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「・・・で、オマエは大事なはずの親友をこんな訳が分からない事態に巻き込むことに対して、良心の呵責を感じないのか?」
「・・・俺としては、むしろオマエに親友が迎えているピンチに対して憐憫の情を抱いて、是非力になりたいという友愛を示してほしいんだけど」
「無理」
「・・・オマエな」
「逆の立場だったら、どうなんだよ」
「・・・俺を巻き込むな、的な」
「ほら、見ろ」
「じゃあ、オマエが今、俺の立場だったらどうよ?」
「・・・親友なら、俺を助けろ、的な」
「だろ?」
「・・・」
「・・・」
「・・・でも、今の俺の立場は巻き込まれた側だから」
「オマエなっ!」
通話を終えてから約二十分後。約束通りやって来た井雲を、芦は今までの人生で有り得ないほど歓迎した。
ドアを開け、その姿を見た途端、力一杯抱きつき、井雲の背中に回した手を放さずに半ば引き摺り込むようにして玄関に連れ込み、そうかと思うとすぐさま鍵を掛け、しっかりチェーンまで掛けると再び両手で井雲の腕を掴み、部屋の中へと連れ込もうとする。
その時点で、井雲の顔は充分すぎるほど引き攣っていた。高校時代からずるずるとつるんでいるので、芦が積極性に乏しく、過剰なジェスチャーをするタイプではないことはよく知っているのだ。
その芦が、あんなに切羽詰まった電話をしてきただけで多少の嫌な予感はしていた。してはいたが、しかし実際に本人を前にして、その異様なテンションを目にしてしまうと、多少だった予感を確固とした確信に変えざるを得なかったのだ。それも当初予想していたレベルより遙かに高いレベルとして。
正直、井雲はレベルが補正された時点で、靴を脱がずに帰ってしまいたかった。ただ井雲にとっては残念なことに、逆に芦にとっては幸福なことに、その時点では抱いた確信の内容が全く分からず、その所為で有らん限りの力で部屋の中に引き摺り込む芦の手を振り払うだけのモチベーションを持てなかったのだ。
そして芦は井雲を何としても巻き込みたいという強力なモチベーションがあったわけで・・・、二人のモチベーションの違いが、その後の結末を決めてしまった。
つまりは現在の、テレビに向かって座っている小さな神様の真後ろに、正座をして芦と井雲、二人並んで座って物凄く大人げなく、虚しい言い合いを行う、という状況だ。お互い、一応は心の片隅で自身の発言の虚しさや愚かしさを自覚している為、音量はとても静かではあるのだが。もしくは、楽しげに画面に釘付けになっている神様の邪魔をしたくない、という理由もあったのだろうが。
・・・主に、邪魔したら何が起きるか分からん、という腰が引けた理由が。
「・・・ってか、何故、芸能ニュース?」
「・・・いや、最初に点けた時は、普通の、真面目なニュースが流れてたんだけど」
「真面目なニュースも、どうかと思うけど・・・、面白いか? それ」
「面白いとは思わんけど・・・、芸能ニュースよりマシだろ?」
「つーか、何故ニュース」
「点けた時にこのチャンネルだったんだよ。ってか、どのチャンネルならいいのか分からんし」
「・・・うん、まぁ、そうだな」
会話の最中も逸らせられない視線の先に座っている神様が楽しげに見つめている画面は、いつの間にか芸能ニュースになっていた。しかも内容は不倫疑惑を追及する、的な内容だ。
これは子供としても、神様としても適切な内容だとは思えないのが、見ている神様自身が喜んでいる以上、チャンネルを変えるわけにもいかない。
芦としては、井雲に指摘されるまでもなく、変えられるなら変えるべきなんじゃなかろうかと思わなくもないのだが、変えられないのだ。だって喜んでいるのだ。それなのにもし芦の道徳観念で勝手に変えてしまった場合、怒りを買わないとも限らない。このまま不適切な番組を見せ続けて、親御さんの怒りを買わないかどうかも心配なのだが。
現在進行形で新たに生まれている問題に少々心拍数を上げながらも、人間二人の間に暫しの沈黙が流れる。
その間に芸能ニュースは不倫問題からは離れてくれたのだが、次の話題として流れ始めたのが芸能人が酒に酔って一般人を殴ったとかいう不祥事なのだから、不倫と大して変わらないほど不適切さだ。芦としては、どうして芸能人って奴はこうなんだと物凄く良識的な、高潔な人のような感想を抱かずにはいられない。
普段は芸能人の不適切な関係や、引き起こされる不祥事をにやにやして見ているタイプなのだが。
その普段の不謹慎な自分を封印し、流れ続ける不適切な内容からも意識を逸らし、芦は静かに身体の体勢を少しだけ変える。右側に心持ち身体の向きを変え、『どうやってここから離脱しよう?』という考えで一杯になっているのが丸わかりの井雲の腕を再び掴み、その途端に肩を大きく跳ねさせた井雲に向かって、ゆっくりと口を開いた。
神様を視界に納めた途端に芦と同様、思考やその他諸々が固まってしまった井雲には、今朝方からの一連の出来事を順を追って怒濤の様に話してあった。
思考が停止している為、聞こえてくる話を拒否することも出来ず粗方聞いてしまった後、深く、深く後悔しつつ、先ほどの親友である自分を巻き込む非情を訴えていたわけなのだが、しかし実は芦はまだ最終的な結末の一部を語っていなかった。
結末・・・、つまり芦がこの小さな子を神様と断じるに至った事件のことだ。
井雲には順を追って話をしながらも、結末である『目の前のお子さんは朝方に唐揚げを差し上げてみた小さな黒蛇の神様です』ということは伝えてあった。しかし何故確信を得たのか・・・、というより、薄々分かっていた結末を何故認めるしかなくなったのかは告げていない。告げる前に井雲が一応の機能を取り戻し、芦にクレームをつけてきたからだ。
その為、今から語っていなかった部分を語る為にも、井雲を拘束しなくてはいけなかった。正常な思考回路が戻っている奴が逃げ出さないように。
「聞け」
「・・・分かった。だから手を放せ」
「無理。オマエ、聞きたくないからとりあえず手を放させようとしているだろ?」
「・・・なぁ、オマエは親友が信じられないのか?」
「親友って、信じる友って意味じゃなくて、誰よりも相手を知っている友って意味だと思う」
「・・・俺、オマエと友達止めてぇ」
「唐揚げのお返し的なご利益で、宝くじの一等が当たった。ウン億円。これ、どうしたらいいと思う?」
「はぁっ? テメェ! いきなりとんでもない暴露すんなよ!」
「有り得ん金額当ててくれたから、間違いなくあちらに鎮座坐すのは、有り難き蛇神様でござーいぃー」
「まぁそうだろうな! ってか、突然変な敬語使うな! オマエ、誰の目を気にしてんだよ! つーか、微妙にやけくそになってるだろ!」
「やけくそっていうか・・・、いや、マジにどうしたらって感じなんだけど・・・、廃棄弁当のお礼であんな金額の番号当てられちゃってさ、これ、うっかり貰っちゃったら親の神様とかに物凄い天罰当てられそうな気、しねぇ?」
「・・・欲深い人間って、童話とか昔話でも、最終的に天罰が当たるって展開になっているからな。ってか、そういう人間の本性を見る為に、態と凄いモンを一旦渡す、みたいな話しもあるしな」
「だよな・・・、やっぱ、そういう感じになるよなぁ・・・」
静かに始まった言い合いは、全体的に音量を必死で抑えたものになっていた。途中の井雲の雄叫びすら声自体は抑え気味だったのは、今もテレビに夢中の神様の注意を引かない為だ。なんせ、話している内容が神様の行動をどう思うか、に近いものなので、聞かれてしまうは何となく、拙い気がしていたのだ。
しかしそうして抑えながら話していた内容は、芦にとっては残念ながら、事態を解決に近づけるものではなく、むしろ怖れている考えを全力で肯定するものでしかなかった。
話を聞きたがっていないながらも、井雲が一応は述べてくれた意見は芦の危惧を肯定するものだし、おまけに友情にほどほどの熱さしか持ち合わせていないらしいその井雲は、相変わらずこの場を離脱したいという明確な意思を至る所に滲ませているのだ。この場から逃げ出して、俺は何も関係ありません、という形に持っていきたいという意思を。
・・・そんなこと、許してたまるか、という力の限りの決意が芦にもある為、必死に掴んでいるその両手が離れたりはしないのだが。
出てしまった結論、無言のまま続く攻防、縋る腕を振り払おうと必死の男と、男に縋る他に道は無いと言わんばかりにしがみついている男、そして先ほどまで流れていた芸能ニュースについて意見や感想を交換しているらしい人々の話を、何故か何度も、何度も深く頷きながら聞いている神様。
何がそんなに楽しいの? 人間のゴシップって面白い? ・・・等々、井雲との無言の攻防を続けながら芦が頭の片隅で浮かべてみる疑問。本気で問い質したいわけではないのだが、こんなモノを見せて、人間の品位を落とさないか、もしくは神様の品位を落としてないかが少々心配にならないでもない。
かといってチャンネルを変える勇気が沸き上がってくるわけでもないのだが。
もしもそのまま特に何の変化もなければ、この状態が相当長い間、続いていただろう。なんせ芦と井雲、双方とも折れる気がなく、神様は背後の攻防にひと欠片も気づかないほど、テレビ画面に夢中だったからだ。それはある意味、平和な光景だったのかもしれない。芦も井雲もどうしようもないほど困っていたし、焦ってもいたが、深刻な、ともすれば死ぬやもしれぬという精神状態ではなかったのだから。
しかしそのどうにか保っていた均衡、ある意味の平和はとてもあっさりと壊されてしまう。聞こえてきた、本日三度目のチャイムによって。
「・・・おい、誰だ?」
「知らん。ってか、ウチに来るのってオマエくらいだし」
「宅配とかじゃなく?」
「いや、違うと思う。実家からの定期便も、この間きたばっかりだから・・・、あんまり来ないけど、セールス、とか・・・」
「ってか、どっちにしろ今はヤバイだろ? 玄関からここ、結構見えるぞ」
「そこのドア、閉めれば良くね?」
「まぁ・・・、でも、磨りガラスだよな?」
「ちょっと不安か・・・、居留守、使うか」
「だな」
聞こえてきたチャイムの音に、自然と成り立った休戦。ひそひそと交わされる会話は、突如、訪れた訪問者への心当たりと対応策。
しかし訪れたのが誰であったとしても、今、招き入れるのはリスクが高すぎるという結論に達した二人は、最後はお互いの目を見つめ合ったまま、無言で頷き合う。ここには誰も居ないのです、とお互いに言い聞かすつもりで。
その会話が交わされている間も、チャイムの音は一定間隔で続いていた。機械的なほど等間隔に、けれどどこか執拗さを感じさせるほど、延々と。会話が終わった直後は、すこし待てば止むだろうと軽く考えていた二人の間に、次第に異様な空気が流れ始めた。
それは重々しくも冷たい空気だ。触れられると、鳥肌が立つようなモノ。しかも時計の針が一つ進む度に、明らかに重さも冷たさも増している。理由は明快、音が鳴り止まないからだ。
・・・しつこいセールス、というのは確かにいる。それは間違いない。ましてや冷静に考えれば、今現在、この部屋ではテレビが点いているのだ。つまり耳を澄ませばその音が聞こえる状態。ドア一枚では、テレビから流れている普通の音量は遮れない。
だから部屋の中に誰か居る、と確信することは可能だろう。そうなればノルマが厳しいセールスなら、一縷の望みをかけてチャイムを鳴らし続けることもあるかもしれない。いや、あるだろう。あるだろうが・・・、こんなに延々と鳴らすものだろうか?
いや、鳴らさない。いくらしつこいセールスでも、ここまでじゃない。って言うか・・・、なんか、しつこさの種類が違う気がする。
芦の中に、ある種の予感が生まれる。これは違う、という酷く漠然とした予感が。
そしていつの間にかドアの方に向いていた視線を井雲に戻せば、流石親友と言うべきか、全く同じタイミングでやはりドアに向けていたらしい視線を芦に戻していた。図ったかのように絡んだ視線は、未だ掴んだままの手、掴まれたままの腕の関係とは違い、互いに離すことを厭うようにしっかりと結ばれる。
双方の瞳には、微かな恐怖が滲み始めていた。そして同時に、互いに問いかけてもいた。なんか変だよな? という酷く漠然とした問いを。なんでこんなにしつこいんだ? というどちらも答えの出せない問いも。
・・・チャイムは、鳴らされ続けている。しかも鳴り始めた当初から変わらぬ間隔は、今もって微塵も変化がない。その漂わせている恒久性が、二人の瞳に更なる恐怖を呼び起こしている。
強まる恐怖に、二人は答えを見つけ出す努力を放棄し、どうすべきかという結論すら無言のまま、互いに押しつけ合っていた。起きている硬直状態は互いだけでは抜け出せないという意味において、チャイムが鳴り響く前と同じ状態とも言えた。
それはこれ以上何も起きなければ、たとえチャイムが鳴り続けようと、二人は自分達の力だけでは状況に変化を加えようとはしなかった、ということだった。ただ、均衡というものは必ずいつかは破れるもので。
「みぃ・・・?」
小さな、小さな鳴き声。テレビの音量に完全に負けているそれは、しかしその場で互いに色んなモノを押しつけながら、ひたすらに硬直しているだけの二人の耳には肩が跳ねるほどはっきりとした音量で聞こえていた。
それはもう、盛大な、テレビの音以上に外に漏れているのではないかと思えるほどの音量に聞こえていた。