⑧
────イケビ、というのは『埋け火』と表示し、神様から授かっている特別な何かのことで、人は皆、生まれた時からそれを授かっているらしい。
しかし神様の存在を認識し、敬わなくては与えられたそれを認識することが出来ないらしく、あの埋け火を授かる会とやらは、神様を敬って、最終的には生まれながらに人が神様から授かっているというその『埋け火』とやらを自覚することを目的としているらしい。
・・・何かって何? という突っ込みが真っ先に芦の中に生まれたが、それは何とか飲み込んだ。何故ならもしここに当人達がいて突っ込みを入れたとしても、理解不能な理屈が返ってくると確信していたし、ましてや目の前の哀れな一般人にそんな酷いモノを突っ込むわけにもいかないからだ。
万が一、そんなモノを突っ込んでここに善良な市民の死骸が出来上がったら目も当てられない。過失致死なんて罪状の可能性は断固、回避したいと願っている芦である。
とにかくそういう目的らしいその会は、芦が漠然と抱いていたように信者から大量のお布施を巻き上げるというようなことはしていないらしい。勿論、お布施を全く貰っていないわけではなく、会の運営やあの主催者である女の生活はその貰ったお布施で賄っているらしいのだが、それでも莫大な金品を得て私腹を肥やしている、というわけではないらしい。
少々・・・、というか、芦の目からしてみれば大分まともな思考回路を失っているように見えるが、一応、純粋に神様を信じ、信仰を全うしようとしているだけで、神様や信仰を隠れ蓑に誰かが不当な利益を得ているということはないし、怖ろしい修行を課して信者を苛め抜いている、というわけでもないらしい。
そういう点では、芦はひとまず安心した。即座に警察に通報しなくてはいけない事態ではなさそうだったからだ。ただ気になる点は勿論ある。どうして神様の存在を嗅ぎつけたかのようにあのお堂のところにいたのかとか、この部屋にやって来たのかとか、そもそも宗教団体なら自分達が信じている神様がいるのだろうに、何故、態々他の神様のところにやって来るのかとか。
「あの人、東狐さんは、信者達からはお狐様と呼ばれています。東狐さんの名前に狐の文字が入っているからだと思いますけど・・・、まぁ、ちょっと詳しくはないんですけど、もしかしたらあの会で信じられている神様が狐だったりするのかもしれませんね」
「狐・・・、ね。そういえばさっき来てた時、そう呼ばれてたような気もするけど・・・」
・・・って言うか、狐なのに蛇の神様に何の用じゃい! という渾身の突っ込みを、事情を知らない宇江樹を前にして芦は必死で堪えた。そして気になっている諸々も、小さな神様のことが話せない為、全てを腹の中に押さえ込んだ。引き攣りそうになる顔も、なんとか取り繕った。
そのおかげか、宇江樹の話は自然とあの謎の会から、謎の会に入ってしまった父親の話に移っていく。
おそらく彼にとってはそちらがメインの問題で・・・、芦が思うに、誰でも良いから吐き出したいという気持ちもあったのだろう。芦もまた、似たような感情を持っているので、良く分かった。・・・その感情が報われて、無事、巻き込み完了した相手がすぐ傍に隠れているわけだが。
「父は・・・、母と離婚していて、僕は母に引き取られたんです。だから名字は違っているんですけど・・・」
「あの、離婚って、まさか・・・」
「あ、違います、べつにあの宗教に嵌まった所為で離婚したわけじゃなくて・・・っていうか、逆なんです」
「逆?」
「・・・離婚した後、それがきっかけであの宗教に嵌まったみたいで。しかも離婚原因、うちの母親の浮気なんですよね」
「あー・・・、そりゃ、心の隙間が隙間じゃないくらい開いてたってことだよな」
「大分落ち込んでたんですよ。しかも有耶無耶のまま、子供の僕の親権も取られちゃったみたいで・・・」
「それって、浮気した方が親権持てるんですか?」
「父は元々、メンタルが結構ぶれぶれで・・・、そのぶれぶれしている間に、全部終わってました、みたいな。うちの母親、結構鬼畜なんです」
「・・・うん、それじゃあ仕方ない・・・、かな? お父さんが宗教に嵌まるのも・・・」
「まぁ、そうなんですよね。僕も、だから父のこと、見捨てられないっていうか・・・、どうにか宗教なしで立ち直ってほしいんですけど・・・」
いつの間にか目を瞑り、苦悩を額に刻んで僅かに天を仰いて話す宇江樹の話は、少々ヘビーだった。聞いている芦の脳裏に蘇る、あの平凡な外見をしているのに現実からはみ出た目つきをしていた男の姿に、涙が滲みそうになる程度にはヘビーだった。
芦にとってみれば、危ない宗教団体を主催する女に全幅の信頼を捧げている姿は異様で、何故という気持ちがあったわけだが・・・、話を聞いてみれば、あんなに怪しげなモノに嵌まる気持ちも分からなくはないと、深く同情してしまう。
きっと縋れる人がその時、あの男にはいなかったのだろう。だから神様に縋ってしまったのだ。・・・実際には、神様を掲げた人間に縋る形になってはいるのだが。
女って、偶にマジに惨いよな・・・、と熱くなる目元を抑えながら芦がふと思い出すのは、とても個人的な思い出だ。数年前の、失恋の思い出。勇気を振り絞って行った告白があまりにも簡単に打ち負かされ、しかもそれだけではなく、その時の芦の真剣、且つ、真面目な様子を、彼女が女友達に面白可笑しく話してしまうというおまけ付きの記憶。
どうしてあんな惨いことが出来るのか理解出来ないと、あの時も散々思ったことを再び思いつつ意識を戻した先では、いつの間にか宇江樹が上ではなく下に顔を向け、ロダンの考える人となっていた。実際には考える人ではなく苦悩する人なのだが。もしくは苦悩させられる人、と言い換えても間違いではないのだが。
「まぁ、あの宗教を全部が全部、否定するわけじゃないんですけどね」
「そうなの?」
「迷惑かけておいてあれなんですけど・・・、ただ、本気で落ち込んでた父の顔を上げさせたのは、あの人なんで・・・、俺が傍にいれたら良かったんですけど、離婚した後、母に連れられて引っ越ししたり、学校変わったりで暫く会えなかったんですよ。その間、父は落ち込むだけ落ち込んでたみたいで、もしその時そのままだったら、それこそ自殺の可能性もあったと思うんです。それを考えると、感謝するべきなのかもしれませんが・・・、」
「やっぱ無理って感じ?」
「・・・立ち直って、思いっきりおかしな方向へ向かっている気がしてて・・・、それに自分の時間とかお金とか、全部注ぎ込んでるんですよ。一般信者は適度なお布施で済んでいるんですけど、父の場合は過剰に、しかも自主的に嬉々としてお布施しているから、そろそろ止めたくて」
「大変だなぁ・・・」
「まぁ、身内のことではあるので。ただそういうわけで、僕も時間が空く時は父の後を追って、変なことをしていないか確認してるんです。今日は仕事も休みだし・・・、というか、休みだから父もうろうろしているんですけど・・・」
「え? お父さんの仕事が休みなの?」
「僕、今、父と同じ会社に勤めているんです。それで今日は会社の定休日なので、父も僕も休みなんです」
「あぁ、それで・・・」
「えぇ、それで実の父をストーカーよろしく追ってました。そうしたらこちらのお宅に突進していったので、てっきり・・・、本当に良く確認もせずにすみませんでした! 父共々、ご迷惑をおかけしてしまって・・・」
「あっ、いや! あの、お父さんはともかく・・・、ってか、その、あの、宇江樹さんは別に何も悪くないんで! 色々教えてもらえて、助かりましたし!」
「いえ、そもそもご迷惑をお掛けしたのは父なので・・・、でも、そう言っていただけると、少し気が楽になります」
宇江樹蒼空は言葉とは裏腹に全く楽になった様子のない顔で、何故か斜め上の辺りへ視線を飛ばしながら虚ろな笑みを浮かべてそう言葉を結んだ。
その視線の先に何が見えているのかが気にはなったが、何が見えても見えなくても貰い泣きしてしまうだろう予感があった為、芦は決してそちらに視線はやるまい、と固く、固く誓って前だけを見ていた。
つまり危険な方向へ視線を飛ばし、虚ろな笑みを浮かべたままの宇江樹を見ていたということだが。
・・・これが宗教ってヤツなのかなぁ?
薄れていく興味を辛うじて引き留めながら宇江樹の話を聞いた末に抱いた芦の心中は、そんな漠然とした疑問だけが浮かぶ結果となっていた。
元々宗教に興味がなかったので、大した考えや印象があるわけでもないのだが、それでも信じている本人以外の身内にこれだけ苦悩を与えるのが宗教なのだろうかという疑問が浮かんでしまうのだ。
そしてその疑問は、自然と根本的な疑問へと流れていく。宗教って何? という疑問。
自分が幸せになる為なのか、誰かを幸せにする為なのか、修行みたいなことでもしないと駄目なのか、でもそんなもの、何の為にするのか、大体あの埋け火を授かる会とやらの神様は狐なのか蛇なのか、たとえ蛇でもうちの小さな神様には関わるなとか、っていうかオマエ達、神様に怪我させただろうとか。
疑問は芦の中をぐるぐると周りながら、次第に意味不明な方向へ進み、同じ場所を行ったり来たりしては何も答えが出せずに元の場所に戻る。
芦自身、あまりに疑問が自分の中を迷走する為、一体何を疑問に思っているのか分からなくなっていて、気がつけば宇江樹同様、斜め上の辺りへ呆然とした視線を投げかけ、口元に曖昧な笑みを浮かべている状態で黙り込んでいた。
人という生き物は、思考の迷路に追いやられると、自然と斜め上の辺りに視線を連れて行かれるものらしい。知っていても全く役に立たない、むしろ知ってしまうと心が折れそうになる真理に直面していた芦には、その真理から逃れるだけの力はなかった。
ただもう一人、芦と同じ真理にこの場で直面している人物は、もう何度も直面している所為か、芦より遙かに力があった。・・・真理から逃げるという、微妙な力ではあるのだが。
「・・・あの、そろそろお暇しようと思うんですけど」
「あっ、そ、そうですか?」
「はい、突然押しかけておいて、長居してしまって申し訳ありませんでした」
「いや、本当に気にしないでください」
「僕、これからまた・・・、父を追いかけないといけないので・・・」
「あー・・・、あの、がん、ばってください・・・」
「はい。世の中にこれ以上ご迷惑をかけないよう、全力で頑張ります。・・・あ、そうだ、良かったら僕の携帯番号、残しておくので、もし父がまたご迷惑をお掛けした際は、ご連絡いただければ・・・」
「あ、ありがとうござます」
視線を危険地帯から引き戻した宇江樹は、謝罪と、父親に対するストーカー宣言をしながらも鞄から小さなメモ帳を取り出し、自分の携帯番号とメールアドレスを記入して、そのページを千切って芦に差し出した。
番号交換の申し出ではなく、あくまで父親が迷惑をかけた際のフォローとしての役割をはっきりとさせるべく、自分の番号だけを差し出してくる宇江樹の行動に、彼の誠実さを見た気がして、芦はその時初めて、目の前に座る疲れ切った同年代の男に対して、同情や哀れみではない好感を抱いた。コイツとなら、それなりにやっていけそうだ、と。
しかし同時に、親しくなる機会もないだろうなと芦は思う。何故なら今、この男は父親のことで手一杯で、その父親が迷惑をかけていた人間と友好関係を結べるほどの心のゆとりがないだろうから。残念とまでは言わないが、せっかく縁があったのにな、とは少しだけ思う。
思う、が・・・、それもただそこまでで。
「じゃあ、これで・・・、お騒がせしました」
「いえいえ、あの、大変だろうけど・・・、倒れない程度に、程ほどに頑張ってください」
「ありがとうございます。もし父がまたご迷惑をお掛けしたら、遠慮せずにすぐ連絡ください」
「うん、こっちこそありがとう」
「いえ、それじゃあ・・・」
人間性的には友好関係が結べるはずだった相手は、玄関先で見送っている芦に向かってもう幾度目かの謝罪と礼を口にして、これまた何度目かのお辞儀をし、それから静かに外の世界を歩いて行った。
消えていくその姿を見送りながら、芦は親が自分の為に頭を下げたことはあっても、自分が親の為に頭を下げたことはないなと、改めて自分には真似できない立派な行動を取る宇江樹蒼空という男に好意と軽い敬意を覚えた。
たとえその後ろ姿が肩を落とし、足を引き摺るような惨めで力ないものであったとしても、たとえ進む先が父親へのやらざるを得ないストーキング行為だとしても、たとえそれほどの惨めさに耐え進み続けた先に、未来が待っていないのだとしても。
「頑張れー」
一体どこへ向かっているのか、父親の行き先に心当たりがあるのかどうか分からないが、その姿が角を曲がり、完全に見えなくなったところで芦は小さく、消えた姿に対する応援を口にする。自己満足ではあるが、結べなかった友情に対するささやかなオマージュのつもりだ。
・・・実はオマージュの意味が芦には良く分からないのだが、なんとなくそんな単語を思いついた芦は、そのオマージュを捧げた後、今度は自分自身の問題を向き合う為に、部屋の中に引き返したのだった。