしている子供の姿がちらほら見えた。
また、芦が想像していた通り、降り立った場所から少し距離のある位置には老人や犬を連れた人が散歩をしていて、このままじっと佇んでいればやがて追いつかれてしまうだろう方向、つまり芦達の方へ少しずつ近づいてきていた。
「・・・行こうか、みーさん」
「みぃ!」
河の傍に降り立ち、周りの様子を窺うように止めた足を、繋いだ手をやんわり引っ張りながら再び動かし始める。
芦の検索結果によれば、この河原を二〇分ほど歩くことになるのだが・・・、景色が変わった所為か、沸き上がる好奇心が抑えきれないらしいみーさんが前後左右を忙しなく見渡す為、先ほどより遅くなってしまう歩みがもう少しかかるだろう時間を予想させていた。
本来なら、そんなにのんびりと歩くわけにはいかない。少なくとも芦の認識ではそうだ。・・・が、しかし。河原の時間はその水の流れに時間を左右されているらしく、ゆったりと流れている水の動きに併せて、芦達の時間も緩やかになってしまう。
町中なら急かすはずのみーさんの歩みを急かすこともなく、芦自身に強くあったはずの周りへの警戒心も緩み、気がつけばみーさんと共に、それこそただの散歩でしかない状態になっていて。
対岸で遊ぶ子供を見たり、前方で犬の散歩をさせている人を見たり、土手を上った辺りを軽快な速度で行き交う自転車を見たり、偶に振り返って徐々に距離を開ける老人を眺めたり・・・、手を引いているみーさんを見たり。
ふと、怠惰な気持ちではなくこんなにゆったりと道を歩いたのは久々かもしれない、と芦はどこか懐かしい気持ちで思う。
バイト以外は時間を持て余している状態なのに、その余っている時間をどう使うかといえば、家で無為に過ごすか、井雲と怠惰な態度でコンビニに行って、それからまた怠惰に二人で過ごすかで、ゆったりとした時間をゆったり感じたのは学生時代以来かもしれない、と気がついてしまったのだ。
別に無為で怠惰な在り方を否定しているわけではないのだが、それでもその時の芦は何となく、気分が晴れるような、自分がとても前向きな人間に生まれ変わったような、もう少し頑張れるような、そんな気分を感じていた。
・・・まず間違いなく、それはただの気分であって、本当にそういった人間に生まれ変わったわけでも変化が起きたわけでもないのだが。
「みぃー・・・」
「んー・・・? どうした? 何か気になるものでもあった?」
「みぃー」
気分だけは前向きに歩き続ける河原で、芦の気分が伝染したわけでもないのだろうが、手を繋いだ先からも楽しげな声が上がった。
芦が見下ろすと、みーさんは繋がれていない方の手で・・・、正確に表現すると、裾で指先すら全く出ていない手もどきの状態の手で対岸を指し、半ば弾むような足取りで楽しげな気分を表現していた。
示された先には、いつの間にかひと組の親子が芦達と河を挟んで並んでいるかのように歩いている。母親と、まだ小さな、おそらく就学前の女の子。膝丈のスカートが揺れて、その影が青い小さなスニーカーに絡みつくように踊っている。少女は母親と手を繋いだまま、母親の顔を振り仰いで、何かを一生懸命話しかけている。
「みぃ・・・」
たぶん、大人からしてみれば大した内容の話ではない。話が聞こえていない芦ですら、確信出来る。
しかし空いている手を振り回してまで訴えている何かは、子供である少女からすれば一大事で、自分にとっての一大事を一番信頼する母親に知って欲しいと願っているのだろう。母親なら分かってくれると信じてもいるのだ。
母親は子供の話に耳を傾けながら、優しげな笑みを浮かべて何度も頷いている。河を挟んでいるから容姿もあまり分からないのに、微笑みの形だけは分かるのだ。子供が必死で話す他愛ない話を、他愛ないと知りながらも大切に聞いている、母親の笑みを。
「みぃっ」
穏やかに歩き続ける親子の正面から、その時二人組の子供が駆けてくる。手を引かれている少女より年長の、ランドセルを背負った男子児童二人組。二人で走りながらじゃれ合って、軽く互いを叩く振りをしながら、河を挟む芦の耳にすら入る大声で笑っている。一点の染みもない、完全な平和の中を駆けていく。
親子の隣を擦れ違う瞬間、母親の視線がその二人の子供に向き、一瞬、穏やかに目が細められた。まるで何かの祝福のような形に細められた目は、母親であるという事実を幸福として享受している。
無責任で怠惰に生きている事実を幸福として享受しているのが恥ずかしく思えるほどのそれに、芦は無意識に目を逸らした。
そして逸らした先、反対側の土手の上では、中学生か高校生のカップルが、ぎこちない仕草で手を繋ぎ、並んで歩いている。まるで何かに視線を釘付けにされたかのように前ばかり見て、せっかく並んでいるのに相手の顔を見ない。
『初々しい』を絵に描くとこうなる、と言わんばかりの光景だった。
「みぃ・・・、みぃー・・・」
手を繋ぎ歩いているみーさんは、何度も、何度も声を上げる。芦が目にしたのと同じ光景を目にして、幸せそうに騒ぐ、みーさん。
周りのどこか懐かしさすら感じる、幸福な・・・、けれど芦が最近見かけていなかっただけで本当はとてもありふれている光景より、手を繋いでいる神様、みーさんへと芦の注意は次第に戻っていく。
前後左右、どこを見ても嬉しそうに、楽しそうにしている神様。視界に納められる範囲で繰り広げられる光景は、確かに芦にとっては懐かしさすら覚えるほど久しぶりに目にする光景ではあるが、しかし世間一般的には滅多にお目にかかれないほど珍しい光景かといえば、そんなことは全くない。見ようとするなら、どこででも見られる光景なのだ。
でもそれなのに偉大な存在であるだろう神様は、おそらく目を輝かせ、喜びを露わに眺めていた。