④
一歩外の世界に踏み出すだけで、ここまでの緊張を強いらるなんて、芦と井雲、二人の人生において初めての経験だった。
頼れる者はお互いだけ、そんな心境で二人はみーさんを連れ芦宅を出た。
井雲は直前まで、先にバイトに行くからと自分一人だけ難しい問題からの脱出を図っていたのだが、せめて出来る限りは手伝えという芦の血涙を作ってやるぐらいの鬼気迫る様に折れ、結局、井雲のバイト出発時間に併せて作戦は開始されることとなった。
つまり、ただ皆で一緒に芦宅を出て、途中までは井雲も同行する、というだけのことなのだが。
二人は色々な相談の結果、自転車ではなく、徒歩移動を選択していた。自転車の荷台にみーさんが乗り、全力疾走、時間短縮を最優先で行くという案もあったが、どう考えても自転車に乗り慣れているとは思えないみーさんの安全性と、風でフードが捲れてしまった場合の危険性を考えると、時間をかけてでも慎重に歩きで向かう方がまだマシだろうと判断したのだ。
芦宅を出て、二人、みーさんを真ん中に据えて、芦がみーさんの手を長すぎるパーカーの袖越しに握り、井雲が周囲を警戒しながら、予め検討しておいた人気の少ない通りを選んで進む。
幸い、平日の日中、通勤時間帯も過ぎ去った今、そもそも通りを歩こうとしている人間自体が少なく、全く誰にも行き交うことはなかった。
そしてこのまま神社まで慎重に二人で進められたら、それがベストだった。少なくとも、芦にとってはベストだった。しかし無情なことに、別れの時は訪れてしまう。・・・井雲のバイト先への、分かれ道だ。
「あーちゃん・・・、心残りは多々あれど、残念ながらここでお別れだ」
「いっくん、台詞のわりには、顔が晴れやかに笑ってる気がするんだけど?」
「みぃ?」
「んなことないって! 俺はここから先、同行出来ないことをとても残念に思っている! でも仕方がないんだ、バイトだからな! みーさんは俺の苦しい心の内を分かってくれるよなっ?」
「みぃー!」
「・・・訳も分かってないみーさんに、勝手に同意を求めるな」
「まぁまぁ、そんな仏頂面するなって。大丈夫だよ、ここまで誰も会わなかったじゃん。俺達のルート選択は、ばっちりだったってことだろ? このまま気をつけて行けば、何事もなく到着するって」
「そうかぁ?」
「そうそう。到着さえすれば、あとはお願いするだけだろ。あれだけ立派そうな神社の神様なら、説明してお願いすれば、あとは良きに計らえ、みたいな感じになるって」
「・・・その台詞の場合、計らうの俺になると思う」
「細かいこと、気にするなって。じゃあ、俺、こっちだから。気を抜かずに、気をつけろよー。みーさんも、フードとか取れないように気をつけてね」
「みぃ!」
訪れた分かれ道での簡単なやり取りの後、今までの慎重さを滲ませた強張った表情が嘘みたいに晴れやかな顔をした井雲は、大袈裟なまでに手を振りながらその場を後にした。
おそらく、あそこまで浮き浮きとバイトに向かったことは今まで一度としてなかっただろう。続いていた緊張感から解放されたことに加え、これから先、芦が上手くやりさえすれば、自分も貧しさから脱出出来るに違いないと、訪れるかもしれない未来に心を躍らせていたのだろう。
心なしか・・・、否、確実に去って行く井雲の足取りは、普段にないリズムを刻んでいた。
一方、残された芦の表情は・・・、死んでいた。目が完全に虚ろだったし、あっという間に見えなくなった井雲の残像を、いつまでも視線が追い続けていた。しかし失われた存在にその場でいつまでも思いを馳せてるわけにもいかない。
何故ならこの場に留まり続けても、第三者に遭遇する確率が高まるだけだし、思い続けたからといって井雲にその気持ちが伝わるわけでもないのだ。というか、伝わったとしても絶対に戻ってくることはないのだし。
「・・・行こっか」
「みぃー」
繋いでいる手が、たとえとんでもない非常事態を引き起こした存在でも、独りぼっちよりは遙かに心強かった。とくにひんやりとしているはずの鱗柄に、僅かな温もりを感じる気がしている、今は。
芦は半ば縋っている小さな手を引き、今まで以上に慎重に歩を進める。予め頭に叩き込んである道順を、前後左右、何度も見ながら少しずつ進み、途中、飛んでいる蝶を見つけては鳴き、歩き去る猫を見ては指差し、流れる雲を見上げてはフードが取れそうになるみーさんの注意を、その度に歩くことに向け直しながら・・・、身体の節々におかしな汗が滲むほど緊張感漲るまま、歩き続けた。
体感時間としては、永遠より少しだけ長いぐらいの時間。実際の時間としては、三十分ほどになるだろう芦とみーさんだけの道程は、振り返ってみると不気味なほど、もしくは虚しいほど、人っ子一人擦れ違わなかった。
いくら人通りのない道を選び、慎重の上に慎重を重ねた道程とはいえ、所要時間を考えれば、何か特殊な力が働いたのではないかと疑うほどの人気のなさ。もし何の力も働いていないのだとしたら、地元のあまりの廃墟ぶりに滲む涙を拭いそうになるほどの人気のなさ。
・・・ここって、東京の田舎だと思ってたけど、東京の過疎地の間違いだったんだな。
改めたくなかった認識を改め、目的地を前に、芦の肩からは力が抜け、哀愁が漂っていた。
倦怠感が身体に纏わりつき、見上げる十数段の石階段を上る気力すら萎えそうな芦は、ともすればその場でしゃがみ込んで休息を必要とするほどだったのだが・・・、しかし同じように石階段を見上げる小さな神様は、力ない芦の様子に全く気づかず、何故か両手を振り上げた。
芦と手を、繋いだままで。
「みぃー!」
「どっ、どうしたっ?」
「みぃ! みぃ、みぃみぃ、みぃー!」
「もっ、もしかして・・・、か、感じるのか? 感じちゃってるのか? 大人の気配を!」
「みぃ!」
「おぉっ、よし、行こうっ、みーさん!」
突如上がった小さな雄叫び。振り上げる小さな両手に負けんとばかりに上がった上機嫌なその雄叫びに、力が抜けきっていた芦は驚きのあまり、数センチほど飛び跳ねてしまう。
しかしフードの所為であの無邪気な瞳が見えなくても察せられる嬉しげな雰囲気に、芦もまた、すぐさま決死の努力でこの地を目指した理由を思い出し、繋いだ手から興奮が伝播したかのようにテンションを上げ始めた。
この時、芦の目の前をやたらとゴージャスな椅子にふんぞり返って座っている自分の姿が過ぎったのは、勿論、全てが解決した際、手に入れるだろう・・・、正確に言えば、躊躇せず引き替えて得るだろ億単位の当選金のイメージ画だったのだが、少々品のない人間の胸の内は、楽しげにはしゃいでいる小さな神様の認識外だったろう。・・・たぶん。
興奮している直接の理由が一致しないまま、でこぼこな人間と神様コンビは石階段を心持ち急ぎ足に上っていく。子供の歩幅では上りにくい高さの段に一生懸命片足をかけ、上ろうとするみーさんと、そんなみーさんの小さな身体を半ば持ち上げるようにして繋いだ手で引っ張り上げる芦。
みーさんはともかく、芦まで先ほどの緊張感が吹き飛ぶような興奮ぶりだった為、いつの間にか周りへの警戒すら忘れ果て、ひたすら階段を上ること、その先に向かうことばかりを意識し、一段、また一段と上っていって・・・、幸いなことに、上り切るまでに誰にもその姿を見咎められることはなかった。
ただ少しだけ残念なことに、冷静さを欠いている芦は、その幸運に気づくことはなかったのだが。
だが幸運に気づこうと気づくまいと、上り切った先には期待通り、もしくは予定通りの存在が、重厚感を漂わせて鎮座していた。
────『輪中稲荷神社』、芦達の希望を一心に引き受けているその神社は、所謂縁結びに御利益がある神社らしい。
ネットで芦と井雲、二人がかりで探し出した情報・・・、といってもそんなに大した情報量ではないのだが、それによると、この神社は神社らしくお稲荷様がいて、意中の人との縁を結んでくれる、という話なのだ。
芦と井雲は、そのお稲荷様というのが神様なのか、狐なのか、狐型の神様なのか、いまいち良く分かっていなかったが、とりあえずはよくある縁結びの神社ではあるようだった。
ただ普通の縁結び神社と少し違う点があるとするなら、既に他の人間と縁が出来ている相手との縁を結んでくれる、という点だった。
・・・それは所謂、略奪愛じゃないのかとか、神様がそんなことして良いのかとか、芦としてはそう思わなくもないのだが、境内に落ちている石を拾って縁を結びたい相手を思い浮かべ、その石を境内にある小さな池に投げ込む。
するとお稲荷様がその思いの真摯さや重さを吟味してくれて、もしそれが意中の相手と既に結ばれている人より真摯で重い気持ちならば、縁を自分の方に結び直してくれる、という話なのだ。
一応、どれだけの気持ちがあるのかなどを審議してくれるという話ではあるが、芦はどうしても、それってどうなのと思ってしまう。大体、その意中の相手の気持ちを無視するのと同じになってしまうのではないかとも思うのだ。
意中の相手は、どれだけ真剣に思ってもらおうと、今、縁が出来ている人と一緒に居たいと思っているかもしれないのだ。
それなのに神様の審議に受かったからといって勝手に縁を結び直されても、それこそ余計なお世話というヤツじゃないかと芦は思うのだが・・・、思うだけで勿論、口には出さない。
なんせここは境内、そのお稲荷様の陣地だ。下手なことを言って罰が当たっては堪らない、という計算が半ば無意識に働いている。おまけにこちらは今回、お願いに伺っています、という低姿勢スタイルなのだから。
「・・・うん、神様が審議した結果の方が、ちっぽけな人間の価値観なんかよりずっと良い結果のはずだもんね」
「みぃ?」
「いやいや、神様は偉大だよって褒めてるんだよ。・・・あ、勿論、みーさんもだからねー」
「みぃ!」
本殿へと近づきながらも、どうも納得いかない芦の胸の内は、ひたすらこの神社の御利益とやらに疑問を呈している。
しかし口に出していないとはいえ、神様を疑うような呟きを抱え込んでることが当の神様にバレないか心配になって誤魔化すように呟いた独り言には、手を引いている神様であるみーさんの方が反応し、不思議そうに芦を見上げて鳴いていた。そのみーさんの疑問も、誤魔化すしかなかったのだが。
誤魔化しだらけの人生である芦の反応を、幸いにもみーさんは気にしなかった。芦に手を引かれるまま本殿に近づきつつ、視線は周りへと向けられて、何度も左右に首を傾げている。
他の神様の領域に入るのが珍しいのか、それともただ単に、知らない場所を歩いているのが珍しいのかは分からないが、とりあえず芦が窺う限りはご機嫌のようなので、この神社の神様の不興を買っている様子もなかった。
神様というものは縄張り意識やプライドが高そうだという印象を持っていた為、子供とはいえ、他の神様であるみーさんが足を踏み入れたら相手の不興を買ってしまう可能性もあるんじゃないかという危惧を、芦は井雲と共に多少持っていたのだ。
しかしそんな心配は杞憂だったらしい。流石に神様とはいっても子供に高いプライドを見せつけて威嚇するような真似はしないんだろうなと、芦がそう思った時だった。あと少し、ほんの数メートルで本殿のすぐ目の前まで辿り着くというところで、ふいにみーさんの足が止まってしまった。
引いていた手が反抗を思い出したかのようにその場で動きを止めてしまったので、踏み出そうとしていた芦の右足も踏み出しきれずに小さな蹈鞴を踏む羽目になる。
突然の出来事に、動かなくなってしまったみーさんへと視線を向ければ、何故か斜め後ろへ首を捻り、その向きのまま首を傾げている、小さな、小さな神様の姿があった。
「みーさん?」
「みぃ・・・」
フードの影で僅かな横顔しか見えなくなってしまったみーさんに声をかけてみたのだが、よほど何か気を取られることがあるのか、小さな鳴き声を零すばかりで芦に視線が戻ることはなかった。
そこで代わりに芦の方がみーさんの視線の先を追いかけてみると、本殿からあまり離れてない位置に立っている巨木のすぐ傍に、一人の女が俯いて佇んでいたのだ。そのすぐ傍に広がる池に、今にも正面から倒れ込むのではないかと思うほどの前傾倒姿勢で。
芦は最初、気分でも悪いのかと思った。何故ならその女は顔に両手を押し当てるようなスタイルで俯き、ぴくりとも動かないでじっと突っ立っていたからだ。
その為、急に気分が悪くなって木の陰で休んでいて、その様をみーさんが心配して見つめているのだと思ったのだが、真相は全く違ったらしい。
何故なら全く動こうとしないみーさんに合わせて立ち止まり、少しの好奇心と心配でその女を見つめ続けているうちに、一度、女が顔を上げ、顔に押し当てるようにしていた両手を開き、その手の中をじっと見つめた為、分かったのだ。
女はすぐにまた両手を閉じ、俯いて顔に閉じた両手を当ててしまったので見えたのはほんの数秒だけだったのだが・・・、その短い時間でも、間違いなく見えたのだ。両手の中に大切に握り込まれ、今もまた、顔に・・・、否、額に押し当てられているそれが。
石、だった。ちっぽけな、白っぽい石。芦やみーさんの足下に転がっている物と同じ、石。
額に押し当てるその行為は、見ようによっては祈りの仕草にも似ていて・・・、否、似ているのではなく、祈りそのものなのだろう。たとえそれが相手にとって身勝手なものだとしても、彼女にしてみれば切実な祈り。
じっと見ている芦やみーさんというギャラリーに気づく余地すらないほど、必死に捧げられた祈り。
綺麗な言葉で言えば、一途な愛の祈り、露骨で品のない言葉で言えば、略奪愛の祈り。
ようやく理解した祈りの形に、視界に映る場所で現在進行中である現実に、芦の胸には形容しがたい微妙な感情が滲み始めていた。勝手な愛を祈る女に対する蔑みや哀れみ、呆れつつも酷く哀しくなるような、溜息を漏らしながら目の奥が痛むような、目を背けたくなりながらも瞬き一つしたくないような、そんな複雑で曖昧な気持ちが絡み合って滲み、どんな形を作っているのか分からなくなるほど色々と滲む。滲む、滲む、滲む。
女は滲んだ芦の視界の中で、思い詰めた表情を浮かべた顔を上げると、握り締めていた祈りをすぐ傍の池に投げ込んだ。