⑥
携帯電話を握り締め、言葉を失い呆然としている井雲の様は、結構な長さの付き合いである芦も見たことがない姿だった。似たような性格で、同じくらい単調な人生を送っていて、大体同じくらいのレベルで小心者ではあるのだが、どちらかといえば井雲の方が冷静で、お笑い芸人でいえば突っ込み側に当たる。
その為、芦が呆然とし、井雲が突っ込みを入れ、芦が嘆き、井雲が呆れるという流れがパターン化しているのだが、今回ばかりはそのパターン外の状態なのだ。井雲が茫然自失となり、芦が比較的冷静の状態。
・・・否、冷静というよりは、開き直っている、もしくは耐性が出来ている、というべきか。なんせ自分のケースと合わせて二回目、おまけに今回は他人事。井雲が少し前まで芦に対して冷静だったのと同じように、冷静でいられた。
「いっくん・・・、生きてる? 息、してる?」
「・・・」
「みぃ?」
「あ、大丈夫だよ、たぶん、息はしているから。心配ない、心配ない。息って、自動で吸えるモンだからさ。なんか、息が止まるほどって言うけど、あれって止まるの一瞬で、結構その後は普通に吸えちゃうだよね。人間の生存能力って凄いよねぇ」
「みぃー」
「だよねー」
動かない井雲の顔を一度覗き込み、正直に言えばそこまで心配していない生存状況を確認していると、いつの間にか井雲の手を放していた神様が、小首を傾げて二人の様子を眺めていた。向けられてくるその視線に余裕の笑みを返しながら、芦は自分の経験に伴う井雲の生存状況を語る。
そして語られた内容が分かったのかただ話しかけられたのが嬉しかっただけなのか、芦に向かって嬉しげな鳴き声を上げる神様に対して、分かってもらったのだと見なして同意の声を返した。
一人じゃない、これからは二人、混迷する道を一緒に歩いてくれる、もうどうあっても離れ離れになったりはしない、一心同体という単語はなんて心強いのだろう、これだけ心にゆとりを与えてくれるものだなんて・・・、と芦はその時、感動しきりの状態だった。
実は全く解決されていない芦自身の問題から目を逸らす、現実逃避の状態であるという事実など、完全に思考のゴミ箱に突っ込んで無視した状態でもあった。
色々捨てたゴミ箱に蓋をして、二度と出てくるなよと言い聞かせて、満足気に頷く。芦の精神がそんな状態だったその頃、短くも長い自我喪失から急激に復活してきた井雲がようやく我に返る。たぶん、沈みきった精神が底にぶつかり、跳ね返る形で急激に浮上してきたのだろう。数分間で跳ね返ってくるのだから、意外と浅い精神なのかもしれない。
しかし精神が浅いからといって、感情が薄いわけではない。・・・まあ、精神が浅いと決定したわけでもないのだが。
「・・・どうすんだよ、これ」
「あっ、戻った? お帰りー」
「・・・おっ、お帰りー、じゃねーよ! オマエ、マジ、どうすんだよっ、これ!」
「ってか、これってのが何だか分からないって。なに? 何の電話だったわけ?」
「懸賞が当たったんだよ!」
「え? 懸賞? って、そんだけ?」
「そんだけってレベルじゃねーよ! 時価、数億円のダイヤのネックレスだよ!」
「・・・」
「どーすんだよ! そんなモン! なんか、漫画とかアニメとかの女王様がつけてるみたいなネックレスだぞ! あの、シャンデリアみたいなヤツ!」
「・・・ってか、オマエ、何の懸賞送ったんだよ? 洒落でもそんな訳分からんモン、当たるような懸賞、送らないだろ」
「俺が欲しかったのは一等じゃなくて、三等のお一人様用炬燵だ!」
「・・・いや、だから何の懸賞? 一等と三等の差がありすぎだろ。つーか、その中間の二等は一体何が当たるんだ?」
「どーすんだよ! どーすんだよ! あんなモン、高すぎて貰えねーよ! 貰って良いのか分かんないしっ、怖すぎだっての!」
「あー・・・、だよなぁ・・・、分かる、分かる」
「ってか、貰ったとしてもどうしたら良いのか分からねー! 着けらんないし、部屋にだって怖くて置いておけないし! どんな強盗が入るか分かったもんじゃねーよ! 最悪、その強盗に俺が殺されるわ!」
「現金化しか手はないかなぁ?」
「どこで誰が現金化してくれんだよ! 質屋だって迷惑すんだろっ!」
どうすればいいんだよー! ・・・と絶叫し続けている井雲は、頭を両手で抱え、額を正座している膝に押しつけている。案外、身体が柔らかいんだなぁというどうでも良い感想とともに、芦は井雲が送ってしまったという謎の懸賞の主催者が気になって仕方がない。
一体どこの団体が、そんな億単位の商品を用意出来たのだろう、と。思い浮かぶのはテレビ局だが、今時のテレビ局がそこまで羽振りが良いとは思えない。スポンサーの意向だってあるのではないかとまで考えてしまう。
・・・って言っても、別に俺、テレビ局関係者じゃないんだけどさ。
何故かテレビ局側の考えをしてしまう自分に苦笑しつつ、芦はふと思い立ち、そっと神様の様子を窺った。自分の時は訴える相手がいなかったので殆ど黙って苦悩していたが、井雲は現在進行形で口に出して苦悩している。今更ながら、それが気になったのだ。
神様が、おそらく手当のお礼として井雲に与えた多大なるご利益。貰って良いのか苦悩している井雲の気持ちは、芦が一番良く分かっている。というか、芦にしか分からない。なんせ井雲は芦と同じく無神論者。おまけにやってあげたのは安易な同情に伴う簡単な手当。状況的には、芦と同じ。
つまり齎されたご利益が大きすぎて、簡単には受け取れない、ということ。与えられたのを喜ぶには、与えられたモノが大きすぎるし、与えられてしまった側の芦達が小心者すぎる。
分不相応、天罰、そんな単語が前どころか前後左右を走り回っている姿が見えるほど、怖ろしい。
小心者の小市民にとって、当然の反応と主張。しかし与えた側である神様にしてみたらどうなのだろうと、その時になってようやく気になり始めたのだ。善意で与えてくれたのに、嫌がっているようにしか見えない反応をしているのだ。
勿論、本当は嫌がっているわけではない。普通に生きていれば、ましてや芦達のようにだらだらと生きていれば決して手に入らないような金額なのだ。無意味に散財しなければ、慎ましく暮らしていれば、一生だらだら生きていけるかもしれない金額なのだ。嫌なわけがない。
ただ、そう、ただ・・・、素直に貰えるだけの根性が持てない、というだけで。
でも今の井雲の反応はそんな細かな機微に気づかない者から見れば、嫌がっているようにも見えてしまう。そして神様が人間の細かな機微を分かってくれるかどうかは分からない。せっかく神様が与えて下さったモノに対するクレーム。天罰、の一言が脳裏を横切り、芦はそっと、傍に座ったままの神様を窺って。
「みぃ!」
・・・物凄くご機嫌な神様の姿を見つける羽目になる。どうやら神様は細かな機微どころか、大雑把な機微も理解していなかったらしい。もしかすると、人間如きの発言は理解するに値しないのかもしれない。さもなければ言葉自体を理解していない可能性もある。相手は神様、しかも子供なので。
何か楽しそうに騒いでいる、ぐらいの解釈しかしていなさそうな顔で楽しそうに、嬉しそうに笑っている神様は、井雲が困っていることを全く理解していない。むしろ喜んでもらえて何より、みたいな空気が漂ってる。
これだけ困惑を見せつけても分かってもらえないことにある種の虚しさを感じるのと同時に、不届き者としてすぐに天罰が下る心配はなさそうな様子に安堵を覚えた。井雲良かったな、と心の中で贈った祝福・・・、を察したわけでもないのだろうが、頭を抱えて騒いでいた井雲が突然、顔を上げた。
「・・・どうしてくれる? オマエの所為だぞ?」
「あ、そこに戻ってきたんだ・・・、ってか、まぁ、俺が少々関わっていることは否定しないけど、直接的には自分の所為じゃね? ご利益って、自分の行為に対して贈られるんだろ?」
「俺の行いが直接原因ってのは否定しないけどっ、オマエが俺を呼び出して巻き込んだりしなければ、そんな原因も生まれなかったんだよ! つまりそもそもの原因はオマエだろっ!」
「まぁ、まぁ、もう起きちゃったことはしょうがないだろ? 後ろより、今は前を向こうぜ!」
「もう自分一人の問題じゃなくなったからって、爽やかそうな顔してんなよっ! 言っておくけど、問題が二人分に増えただけで、根本的には何も解決してないんだぞっ!」
「一人じゃないって、こんなに心強いもんなんだなぁ・・・、友達って、良いもんだな」
「友達の定義、間違っているぞ! 友達だからこそ巻き込みたくないってのが本当の友情ってモンだろ!」
「みぃ!」
「そうだよな! 神様もそう思うだろ!」
「・・・いや、気持ちは分かるけど、神様、べつに同意して鳴いているわけじゃないと思う」
「知ってるよっ!」
何が何やら、という感じになってきていた。芦は何も解決していないのに妙に安堵して落ち着いてしまったし、井雲は当事者になってしまったことで混乱しきっているし、そんな二人の騒動を見つめる神様は騒いでいるという空気だけで楽しげにしているし、もうこの組み合わせではどうにもならないだろうと芦や井雲が心の片隅で思い始めたところで・・・、
再び、チャイムの音がした。
・・・広がった沈黙の重さを、どんな秤があれば量れたのだろうか? 少なくとも、芦の部屋にある秤では無理そうだった。というか、秤自体がないのだが。
しかしその沈黙の時間も僅か数秒のことで、芦と井雲は無言で視線を交わすと、先ほどまで答えの出ないやり取りを繰り返していたとは思えないほど簡単に意思の疎通を成立させ、お互いに一つ、了承の意味で頷き、すぐさま立ち上がって行動に移る。
足音を殺し、何故か中腰で玄関に向かう芦、同じく足音を殺し、突然の二人の動きに目を丸くしている神様を促すと再び唯一の個室へと誘導する井雲。二人とも、通常の半分以下の呼吸で、通常の倍以上の心臓の動きを補っている。
その為、末端に血が行き届かず、かなり冷たくなっているのだが、浮かぶあらゆる可能性で沸騰している脳はその事実に気づかない。
鳴り続けているチャイムの音が、気づかせない。
「・・・どちら様ですか?」
チャイムが鳴って、芦が応答をするまで、大体三分くらいだった。井雲は神様を連れて既に隠れていて、芦はドアに貼りつき、再び味わうかもしれない恐怖に震える身体と心を抑えつけつつ、覗き穴に目を押しつけている。
もしもそこで見えた姿があの恐怖の根源達だったなら、間違いなく芦は居留守を使っていた。たとえ在宅とバレていようとも、その所為でまた延々とチャイムを鳴らされようとも、決して応答しなかった。何故って、怖いから。
しかし今回振り絞った勇気でもって見た先には、あの言葉が通じそうにない目玉ではなく、ごく普通にチャイムを押している男の姿があったのだ。勿論、あの普通を装って道を色々外れているおっさんではない。もっと若い、芦達と同じくらいの二十代前半に見える男。格好もごく普通の、ジーパンに黒いシャツ、深緑のパーカーに麻布っぽいショルダーバッグで、特質的な部分はない。
だからこそ、芦は一応、応答した。しかし声には完全に不信感が滲んでいる。理由は一つ、どれだけドアの外にいる男が普通そうに見えても、芦には全く見覚えのない男だったからだ。
見覚えのない、若者らしい格好をした若い男が訪ねてくる理由なんて芦にはない。見覚えのない、スーツ姿の明らかなサラリーマンが訪れる理由なら、押し売りという立派な理由が思いつくのだが。
『あの・・・、ちょっと・・・、お願い、なんですけど・・・』
「は? お願い? ってか、アンタ、誰?」
『・・・宇江樹、です』
「ウエキさん? 俺、たぶん、アンタのこと、知らないと思うんだけど・・・」
『俺だって貴方のこと、知らないけど・・・』
「はぁ・・・?」
不信感丸出しの芦に対して、ドア越しにいる男は突然、お願い、なんて単語を口にし始めた。見た目は普通だが、言っていることはおかしい。素直に名乗っているようだが、名乗られたその名にも覚えがないのだから、名乗られたところで不信感が減るわけでもない。
芦はその時、決定的に後悔していた。勿論、見た目に流されて応答してしまった結果、また訳の分からない言動に巻き込まれてしまったからだ。
いっそ今からでも良いので無視してしまおうかとも思ったのだが、しかしそれが出来なかったのは、覗き穴から見つめる真面目そうなその顔が、目が、妙に思い詰めているように見えたからだ。
あの女達のように、おかしな方角を見ている目、というわけではない。そうではなくて、物凄く真面目に物事を考え、その結果、物凄く真面目に思い詰めてしまいました、みたいな目に見えたのだ。あと少し背中を押してやれば、自殺でもするんじゃないかと思えるような目に。
基本的な部分で小心者で、ある程度、善良な芦は、自分の言動の所為で死者が出てしまう可能性に目を瞑ることが出来ない。その為、芦を知らないという、芦も知らない相手の奇妙な発言を切って捨てることが出来ない。
ドアは開けていない、だから話を聞く程度なら大丈夫、そんな考えを心の支えにして、芦はドア越しにならもう少しこの見知らぬ男と会話らしきものを交わしてみようと決意のようなモノを抱いて・・・、いたら、とんでもない台詞がドアの向こうから芦に向かって打ち放たれた。ドアという物理的な存在に依存して、油断している芦の精神を打ち抜くように。
『あのっ、埋け火を授かる会にこれ以上、関わるのは止めてください! 迷惑なんですっ!』
きっぱりと、今まで口籠もった言い方をしていたのが嘘みたいな強い口調で放たれたそれは、ドアなんて存在を打ち砕くほど強い破壊力を持っていた。数秒間、芦の目を開いたまま固まらせ、瞬きが行われない故の乾燥で、涙が滲むほどの力だ。
しかし生理的な理由で滲んだ涙がやがて一筋の雫となって頬を伝い、それをきっかけにして芦の瞼は瞬きを思い出し、数回、視界をクリアにする為に繰り返され、取り戻した世界を認識した途端、芦は渾身の雄叫びをドアの外に放った。
「おっ、俺だって関わりたくないわ! あんな気味が悪いイカれた奴等になんかっに!」
渾身の力を振り絞ってしまえば、残るのは搾り滓だけなのかもしれない。芦はドアの向こうに反撃を放つのと同時に、その場に崩れ落ち、ドアに貼りつくようにして・・・、啜り泣く。
恐怖と混乱と怒りと虚しさが混じり合い、全ての緊張の糸が切れた瞬間だった。