①
「あぁ、神よ!」
物凄い勢いで何かを振り切った声が辺り一帯に響き渡るのを芦奏汰が聞いたのは、バイト明けの一眠りから覚め、丁度その日、バイトが休みだった友人と連れだってコンビニに行く途中のことだった。
自分が働くコンビニからは、商品も貰うものであって金を払って得るものではない、と思わずにはいられないほど廃棄商品を毎日貰って帰っている芦は、その時、働いているのとは違う系列のコンビニへ向かう最中だったのだ。大した用事もないのだが、何となく寄ってみようという酷く怠惰な理由で。
大学を卒業して以来、客観的に見ても怠惰なバイト生活をしている状態の芦が、同じく怠惰な生活をしている友人と、怠惰な時間の延長を過ごしている最中に遭遇したその光景は、あまりに見かけないが偶になら見かけるもので、少しだけ歩調を緩めるが、決して止めたりはしないようなものだった。
理由は、気にはなるが関わり合いにはなりたくないからだ。
常に人気が無い通り、その車道のど真ん中で両手を握り締め、握り締めたその手を少し仰向いた状態の額に押し当てて目を瞑っている、黒のハイネックに同じく黒のロングスカート、腰まである長いストレートに厚底の黒いブーツという、魔女のような格好をしている一人の女。
そしてその女の横に、二歩ほど距離を保って佇み、胸の前で両手を握り締め、少々乙女チックに見えるお祈りポーズで女を見つめる、眼差しが夢見がちでちょっと何処かにいきかけている様子の中年男性。
聞こえてきた雄叫びを考慮するまでもなく、芦からしてみれば明らかに生涯関わりのない方向を向いているのだろうと察せられるその二人組は、芦達が歩道側を歩き、横を通り過ぎる間、ずっとお祈りポーズで固まっていた。相変わらず、車道のど真ん中、車が通る可能性を一切放棄した場所で。
迷惑な奴等だなとか、危ない奴等だなとか、横を通り過ぎる間に芦が漠然と浮かべた感想はその二つで、他には目を合わせないようにしようとか、声を掛けられても無視しようとか、想定される事態に対するそんな簡単な対処法も浮かべていたのだが、幸いにも浮かべた対処方法が活用されることもなく・・・、つまりは日常の中に埋もれてしまう程度の波しか心に起きない、たったそれだけの出来事だったのだ。
本当に、ただそれだけのことだったのに。
────まさかこれが、その後に続く非日常な日々のファンファーレとなるとは、その時、芦は夢にも思っていなかった。
「別に俺には関係ないけどさ・・・、でもああいうのって、もう少し人がいるところでやるもんじゃないの? ギャラリーがいないと、やっても意味なくね?」
「まぁ、勧誘したいならそうかもだけど・・・、でもアイツ等って、なんだか知らんけど、ずっとあんな感じらしいぞ。人がいようといまいとお構いなし、訳の分からない場所で微妙な雄叫びをあげるっていう・・・」
「つーか、アレ、知ってんの?」
「バイトの後輩が教えてくれた」
「後輩?」
「高校生。危ないヤツがうろついているから気をつけろ的な話を学校でされたんだってさ。たぶん、それがアイツ等」
「あー・・・、最近の学校って、そういうの煩そうだよなぁ」
「寄り道せずに帰りましょう、みたいな事まで言ってたらしいぜ。小学生かっての」
ある程度距離が稼げた頃、芦がぼんやりとどうでも良い感想を口に出してみると、隣を無言で歩いていた友人の井雲海翔が、同じようなぼんやりとした、どうでも良さそうな口調で意外な事を答え始めた。
てっきり自分と同じ程度の感想が返ってくるものだと思っていた芦は、思わず意外と情報通だったらしい友人の横顔を注視してしまう。
その、自分と同じくらいやる気がなさそうで、でもどことなく、自分以上に投げやりな感じも受ける、見慣れた横顔を。
「あれって、つまりカルトってヤツ?」
「知らん。つーか、カルトの定義が分からん。まぁ、宗教絡みの危なそうな奴等って認識ぐらいでいいんだろうけど」
「だな。俺もそのぐらいの認識しかねーわ。でもアイツ等、そういう感じなんだろ? なら、カルトでよくね?」
「いいかどうかも知らんけど・・・、『埋け火を授かる会』って言うんだって。新興宗教ってヤツかな?」
「いけび・・・? なんだ、それ」
「知らん」
「授かるって、その何か良く分からんヤツを神様がくれるってこと?」
「知らん」
「・・・オマエ、真面目に答える気、あんのかよ? さっきから知らんばっかりじゃね?」
「どうして俺があんな訳分からんモノの情報ばっちり持ってなきゃなんねーんだよ」
「だって高校生に聞いたんだろ?」
「俺が聞いたのは、最近、この辺りに神様的な雄叫び上げてる、怪しげな女とおっさんがうろついていて、ソイツ等が『埋け火を授かる会』って宗教っぽい会の奴等だってことだけだよ。あと、イカレているとしか思えないから、絶対に関わるなってのを、もう少し公共の場に相応しくオブラートに包んだ物言いで、ここら一帯の学校に通達されているってことだけだっての。そんな、あんな奴等の詳細まで詳しくなんて知らねーよ」
お互い偶に視線を交わしながら、歩く速度を変えることなく会話を交わす。しかし気になって向けた芦の問いに対する井雲の答えは、詳細が詳らかになるどころか、詳らかに分からない点が増えていくだけのものだった。
漠然と、危ない宗教の可能性が高く、近隣の学校に警戒されているのだな、という事は分かるのだが、肝心の正体というか、その宗教がどういうものなのかはさっぱり分からない。
勿論、どうしても詳細を知りたいというわけではないのだが、分からない事が分かってしまうと、少々気になってしまうもので・・・、大体、芦は井雲が口にした、彼らの宗教名らしきものがどういった漢字変換を成されるものかすら分からないのだ。
彼の中では、『いけびをさずかるかい』という、何故か分かるはずの漢字すら変換されていない状態。
かといって、井雲の主張が間違っているわけではない。むしろ、大いに正しいのだろう。ここで井雲があの新興宗教らしきものについて滔々と語り始めた場合、まず間違いなく、芦は全力で引くのだ。
当然のことだが、この場合、引く、というのは前向きに検討した結果としての英断的退却行動を指すのではなく、後ずさりにも似た、前方を警戒した後ろ向き的行動を意味した単語だ。つまり芦は大事な友を一人、失わずに済んだということだろう。
とにかく、ある意味めでたく円満の道を見出せた二人の会話は、そこで一旦、途切れた。芦は先ほどの二人を脳裏に思い浮かべ、聞こえてきた雄叫びを思い出し、その内容について暇潰しのように少しだけ考えてみる。・・・とはいっても、考えている内容は、往来であんな雄叫び上げて恥ずかしくないのだろうかとか、どうしてギャラリーがいないところで叫んでいたのだろうかとか、その程度の事だったが。
「・・・まぁ、そうだよな。知るわけないよな」
「そうだよ」
「いや、俺もどうしても詳しく知りたいってわけじゃないんだけどさ・・・、やっぱさ、あんな他に誰も通りかからないような場所で雄叫びなんか上げてるから、ちょっと気になってさ」
「気になって・・・」
「べっ、べつに宗教に対して興味津々ってわけじゃなくてさっ、まぁ、ちょこっと、知っているなら聞いてみたい、みたいな・・・」
「そういうのを、興味津々って言うんだろ・・・」
「・・・まぁ、そうか。野次馬根性って、庶民にはどうしても捨てがたいもんだからな」
「それには同意するな」
どうでも良い会話を、どうでも良い口調で、どうでも良く交わす二人。当面の目的地としていたコンビニは、既にすぐ目の前まで迫っていた。間もなく到着し、適当に中をぶらついて、大して値の張らない、人生にあってもなくても変わらない物を買ってから店を出て、その後は芦か井雲か、どちらかの家に向かい、何の目的もなくだらだらと過ごす。
芦の中では、まだコンビニに到着してもいないのに、更に言うならば、現在、まだ昼にもなっていない時間であるにも関わらず、今日一日の流れが全て分かってしまっていた。おそらく、井雲にも分かっているのだろう。
何故なら二人揃って、今までもこれからも、何の目的も目標もなく、流れる時間をただ諾々と過ごす事を受け入れきっているからだった。まるで大きな川の端で流される、木の葉のように。
べつに全然良いけどさ。流してくれるなら、もう何処までも流して下さいって感じだし。
いつも通りの流され具合を認識した途端、芦の中ではとても安らかなそんな呟きが自然と零れていた。別段、誰からも注視されないちっぽけな木の葉に喩えて、自分を卑下しているわけではない。芦は正真正銘、安らかにそう思っていたのだ。
勿論、同類に分類される井雲の素直な心情も似たようなもので。
他の誰でもなく、『自分』という個人を主張すること、流れに抵抗すること、自分の意思で己の手足を動かすこと、それら全ての自主的な行動について責任を持つこと、芦達はそういった、どう考えても労力を使わざるを得ないことが、真剣に、深刻に、切実に苦手な、軟弱で小心者な人種であり、またその事実に自覚的な人種でもあった。
そういった流される現状に、特別な事が何も待っていなさそうな未来に、特に得られるものがなかった過去に、悲観的になることもないのだ。
だからといって特別何かを悟って、現状を静かに受け入れているわけではない。何も悟っていなくとも、敢えて静かにと気をつけなくても、自然に現状を受け入れられるだけだ。受け入れて、そこそこ不満のない日常を送れているだけだ。何も考えていないわけではないが、特に深刻に考える事もない、ただ、それだけ。
平和が日常という服を着て、平凡という道を歩くとこうなる、という見本のようで在りたいと漠然と願っているだけ。
「あ、俺、ちょっと揚げ物気分かも」
「マジ? 俺、廃棄弁当あるんだけど・・・、おでん気分だから買っちゃおうかなぁ・・・?」
「まだ早くね?」
「売ってないかなぁ・・・?」
「オマエのコンビニは売ってんのかよ?」
「うち、まだ」
「じゃあまだだろ」
「だよなぁ・・・」
どこでも聞く、全国のコンビニ共通なのではないかと思う電子音と共に開く自動ドア。直前に交わした会話の結論通り、レジに見つけることが出来なかったおでんを思い、小さく溜息をつく芦と、その様に小さく肩を竦める井雲。どこにでもある光景、どこにでもいる二人。その他大勢に簡単に含まれてしまうけれど、それに何の不服も抱かない、今時のありふれた若者。
そんな二人だからこそ、揃って足を止めた雑誌コーナーで適当な雑誌を漁りながら向けた視線の先、自然と目に入ってしまった通り過ぎたはずの光景に抱いた感想も、やはり有り触れたものだった。
「まーだやってるよ」
「よくやるよなぁ・・・、あれって、何があったらあんな風になるんだろうな?」
「あんな風って、頭の可笑しい感じにってこと?」
「っていうか・・・、」
未だに道路の真ん中で、僅かに仰向いている女と、その女を崇めているようにしか見えない中年男性の姿に、芦と井雲の話題は自然とそこに戻っていく。呆れたような声を出す井雲に応えて呟く芦は、聞き返してきた井雲の台詞に、先に発した漠然とした自分の台詞を胸の内だけでそっとなぞる。その漠然とした形に応じた言葉を探す為に。
沈黙は、おそらく数秒。しかし視界の先に広がる光景は、その程度の時間経過などものともせずに、強制的に制止させた時間の中で、まだ神か、もしくは他の何か、神に類似したモノに対して祈っている。芦には異質に見える、その姿。
「神様とか、そういうのを信じられる人にって言うか・・・」
絶対いるわけないのに、神様なんて信じられるのって、どうしてなんだろうって思わん?
「信仰とかってさ、俺、いまいち分かんないんだよなぁ」
「あー・・・、それ、俺も分からん。完全、理解不能。全然興味ないし、一切信じる気、ないし・・・、まぁ、真剣に考えたりはしないけどさ、でも確かにああいうの見ると、オマエら何でそんなに信じられんの、って突っ込み入れたくなるよな」
「だよなぁ・・・、ああやってさ、道端で雄叫び上げたりお祈りしたり、あと、知らない人に『貴方は神を信じますか?』みたいな声かけたりもするじゃん。それで、声掛けられた人がさ、すっごい迷惑そうな顔して、鬱陶しそうに立ち去るわけ。でも、全然めげないで他の人に声かけたりするだろ? あれって、どうしたらそういうテンションになるのかなーって、偶に思う」
「目に見えないのにな、神様。見えてるって言う、頭の沸いた奴も偶にいるけど、信者とかは見えてない奴のが多いのに、それでも信じるもんな。ホント、アレは俺も、何でそんなに見えないモン、信じられるのかなって思うな。俺らには一生理解出来ん心境だな」
「まーな」
やる気なく手に取った雑誌のページをお互い捲りながら交わす、少しだけ真面目な会話。とはいっても、二人揃って最初から理解する努力すら放棄している事柄なので、会話に熱が篭もることはない。彼らにとってみれば視界に入る彼女らは、理解不能、別世界の異星人に等しいのだから、熱が篭もりようもなかったのだ。
芦はそれからも数十秒、前方の光景を眺めていたが、やがて変わり映えしないそれに飽きて、意識も視線も手元の雑誌に向けられてしまう。隣の井雲も同じ反応で、静かに手元の雑誌を見つめていた。
最後に一度、芦は前方の自分からは物理的距離以上の距離を隔てたメンバーを眺めると、その後は手元の紙面の内容で暫し井雲と盛り上がり、それが終われば店内の物色に戻った後、適当な物を手にとって、支払いを済ませてから店を出る。
その頃になれば二人とも、少し特異な光景や、その光景について多少は真面目な会話を交わしたことなんてすっかり忘れ、買った物に対する批評に終始し、前方の光景に対する新たな会話などは生まれない。視線すら隣に並ぶ友人か、もしくは自分や友人が持っている戦利品にしか向かない。
再び彼女達の隣を通り過ぎる直前ですら忘れ果てたまま、気づかないまま。
「必ずや、我らが神はすぐ傍に居られ錫! 必ずや、そう、必ずや!」
だからこそ、あと一歩で擦れ違うという直前、芦と井雲は思わず飛び上がりそうになるほど驚く羽目になる。すっかり忘れ果てていた存在が、すぐ近くで雄叫びを上げたのだからそれは驚くだろう。しかも内容が、当然のように芦達には理解不能な『アレ』なヤツなのだから、気を抜いていた分、いっそう驚いたのだ。
思わず止まりそうになる足を、それでも何とか動かし続けて雄叫びの元を通り過ぎることに成功したのは、偏に芦よりは多少冷静だった井雲のおかげだった。芦と同じくらい驚いたはずなのに、それでも止まり掛けた芦の腕を掴み、速度は落ちても決して立ち止まらずに歩き続けてくれたのだ。腕を掴んだ、芦を連れて。
これぞ麗しき友情、そんな感想を微かに抱きながら、これから先に続く怠惰な日常に向けて、芦達は更に前進して行った。