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八百万が祭る お堂の中はお宝満載  作者: 東東
【第二章】お堂の先から神様襲来
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 二人の動きは、ほぼ同時だった。

 妙に角張った動きで顔を向けた先には、一体いつの間に注意が逸れていたのか、テレビから視線を離し、代わりに小首を傾げてドアを見つめている神様がいた。しかも、立ち上がっている。明らかに鳴り続けるチャイムが気になっています、あまりに気になるので、今からちょっと見に行こうかと思います、という態度で。

 そして容姿の異質さなど些細な問題だと思えるほど可愛らしい角度で首を傾けていた神様は、最初の一歩を踏み出してしまう。

 小さな、小さな一歩。ちょっとした好奇心だけで踏み出される一歩。しかし偉大な一歩だった。大きすぎる一歩だった。少なくとも芦と井雲にとっては怖ろしいほどの威力を持った一歩であり、恐怖の一歩であり、また同時に、硬直した芦達の時間を動かす強力な一歩でもあった。

 神様が小さな二歩目を踏み出したのとほぼ同時に、芦達は意思の疎通を目的とした視線を交わす。コンマ一秒の、無言の会談。

 苦悩に満ちたそれは、お互いがお互いの役割を嫌がり、しかし相手の役割も嫌がっている為、己に振られた役割を受け入れる以外の結論なく、決定する。最後に井雲が芦に顎の微かな動きで玄関を示し、芦が井雲にやっぱり顎の微かな動きだけでバス兼トイレの入り口を示して、終了した。

 会談の終了と神様の強大な三歩目は、全く同時だった。歩幅は小さくとも、すでに神様は芦達の目の前で、きょとんとした目をドアと二人に交互に向けてくる。

 アレ、なんですか? という目だ。もしくは、アレ、見に行きます、という目かもしれない。

 純粋で、キラキラした大きな紫の瞳。とりあえず、可愛い。しかし芦達はそのキラキラ輝く瞳の力に負けて、神様の気持ちのままに四歩目を許し、芦達を通り越すことを認める訳にはいかないのだ。

 ・・・そう、人間にも、神様に屈してはいけない瞬間、というのが確かにある。たとえば今の芦達のように、自己保身、という瞬間だ。

 芦は機敏に立ち上がり、井雲は膝立ちになって、神様に視線を合わせるようにして力の限り友好的な笑みを顔に貼りつける。神様は突然の二人の動きに目を丸くしているが、その神様に必死で貼りつけている笑みが剥がれないように気をつけながら、井雲はそっと、そっと、片思いの相手にだってそこまで気を遣いませんというくらいの気を遣って小さな肩を軽く押す。先ほど芦が井雲に指し示した、バス兼トイレの入り口へと促す為に。

 そしてその間に、芦は細心の注意を払って足音を立てないように気をつけながら玄関へ向かった。近づく玄関からは、相も変わらず一定のチャイム音が響き渡っている。既に時間にして、十数分以上経っているだろう。

 そろそろ近所から苦情が来るのではないかという可能性が一瞬、芦の中に浮かんだが、しかし次の瞬間には、おそらくこれだけ長時間チャイムを鳴らし続ける不審者に関わろうとする人は居ないだろうという結論に達する。自分なら絶対に聞こえない振りをするだろうし、と。

 達した結論と同じ行動が取れない悲哀を感じながらも、芦は玄関に貼りつき、一度後ろを振り向いた。見つめた先では、井雲が物凄い愛想笑いを浮かべ、こめかみから汗を流しつつ、神様を誘導している。

 誘導されている当の神様といえば、相変わらずきょとんとした顔をしたまま、それでも素直に井雲の指示に従っていた。とことこと音が聞こえるような足取りで歩き、とうとう狭い入り口へ至ったところで、神様は一旦立ち止まり、芦の方へ視線を向けた。丁度、そちらを見ていた芦と視線が合う。

 そしてしっかり絡んだ視線で、神様は・・・、にっこりと嬉しそうに笑って、小さな手で、大きく、大きく手を振って、井雲と中へ入って行った。

 極力静かに閉められた、バス兼トイレへの入り口のドア。この部屋の中で、辛うじて隠れられる、唯一の場所。そこに見られては拙いだろう存在を連れた井雲が入り、中から鍵も掛けられたのを確認した芦は、静かに一度、深呼吸をする。それからそっと覗き穴へ目を押しつけて外を窺い・・・、


「ひぃっ・・・!」


 窺った先に見えた目玉に、抑えきれない掠れた悲鳴を洩らす羽目になる。真っ黒な、目玉。どうやら向こう側から覗き穴に目玉を押しつけているらしいのだが、他人の目玉をそこまでマジマジと直視することなど平素はないし、何より、顔を見るつもりがデカい目玉だけ見えてしまえば、驚かずにはいられない。

 そして驚いた後には、背中を言葉にならない、得体の知れない恐怖が駆け上がってくるのを感じる。いくら何でも他人の家の覗き穴に目玉を押しつけているなんて、これはもう、一般的な常識を持った良識ある人間だとは思えない。

 少なくとも、芦はこんな行動を取る人間がまともな人間に分類されるとは思っていない。つまりドア一枚隔ててチャイムを押し続けているのは、まともな人間に分類されていない人間だ。所謂、放送禁止用語的な人種。

 冷や汗が全身に湧き出し始めているのを、芦は半ば他人事のように感じていた。おそらく精神的に追いつめられすぎていて、今起きたことは我が身に降りかかっていることではありません、と自分で自分を騙す機能が発動し始めていたのだろう。そうでもしなければ、次の行動が取れないので。

 次の行動・・・、そう、次の行動を取らなくてはいけないのだ、芦は。何故ならチャイムは未だに鳴り続けているし、隠れているだけで、見られてはいけない存在が芦の部屋の中にはまだいるのだから。

 逃げる事が出来ない以上、進むしかない。だからこそ他人事のように感じる精神を保ち、事態を深刻に捉えすぎないような精神も保ちながら、芦は静かに、静かに鍵を回した。勿論、チェーンロックは外さない。それさえ外さなければ、いざとなった時も身の安全は保てるはずだ。芦にとっては最後の砦。

 大丈夫、大丈夫と砦の存在を心の支えに、ドアノブを回し、ゆっくりと外に押し開く。少しずつ、少しずつ開いていくドア。チェーンが段々と引っ張られ、弛みを失い、一本の線と化していくのと同時に、その線を隔てて、外の世界が広がっていく。縦に、少しずつ、少しずつ、太く、太く。

 広がる世界に比例し、芦の心拍数は上がっていく。ただでさえ上がり気味だったのに、急上昇している。耳元で、心音が聞こえる。心臓は耳の傍にはないのに。あまりにも煩い音の所為で、広がった世界からの音が聞こえなくなっている。あの、チャイムの音も聞こえない。全く、聞こえない。あんなにしつこく鳴っていたのに。


「神と共に、我らはあります」

「ぎゃあーっ!」

「・・・あら、大丈夫ですか? お怪我は?」


 お怪我は、していたのかもしれない。なんせ芦はその時、細長く開いた世界に突如、姿を現したモノを目の当たりにして、驚きのあまり喉が引っ繰り返るほどの悲鳴を上げ、反射的にソレから距離を取るべく、大きく一歩飛び跳ねるように後退して・・・、玄関の段差に足を取られ、後ろ向きに派手な音を立てた尻餅をついてしまったのだから。

 足もかなり強く段差にぶつけていたし、尻餅をついた際、おかしな形に手もついてしまっていた。勿論、尻は硬いフローリングに強打している。これで痛くないわけがないし、骨に異常まではないだろうが、痣くらいはどこに出来ていもおかしくない。だが、芦は一切の痛みを感じていなかった。理由はただ一つ、全ての感覚が停止していたからだ。

 言葉にするのも怖ろしい、恐怖、というモノ以外は。


「お顔の色も優れませんね。もしかして、ご体調がお悪いのですか? それで、なかなか出ていただけなかったのですね? ・・・ふふ、ワタクシ、具合の優れない方に無理を強いてしまったのでしょうか? 神に仕える身でありながら、ワタクシはなんと罪深い者なのでしょうっ!」

「お狐様は何も悪くありません! 全ては神のお導き、これは神が与えたもうた試練なのです!」

「試練・・・、あぁ、そうですわね。ワタクシは神の忠実なる僕。なればこそ、与えられた試練を何としても耐えなくてはいけないのですね」

「そうですっ、その通りです!」


 いや、全体的に何もかもがアレなんだけど、とりあえず体調不良に見えるなら、そんでもってその体調不良の人間が引っ繰り返ったのを見たのなら、少なくともそうやって含み笑いするのは人としておかしいと思うんだけど。

 あと、隣でヨイショしてる男、オマエの役目がその女のヨイショなのは仕方がないかもしれないけど、これが試練とやらなら、受けてるの俺だろ? 痛い思いも怖い思いもしてるの俺じゃん。ソイツじゃないって。てか・・・、なんだか分からんけど、帰ってくんない?


『神様なら間に合ってるんで』


 ・・・というのが、狭い隙間越しに繰り広げられる、見覚えが有り過ぎるほど有る二人組による寸劇を目の当たりにした、芦の少々気が遠くなりながら抱いた率直な感想だった。感想、というより、反射的に抱いた痛切な訴えだったのかもしれないが。

 ただ、そんな感想や願いを抱いてしまうような寸劇ではあるが、芦にって、それは僅かながら意味がある寸劇でもあった。何故なら芦自身は自覚していなかったが、その寸劇を目にすることによって、直前に起きていた芦の中の恐怖によるパニック状態が一旦収まり、ある程度の冷静さを取り戻せたからだ。

 そして戻って来た冷静さは、いともあっさり芦の記憶と目の前の映像を照合する。物凄く見覚えがあるモノ。たった今、目にした寸劇が、もう気が抜けるほどお似合いすぎる・・・、その、二人組。

 黒一色の、容姿は平凡だが言動と世界観が平凡ではない女と、その女のヨイショをするのが似合い過ぎるほど似合っている、女を崇拝している僕というかお付き的な男。

 細く開けられている芦宅の玄関から見える世界に突如、君臨した二人組は、今朝方も見かけ、その際に芦に無責任なほどの責任感を背負わせた、あの男女二人組だった。緑から出てきて、訳の分からない行動を取り、意味不明な高笑いをして・・・、


 あの、緑の、お堂の、蛇の、神様の、


 いったんは収まった恐怖が、連想される単語の繋がりによって再び勢いを増して戻ってくるのを感じた。芦は、戻って来た恐怖によって全身が小刻みに震え始めるのをはっきりと自覚する。

 ただ取り戻していた冷静さはまだ、残っている。その残された冷静さが、この場でみっともなく大声を上げて離脱することを許してくれない。芦が今、背にしている方向に隠れている存在を、目の前の二人組の今朝の姿を、忘れた振りすらさせてくれない。

 どうして、この二人が、今、このタイミングでここに現れたのか?

 芦は最初、半ば無意識に、二人の来訪理由を単純な勧誘活動だと判じていた。押し売りよりずっとしつこい、信仰を、神様を理由にした勧誘。一軒一軒訪ね歩き、話を聞いてもらえるまで離れない。

 営利目的ではないので、時間が有限であることすら意に介さず、中にいる人間が出てくるまでチャイムを鳴らし続ける。そういう、迷惑な勧誘活動の一貫だと、そう思い込んでいたが・・・、これはそんな、生易しい状態ではないのではないか、という疑問が生まれていた。

 芦の目は、唯一の救いでもあるチェーンに向かう。叶うものなら、チェーンだけではなく、ドアを完全に閉めて鍵を掛け、警察を呼んでしまいたい。しかし気がつけばヤクザ宜しく開いてしまったドアの隙間には女の足が挟まれており、ドアを閉めることすら出来ないし、本当はドアを閉めるどころか、近づきたくもない。

 ・・・男は、本質的にか弱い生き物なのだ、たぶん。


「あの、本当にお怪我など、なさっておりませんか? もし立ち上がれないようでしたら、救急車などお呼びしますけれど?」

「・・・あ、いえ、大丈夫です」

「立ち上がれそうですか?」

「あー・・・、はい、なんとか・・・」

「そうですか、それは良かったですわ。それでは・・・、こちらのチェーンを外していただけますか?」

「・・・え?」

「ワタクシどもは、神の定めに従い、貴方様にその定めを告げなくてはいけませんの。ですので・・・、こちらのチェーンが少々邪魔なのですわ。神の厚き御心により・・・、どうぞ外して下さいませ」


 どうやら寸劇は終わっていたらしく、芦に怪我の有無を再び尋ねてきた女の様に、芦は一瞬、彼女達を普通から外れた者として認識していたことを忘れ、もしかして意外と良い人なのかもしれないと思いかけた。

 しかし幸か不幸か、その思いは本当に一瞬で霧散し、芦の警戒心は再び最高レベルまで引き上げられることになる。なんせ、最終的に言っている意味が分からない謎の場所に到達するのだから、当然と言えば当然の結末だった。芦は本質的にか弱い男という生き物の中でも、特にか弱いメンタルを持っているのだから。

 全身からじわじわと滲み出ている冷や汗。背筋を何度も行き交う悪寒。脳内を空回りする思考。方々へ揺らぎながらも、完全に外したら何が起きるか分からなくて外せない視線。芦は辛うじて思考力を維持しながらも、一体何をどうするべきか、判断出来ずにいた。

 勿論、相手の要求、最後の砦でもあるチェーンを外す、という選択肢だけは断固として有り得ないのだが。

 岩のように不動とも思える重い、重い沈黙が数秒。芦の顔にはいつの間にか引き攣った笑みが貼りついているし、女の顔には最初から謎の笑みが浮かんでいる。ついでに言えば男の方にも陶酔した笑みが浮かんでいて、その視線は芦ではなく、女に向いている。・・・両手が胸の前でお祈りポーズになっているのが、相当怖い感じだ。少なくとも芦は恐怖を感じずにはいられない。


「芦様」

「はっ、はいっ? ・・・って、え? なんで、俺の名前・・・」

「いえ、こちらに表札がありますので。芦様、で宜しいのですわね?」

「あ、まぁ、そうなんですけど・・・」


 動かないはずの沈黙が、突然、女によって動かされ、それが教えた覚えのない自分の名を呼ばれる、という動かされ方だった為、芦は驚きのあまり引っ繰り返った声を上げてしまった。

 一体何故、と無意識で零れた疑問に女が平然と返した答えに、意外と冷静なんだな、という感想を抱きながらも口にした肯定が渋々とした色合いを含んでいたのは、自分の個人情報が彼女達に知られるのがかなり怖ろしく感じられたからだ。たとえそれが、家の外にまで張り出してしまっている個人情報だったとしても。


 ・・・なんか、名前書いた札に釘とか打たれそう。


 気がつけば鳥肌まで立っている腕を左右交互に摩りながら、引き攣った顔で頷きながら抱いた感想は、何故か丑の刻参りのイメージ。芦自身、関連性はないと思うそのイメージを払拭出来ないでいる間にも、明らかに引いている芦の様子など意に介さず、女は再び口を開く。

 隣の男同様、胸の前で両手を握り合わせるお祈りポーズを作って。


「芦様、どうぞお立ち上がり下さい。ワタクシ達は、何者も隔てぬ場所で語り合わなくてはいけないのですわ。その為にも、芦様、貴方は今こそ立ち上がらなくてはいけないのです」

「え、あ、いや・・・」

「たとえどれほど困難であろうとも、今がその時なのです。さぁ、持てる力を振り絞って、立ち上がりましょう! ワタクシ達の祝福された未来への扉を開き、そこへ至るべき第一歩を踏み出すのです!」

「・・・あの、なんか、たぶん・・・、立派なこと、言っているんだと思うんですけど・・・、俺、あの、本当に悪いんですけど・・・、よ、よく知らない人、いやっ、あくまで知らない人ってことで、貴女達がどうって言っているわけじゃないんですけどっ、あの、とにかく、会ったばかりの人を家に入れちゃいけないって・・・、そう、言われてて・・・、」


 だから本当に申し訳ないんですけど、ちょっと開けられないんです・・・、という台詞が、芦の精一杯の抵抗を結ぶ言葉だった。両手は何かを押し戻すように前方へ突き出し、私は決して貴女達に悪意があるわけではありませんという主張として何度も左右に振り、それでいて、決して立ち上がったりはしない。視線を合わ続ける勇敢さも持ち合わせていないので、宙を彷徨い続けている。

 本当は、芦の内心ではもっと沢山の言葉が溢れていたのだ。オマエ達と語り合いたいことなんて一つもない、立ち上がりたいけどそこにオマエ達が貼りついているから怖くて立ち上がれない、立ち上がったとしても踏み出す一歩はそのドアを完膚無きまでに閉める道以外有り得ないし、そもそもこのドアの外に今広がってるのは俺にとっては僅かな救いすらない暗黒の未来じゃ! ・・・等々、本当に色々な言葉があった。

 口にした言葉より詰まっていた。ただそれらの言葉達は恐怖のあまり、芦の喉から一歩たりとも勇敢なる道を踏み出そうとはしなかったのだが。

 芦はその時、額を流れる汗を、背中に貼りつくシャツの感触を、耳の奥で大合唱をする脈拍や心拍を、どこか超人的なまでにリアルに感じ、聞いていた。そして自分の内と外を同時に感じながら、芦はいつの間にか自分の手が女達と同じように、胸の前で組み合わされていることに気がついた。それも、きつく、きつく、爪が食い込むほどの力で握り締めて・・・、知らぬ間に、祈っていたのだ。

 背後に隠した神様ではなく、どこのどなたとも知れぬ、何か漠然とした神様に向かって。

 今まで信じてもいなかったので、敬ったこともなければ、賽銭すら渋って投げ入れたことが殆どなく、これぞ本当の『困った時の神頼み』の見本のような状態だが、芦は本気だった。本気で、祈っていた。なんせ本気で、本当に困っていたからだ。

 しかし神様は、困っているからといって捧げた打算的な気持ちでは助けてくれないらしい。小さな親切心で差し出したものならば、たとえ廃棄弁当の唐揚げでも畏れ多い恵みを与えてくれるものらしいが。


「芦様」

「はっ、はい!」

「ワタクシ達、お会いするのは・・・、初めて、でしたかしら?」

「・・・え?」


 与えてもらえなかった救いの代わりのように、女はじっと芦を見つめながら笑みを刻んだ口元から、芦に意識喪失の危機を与えてくれる。柔らかな声でのその問いかけを切っ掛けに、今にも高笑が聞こえてきそうだった。あの、朝方の光景のように。

 芦はまだ聞こえてきていない、かつて一度聞いた笑い声を耳の奥で再び聞きながら、必死で考えた。問いの、意味。ただの妄言なのか、それとも明け方、覗いていたことに気づかれていたのか、もしかすると先日気味悪げな顔をして隣を通り過ぎたことを言っているのかもしれない、と。

 喉がからからに渇き、舌が貼りつく。祈りの手は外れることなく未だに祈っており、せめてこれ以上事態が悪化しませんように、という切実な願いが込められている。

 困った時の切実な神頼みが聞き届けられるべき願い事なのかどうかは、やがて静かに答えが出始める。何故なら芦が目を逸らしていた存在は消え去ることなくそこに在り続け、芦を更なる『貴方の知らない世界』に引き摺り込んだからだ。つまり、神は芦の願いを受け入れる気がなかったらしい。


「芦様は、ワタクシ達の神を感じておられる、ワタクシ達の新たなる同志かと思うのですが・・・」


 如何でしょう? ・・・と続けられた台詞に、芦はあと少しで絶叫を上げるところだった。しかもあまりに動揺が激しい為、何故自分がそこまでの動揺をしているのか理解出来ない状態のまま、叫び出しそうになっている。

 勿論、すぐに理解した。何故、自分がそこまで動揺しているのかを。そして理解した途端、今すぐにここではないどこかへ逃げ出したくなっていた。

『ワタクシ達の神』と口にした女。今朝方、緑から出てきて狂ったように笑い出した女。何より、突然この場所にやってきた女。指し示している存在は、芦にはただ一つだとしか思えない。何故なら今、この部屋の中に確かにいるのだ、神様が。あの、狂ったように笑っていた女の背後の緑にいたのだろう、神様。小さな、小さな蛇神様。

 もしや、もしや、もしや・・・、と何度も『もしや』を自分の中に積み重ねてしまった芦は、その時、前も後ろも視線が向けられない、という状況下に陥ってしまう。芦の中に積み重なってしまった疑惑は、家の外にも中にも芦の安らぎが存在しない状態を造り上げてしまったのだ。

 特に、今は家の中に対する不安が強い。強いが、しかし・・・、強まる度に思い出される小さな姿に、芦は自分で抱いておきながら、その疑惑自体に疑問を抱かずにはいられなくなる。

 疑惑に疑惑を重ね、身動き一つ出来ないほど迷走する。迷走しながらも、見上げてくる嬉しげな、無垢な瞳を、あの愛らしさを疑いきれない。


「芦様・・・、どうぞこちらをお開けくださいな。じっくり、お話いたしましょう・・・、ふふふっ」


 あぁ、きっとあの小さな神様は騙されているんだ、そうじゃなかったら、唐揚げを信じて俺の元に逃げて来たに違いない・・・、疑惑の中で木の葉のように翻弄されている芦の耳に聞こえてきた、女の笑い声。

 鳥肌が爆発寸前まで強まるのを感じながら、芦は皮肉にも、その笑い声のおかげで小さな神様に対する哀れみを感じ、貰い泣きしそうになりつつ、山のように積み上がってきた疑惑の海を抜け出すことに成功したのだった。


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